第九話:白紙の結論、あるいは甘美なる降伏

 文化祭。それは学校という閉鎖系において、平時では許容されない過剰な熱量が公式に認められる、いわば「合法的な無秩序」の祭典だ。  


 校内には安っぽいクレープの匂いと、素人が調整したスピーカーからの不協和音が満ち溢れている。本来の僕なら、この高エントロピーな空間から一刻も早く脱出し、図書室の隅でエントロピーの増大を嘆いているはずだった。


 だが、僕は今、展示発表用の壇上の袖で、真っ白な原稿を手に立ち尽くしている。


「……九重、どうした? 出番だぞ。お前の『恋愛感情の非合理性に関する考察』、楽しみにしてたんだからな」


 実行委員の佐藤が、どこか同情と期待の混じった複雑な表情で僕を突っついた。  


 僕は答えなかった。答えられなかった。  


 僕が数ヶ月かけて積み上げてきた論理の城は、二人の幼馴染という「不確定要素」によって、跡形もなく崩壊していたからだ。


「燈君、見つけた。……やっぱり、ここで悩んでたんだね」


 右側から、柔らかな、けれど全てを見透かしたような声。  


 永遠だ。彼女は今日のために用意したらしい、フリルをあしらった華やかなメイド服――クラスの出し物だろう――に身を包んでいた。その光り輝くような可憐さは、薄暗い舞台袖を昼間のように照らし出している。


「……九重。無駄な足掻きはやめなさい。あなたの思考回路(ロジック)は、既に私たちが書き換えてあるわ」


 左側から、凛とした、そして有無を言わせぬ支配的な響き。  


 栞は、図書委員としての誇りを感じさせるシックな執事風の衣装を纏っていた。その気高き佇まいは、まるで僕という獲物を追い詰めた後の、勝者の余裕に満ちている。


「永遠……栞……。僕は、この論文を完成させることができなかった。愛とはバグであり、排除すべきノイズだと証明するはずだったのに……」


 僕は自嘲気味に、白紙の原稿を握りしめた。  


 僕が孤独を愛そうとするたびに、永遠の温もりがそれを溶かし。  

 僕が自律を志そうとするたびに、栞の完璧な管理が僕を思考停止へと誘った。  


 僕の知性は、彼女たちの「愛」という名の包囲網の前で、一歩も進むことができなくなっていたのだ。


「いいんだよ、燈君。論理なんて、私たちが一緒に壊してあげたでしょ? 燈君はただ、私たちが作る世界の中で笑っていればいいの」


 永遠が僕の右腕を、柔らかく、けれど強固に抱きかかえる。


「そうよ、九重。あなたは自分一人で完成する必要はないわ。私たちがあなたを補完し、調律し、完璧な存在にしてあげる。……それが、あなたの選ぶべき『最高の合理性』だと思わない?」


 栞が僕の左腕を掴み、その不遜なまでに美しい瞳で僕を射抜く。    


 舞台の幕が上がる。  


 照明が僕たち三人を、逃げ場のない光の渦の中に晒し出した。  


 客席には、佐藤をはじめとするクラスメイトたちが、息を呑んでこちらを見上げている。


 僕はマイクの前に立った。  


 手元の原稿は白いままだ。  


 僕はそれを、ゆっくりと、けれど確かな意思を持って破り捨てた。


「――発表内容を変更する。……愛とは、論理で解体すべきバグではなかった。それは、抗うこと自体が非効率な、絶対的な引力だ」


 僕の告白に、会場が静まり返る。  


 僕は左右に控える二人を見つめ、そして、自らの知性の敗北を公に宣言した。


「僕は、彼女たちから逃げることを放棄する。彼女たちに管理され、支配され、愛されること。それこそが、僕という不完全なシステムが辿り着いた、唯一無二の正解だ」


 一瞬の沈黙の後、会場は阿鼻叫喚の嵐に包まれた。


「……おい。……マジかよ九重! 告白じゃねえか! 全校生徒の前で『俺はあいつらの所有物です』って宣言しやがったぞ!」

「爆ぜろ! 爆ぜろ九重! 二人に挟まれてそんな幸せそうな顔しやがって! その独占欲の塊みたいな二人に一生飼い殺されてろ!」

「羨ましい……いや、もうここまで来ると怖いよ! 物理的な地獄(ハーレム)じゃねえか!」


 佐藤たちの絶叫。嫉妬、憤怒、そしてわずかばかりの畏怖。  

 だが、僕を挟む二人の少女は、その雑音さえも心地よい祝福であるかのように、より一層僕へと密着した。


「えへへ、燈君。やっと言ってくれたね。大好きだよ」


 永遠が僕の肩に顔を寄せ、至福の笑みを浮かべる。


「よく決断したわ、九重。……さあ、帰りましょう。私たちの、調律された楽園へ」


 栞が僕の手を強く握り、誇らしげに顎を引いた。


 僕は、自分の人生という名の操縦桿を、二人の幼馴染に完全に明け渡した。  


 白紙の結論。  


 それは僕が辿り着いた、最も不合理で、最も甘美な、降伏の記録だった。

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