第八話:記録された僕のすべて

「自由意志」とは、人間が自らの行動を決定できるという概念上の仮説だ。  


 だが、最新の脳科学や心理学の知見によれば、人間の選択の多くは無意識下のパターンや環境からの刺激によって、事前に決定されているという説もある。


 僕は今、自らの人生が「自由意志」ではなく、高度に洗練された「推薦(レコメンド)」によって構成されているのではないか、という疑念に直面していた。


 休日の午後。九重家のリビング。  


 僕の両隣には、当然のように二人の幼馴染が陣取っていた。


「はい、燈君。そろそろ集中力が切れる時間でしょ? はい、どうぞ」


 永遠が絶妙なタイミングで、僕の口元に温かい飲み物を差し出した。  


 それはココアだ。しかし、ただのココアではない。  

 僕が小学生の頃、風邪を引いた時だけに作ってもらっていた、蜂蜜と隠し味のシナモンを特定の比率で配合した「あの味」だ。


「……永遠。なぜ僕が今、この味を欲しているとわかったんだ。自分でも自覚していなかったのに」


「ふふ、わかるよ。燈君、難解な数式を解いた後は、脳が特定の糖分を欲して、左の眉がほんの少しだけピクって動くんだもん。それが『あのココア』のサインだよ」


 永遠は満足げに微笑み、僕の口元を指先で拭った。  

 彼女の記憶力は、僕に関する事象に限定して言えば、スーパーコンピュータを凌駕している。僕が忘れてしまった僕自身の嗜好さえも、彼女は血肉の一部として保存しているのだ。


「九重。その計算式の三行目、昨夜のあなたならもっと簡潔に解いたはずよ。……ペンを置きなさい。今のあなたに必要なのは計算の続行ではなく、五分間の完全な思考停止(アイドリング)よ」


 左側から、栞が揺るぎない確信を持って僕のノートを閉じた。  

 彼女は僕の顔を見ることなく、僕が次に手に取ろうとしていた参考書を、既に元の棚に戻していた。


「栞、僕はまだ……」


「いいえ。あなたは、自分が疲れていることに気づかない癖がある。一時間前のあなたの筆圧と、現在の筆圧。その減衰率を計算すれば、継続が非効率であることは自明よ」


 栞は僕の左腕を取り、自らの膝の上に置いた。  

 彼女の指先が僕の手のひらをなぞる。それはマッサージのようでもあり、僕という個体のバイタルデータを読み取る儀式のようでもあった。


 僕は恐怖に近い感嘆を覚えた。  


 永遠が僕の「内面的な欲求」を記録しているなら、栞は僕の「外部的な行動パターン」を網羅している。


 僕の人生において、もはや「選択」というプロセスは不要になっていた。  


 僕が何かを欲する前に、永遠がそれを用意し。  

 僕が何かに躓く前に、栞がその石を取り除く。


 二人の幼馴染によって調律された僕の世界。  


 それは、究極に効率的で、非の打ち所がないほどに快適な「温室」だった。


「――おい。……見てみろよ。アレ……九重の家だよな?」


 不意に、庭のフェンスの向こう側から、聞き慣れた、けれど震える声が聞こえてきた。  

 偶然通りかかったらしい佐藤と、数名のクラスメイトだ。彼らは開いた窓から見える僕たちの様子に、白昼夢でも見ているかのような絶望の表情を浮かべていた。


「おい、冗談だろ。家の中でもあんな感じなのかよ……。永遠ちゃんが膝枕して、栞様が手をマッサージしてる……。九重、お前はどこかの国の王族か? それとも全人類を奴隷にした独裁者か?」


「佐藤、これは単なる幼馴染の効率的な……」


「黙れ! 爆ぜろ! 爆ぜろ九重! むしろその幸せの重力でブラックホールになって消滅しろ! お前を見てると、俺たちの『自由な日常』がどれだけ虚しいものか思い知らされるんだよ!」


 佐藤の慟哭が、静かな昼下がりの住宅街に響き渡った。    

 だが、永遠は楽しそうにクスクスと笑い、僕の髪を指で梳いた。


「みんな、元気だねぇ。ねえ、燈君。みんなは自由がいいって言うけど、私は燈君の全部を私が知ってる今のほうが、ずっと素敵だと思うな」


「ええ。……九重。あなたは何も考えなくていいのよ。あなたのすべては、私たちが既に『記録(アーカイヴ)』してあるのだから」


 栞の、気高くも絶対的な肯定。


 僕は悟った。  


 僕は彼女たちから逃げることなどできない。なぜなら、彼女たちは僕よりも僕のことを知っているからだ。  


 僕がどこへ行き、何を考え、どう絶望するか。  


 そのすべてが、二人の幼馴染によって構築された「九重燈という名の歴史」の中に組み込まれている。


 不自由だ。  


 けれど、自分という存在のすべてを委ねられるこの「完璧な管理」の中に、僕は抗いがたい多幸感を感じていた。    


 論理の防壁は、彼女たちの慈愛という名のデータによって上書きされていく。


「……わかった。五分だけ、思考を停止する。……後は、君たちの判断に任せるよ」


「ふふ、いい子だね。じゃあ、五分経ったら、とびきりのご褒美をあげる」


 永遠の声に、栞が満足げに目を細める。    


 窓の外で佐藤たちが叫んでいる「爆ぜろ」という呪詛さえも、僕にとっては遠い異世界の雑音にしか聞こえなかった。  


 僕は、彼女たちの用意した「完璧な僕」の中に、静かに溶け込んでいった。

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