第七話:感覚の飽和
夏の夜気というものは、熱力学的な不条理の塊だ。
アスファルトに蓄積された昼の残滓(ざんし)が、湿り気を帯びた風と共に肺の奥まで侵入してくる。立ち並ぶ屋台の騒音、立ち込めるソースの焦げた匂い、そして行き交う人々の放つ体温。
本来、静寂と秩序を愛する僕にとって、夏祭りは回避すべき「高エントロピーの戦場」であるはずだった。
「燈君、見て見て! こっちの金魚すくい、すごく賑やかだよ!」
右隣で、弾むような声が響く。
永遠は、淡い桃色の地にあやめの花をあしらった浴衣に身を包んでいた。普段の制服姿とは異なる、露わになった項(うなじ)の白さと、帯で強調されたしなやかな曲線。彼女が動くたびに、夏の熱気さえも甘い香りに塗り替えられていくような錯覚に陥る。
「……九重。足元に注意しなさい。この混雑の中では、一歩の判断ミスが物理的な接触(ノイズ)を招くわ」
左隣では、栞が静かに、けれど迷いのない足取りで僕の歩調を制御していた。
彼女の浴衣は、深い紺色に繊細な銀の刺繍が施された、夜の静寂を切り取ったようなデザインだ。凛とした佇まいは人混みの中でも気高く、その視線一つで周囲の喧騒を押し黙らせるような威風を纏っている。
僕は、そんな「陽」と「陰」の極致に両腕を絡められ、祭りの中心を歩かされていた。
「物理的な接触を回避しろと言うなら、まず君たちが僕の腕を解放すべきではないのか。これでは左右のバランスが悪く、重心移動に余計なエネルギーを消費する」
「ダメだよ、燈君。はぐれちゃったら大変だもん。……ね、栞ちゃん?」
「ええ。あなたが迷子にならないよう、私たちが常に座標を固定しておく必要があるわ。……大人しく、私たちの熱量に従っていればいいのよ」
栞が僕の腕を引く力を強める。
右からは永遠の柔らかな弾力と、高揚した鼓動が。
左からは栞の確かな肌の質感と、揺るぎない確信が。
視覚は極彩色の火花に、聴覚は喧騒に、触覚は二人の幼馴染の体温に。
僕の脳内の演算処理装置は、かつてないほどのオーバーフローを引き起こしていた。
「――おい。……見ろよ。アレ……九重だろ……?」
不意に、射殺すような視線が僕の背中を貫いた。
そこには、かき氷を片手に持った佐藤と、数名のクラスメイトが立ち尽くしていた。彼らの瞳には、もはや嫉妬を超えた「人類共通の敵」を見るような光が宿っている。
「夏祭りに、あの二人を連れて……しかも浴衣姿……? 九重、お前……。神様はいないのか? なんであいつの隣には、光の女神と闇の女王が同時に存在してんだよ……」
「佐藤、これは単なる幼馴染の伝統的な……」
「黙れ九重! 爆ぜろ! 祭りの火花と一緒に今すぐ夜空に消えろ! お前の存在そのものが、この夏の最大の不合理なんだよ!」
佐藤の慟哭に呼応するように、周囲の男子生徒たちからも「爆ぜろ」「塵になれ」「頼むから代わってくれ」という呪詛が波のように押し寄せる
だが、僕の隣にいる二人は、そんな雑音を完璧に無視していた。
「ねえ、燈君。あそこで花火が上がるよ。……一番いい特等席、栞ちゃんと一緒に予約(キープ)しておいたから」
永遠が僕の顔を覗き込み、潤んだ瞳で微笑む。
「九重。あなたの視覚は、これからの数分間、私たちが独占させてもらうわ。……余計なものは、何も見なくていい」
栞が僕の左手を自分の指と絡め、逃げ場のないほど強く握りしめた。
ドーン、と。
夜空を切り裂くような大輪の音が響く。
極彩色に染まる夜空、照らし出される永遠の柔らかな横顔、そして暗闇の中で銀色に光る栞の瞳。
二人の体温が僕の腕を通して心臓まで伝わり、僕の「知性」という防壁を、跡形もなく溶かしていく。
ああ、不合理だ。
論理的に考えれば、僕は今すぐこの包囲網を脱し、静かな自室へ戻るべきなのだ。 けれど、感覚の飽和。
二人の幼馴染に、思考も、感覚も、未来さえも塗り潰されるこの瞬間に、僕は抗いがたい「安らぎ」を感じてしまっていた。
僕の知性は、完膚なきまでに敗北した。
僕は、彼女たちの用意した「完璧な夜」の中に、深く、深く沈んでいく。
「……わかった。ただし、これ以上の過剰な演出は……控えてくれ」
「ふふ、どうかな? 燈君をドキドキさせるのは、まだ始まったばかりだよ?」
永遠の囁きが耳朶を打つ。
花火の閃光の下、三人の影は一つに重なり、祭りの喧騒の中へと溶け込んでいった。
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