第六話:共犯者のティータイム
「偶然」という概念を、僕はあまり信用していない。
事象の発生には必ず原因があり、確率の網の目を潜り抜けた結果として「今」がある。だとすれば、僕が忘れ物を取りに教室へ戻る途中で、誰もいないはずの多目的室から二人の声を聞いたのも、何らかの因果律が導き出した必然なのだろう。
少しだけ開いた扉の隙間から、穏やかな午後の光が漏れていた。
そこには、僕の日常の左右を占拠する二人の少女――永遠と栞が、向かい合って座っていた。
「……ねえ、栞ちゃん。昨日の燈君、ちょっと寝付きが悪かったみたい。左側の目元に、ほんの少しだけ疲れが出てたよ」
永遠の声だった。いつもの弾むような響きではなく、まるでお気に入りのアンティークを慈しむような、静かで濃密な響き。彼女は購買で買ってきたらしいティーバッグの紅茶を、栞のカップに丁寧に注いでいる。
「そうね。一昨日に私が貸した本の、第四章の論理展開に梃子摺(てこず)ったのでしょう。……九重は、納得がいかないと睡眠のリソースを削ってまで思考を止めないから」
栞が静かに答える。彼女は永遠が差し出したクッキーを一枚手に取り、優雅に口へ運んだ。そこには図書室で見せるような「不遜なまでの鋭さ」はなく、旧知の仲に対する深い信頼、あるいは一種の気高さだけがあった。
「やっぱり。じゃあ、今日の夕飯はセロトニンの生成を助けるメニューにしなきゃ。栞ちゃん、燈君の今日のスケジュールはどうなってる?」
「私が既に調整済みよ。放課後の三十分は図書室で脳をクールダウンさせ、その後はあなたの家でリラックスさせる。……完璧なローテーションね」
僕は扉の影で、息を止めた。
そこには修羅場など微塵もなかった。
恋のライバルとして火花を散らすことも、僕を奪い合う醜い争いもない。
彼女たちは、驚くほど平穏に、そして協力的に、僕という個体の「管理状況」を共有していたのだ。
「よかった。燈君、放っておくとすぐ無理しちゃうもんね。私たちがちゃんと見てあげないと」
「ええ。九重というシステムを正常に稼働させるのは、幼馴染である私たちの義務よ。……昨日の『ノイズ』の件も、迅速な対応だったわね、永遠」
「あの子? うふふ、ちょっとお話しただけだよ。燈君には、まだあんな刺激の強いものは必要ないでしょ?」
永遠の柔らかな笑い声。それは昼休みに僕の目の前で微笑んでいたものと同じはずなのに、今の僕には、あらゆる不確定要素を焼き尽くす絶対的な光の奔流のように感じられた。
「そうね。……彼には、私たちという調律された環境だけがあればいい」
栞の、断定的で揺るぎない肯定。
僕は悟った。
僕が彼女たちの間で「選ぶ」などという選択肢は、最初から存在しなかったのだ。
彼女たちは競い合っているのではない。僕という存在を分かち合い、一つの完成された世界として僕を包囲している。
陽の永遠が僕の感情を、陰の栞が僕の思考を。
二人は共犯者として、僕の人生を「最適化」し続けている。
「――おい。……九重、そこにいたのか」
背後から声をかけられ、僕は飛び上がった。佐藤だった。
彼は僕が見つめていた扉の隙間を同じように覗き込み、そして、幽霊でも見たかのように顔を青ざめさせた。
「……マジかよ。あのアプローチの正反対な二人が、あんなに仲良くお前の『管理会議』をしてるのか? 普通、修羅場だろ。喧嘩しろよ。なんでお互いの役割分担を完璧に理解して、幸せそうにティータイムしてんだよ……」
「佐藤、これは単なる幼馴染の……」
「言い訳すんな! 怖すぎるわ! お前、自分がどれだけ詰んでるか自覚しろ! 爆ぜろ……いや、お前はもう爆ぜることすら許されない、二人の完璧な所有物(コレクション)なんだよ! 羨ましいのを通り越して、同情するわ!」
佐藤はガタガタと震えながら、逃げるように去っていった。
多目的室から、椅子を引く音が聞こえた。
僕は慌ててその場を離れようとしたが、扉が開き、二人の少女が同時に姿を現した。
「あ、燈君! 奇遇だね、忘れ物かな?」
永遠が僕の右腕を取り、幸せそうに体重を預けてくる。その笑顔には、先ほどまでの「管理」の気配など微塵も残っていない。
「九重。予定より五分早いわね。……でも、ちょうどいいわ。お茶の時間は終わり。あなたのための、次のプログラムを始めましょう」
栞が僕の左腕を掴み、有無を言わせぬ支配的な視線で僕を縛る。
二人の体温が左右から伝わってくる。
共犯者たちの、穏やかな微笑み。
僕の論理は、彼女たちが築き上げた「完璧な親愛」という名の包囲網の中で、またしても沈黙することを選んだ。
「……わかった。ただし、僕の自由意志に関する議論は、後回しにしてくれ」
「ふふ、燈君の自由は、私たちがちゃんと守ってあげるから大丈夫だよ?」
永遠の声に、栞が満足げに頷く。
僕たちは三人並んで、夕暮れの廊下を歩き出す。
それは客観的に見れば、あまりにも美しく、あまりにも歪な、幼馴染たちの下校風景だった。
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