第五話:ノイズの消失
論理的な思考を維持するためには、系の外部から持ち込まれる不確定要素、すなわち「ノイズ」を可能な限り排除する必要がある。
僕にとっての日常という等式は、僕と、永遠と、栞。この三つの変数が噛み合うことで、辛うじて解を導き出している。ここに新たな変数が加わることは、計算式の破綻を意味していた。
「あ、あの……九重先輩!」
昼休みの廊下。購買へ向かおうとする僕の前に、一人の女子生徒が立ちはだかった。 見覚えはない。名札の色からして一年生だろうか。彼女は顔を赤くし、背後に隠していた封筒――見るからに「非論理的な情熱」が詰まっていそうな代物を、震える手で差し出そうとしていた。
「……僕に何か用かな。移動時間を一分十五秒ほどロスしているんだが」
「すみません! でも、どうしてもお伝えしたくて……っ」
彼女が意を決して封筒を突き出そうとした、その刹那。
僕の左右に、まるであらかじめ座標が指定されていたかのような正確さで、二人の幼馴染が滑り込んできた。
「あら、可愛い後輩ちゃん。燈君に落とし物かな?」
右側から、永遠が春風のような微笑みを浮かべて割って入る。彼女は流れるような動作で僕の右腕を抱きかかえ、後輩の女子生徒との間に「物理的な壁」を作った。
「いえ、これは、その……」
「九重。購買の限定サンドイッチの売り切れまで、残り三分二十秒よ。こんな場所で立ち止まっている暇はないはずだけれど?」
左側からは、栞が静かに、けれど氷の楔を打ち込むような声で告げた。彼女は僕の左腕を取り、僕の視線を後輩から自分の方へと強制的に誘導する。
「……わかっている。だが、彼女が何かを渡そうとしていて……」
「いいのいいの! 後輩ちゃんの用事は、私たちが聞いておくから。ね、栞ちゃん?」
「ええ。あなたは先に行って、私たちの分の飲み物も確保しておきなさい。……これは命令よ、九重」
栞の強気な視線に圧され、僕は「わかった」と頷くしかなかった。
背後で、後輩の女子生徒が「あ、あのっ」と声を上げたが、永遠の「大丈夫だよ、ゆっくりお話聞かせてね?」という、どこまでも優しく、けれど一切の突破を許さない柔らかな拒絶の声に塗り潰されていく。
結局、僕は一人で購買へ向かった。
数分後、二人は何事もなかったかのような顔で僕の元へ戻ってきた。
「お待たせ、燈君! 後輩ちゃん、やっぱり落とし物だったみたい。私たちが預かっておいたから安心してね」
永遠が僕の隣に座り、楽しそうに僕の肩を突く。
「……落とし物? あの封筒がそうだったのか」
「ええ。中身はただの『書き損じの紙』だったわ。……価値のない情報(ノイズ)よ、九重。あなたが気にする必要はない」
栞は僕の隣で、優雅にストローを咥えた。
二人の表情はどこまでも穏やかで、そこには嫉妬も、悪意も、争いの気配すら微塵もない。ただ、僕の周囲から「不純物」を取り除いた後の、清々しいほどの静寂だけがそこにあった。
「――おい。……見たかよ。あの一年生、泣きそうな顔で帰っていったぞ」
遠くの席で、パンを齧っていた佐藤が、引き攣った笑いを浮かべてこちらを見ていた。
「九重、お前……マジで『鉄壁』すぎんだろ。告白しようとした後輩を、あの二人が笑顔で『処理』したぞ。しかも、お前自身は何も気づいてねえっていう……。爆ぜろ。もう一回言わせてくれ、九重。爆ぜろ!」
「佐藤、処理とは人聞きが悪い。彼女たちは単に、後輩の落とし物を……」
「それが一番怖いんだよ! お前の周りだけ、空間が歪んでることに気づけ!」
佐藤の絶叫は、僕の耳には届かなかった。
左右から再び僕の腕を取り、幸せそうにパンを分け合う永遠と、僕の食べこぼしを当然のように指で拭う冷静な栞。
二人の連携には、一切の淀みがない。
彼女たちは競い合っているのではない。僕という平穏な海を、二人で静かに、完璧に統治しているのだ。
「燈君、美味しい? 放課後はまた三人でどこか寄ろうね」
「そうね。九重のスケジュールは、既に私が最適化してあるわ」
僕に接触しようとした「ノイズ」は、こうして僕の知らないところで濾過されていく。
不条理だ。
けれど、自分の知らないところで自分の世界が磨き上げられ、守られているという感覚は、論理的な恐怖を上回る、抗いがたい安楽を伴っていた。
僕は、彼女たちが差し出す「完璧な日常」という名の果実を、ただ黙って受け入れることしかできなかった。
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