第四話:不合理な雨の平衡状態
気象予報というものは、本質的に不確実な未来を確率という数値で誤魔化したものに過ぎない。
空を見上げれば、そこにあるのは灰色に塗り潰された不親切な境界線だ。断続的に降り注ぐ水滴が、アスファルトの上で幾何学的な紋様を描き、人々の帰宅動線を無慈悲に遮断していく。
「……計算外だな。降水確率は十パーセントだったはずだ」
昇降口の軒下で、僕は独り言ちた。手元に傘はない。このまま雨脚が弱まるのを待つのは、時間の浪費というコストを考えれば下策だ。だが、濡れて帰ることで体温を奪われ、風邪を引くリスクを冒すのも合理的ではない。
「燈君、困ってる? ……大丈夫。予報が外れることも、計算に入れておいたから」
背後から、陽だまりのような温かさが近づいてきた。
永遠だ。彼女は自分の折り畳み傘を出すこともなく、隣に立つ栞を見上げた。栞の手には、三人でも余裕で入れそうな大きな黒い長傘が握られている。
「……確信犯か」
「九重。突っ立っていても雨は止まないわ。……はい、持ちなさい」
栞がパサリと傘を開き、その柄を僕の手へと押し付けた。
必然的に、僕が中央で傘を差し、その左右を二人が固めるという陣形が完成する。それは僕たち三人の世界を外界から切り離す、黒いドームの完成を意味していた。 中央に僕。右側からは永遠が「はぐれないように」と、僕の右腕を自身の胸元に引き寄せるように強く抱きかかえてくる。左側からは栞が、僕の左腕を自らの体の方へと迷いなく引き寄せ、肩を密着させた。
「ねえ、燈君。ちょっと狭いけど……あったかいね。雨の音って、私たち三人のためだけのBGMみたい」
「……物理的な距離が近すぎる。これでは傘を支える重心の安定が保てない」
「黙って歩きなさい。あなたの重心(ペース)は、私たちが左右から固定してあげているわ。……逸脱は許さないわよ」
栞は僕の左腕を引く力を緩めない。彼女の強気な視線は、僕がこの「平衡状態」から逃げ出すことを一ミリも許容していなかった。
僕が差す一本の傘の下で、幼馴染三人が肩を寄せ合い、水飛沫を上げて歩く。
客観的に見れば、極めて歪で、それでいて完成された一つの絵画のようでもあった。
校門を出たところで、雨宿りをしていた野球部の部員たちと鉢合わせた。
彼らは一様に泥だらけで、不運にも雨に降られた者特有の苛立ちを滲ませていたが、僕たちを見た瞬間、その表情は「驚愕」を経て「純粋な殺意」へと昇華された。
「……おい。おい、見ろよ。アレ……九重だろ」
「マジでいい加減にしろよ。一本の傘に、あの二人の間に挟まって……何だよ、あの『僕が世界の中心です』みたいな顔は。傘持たされてるのに、なんであんなに羨ましいんだよ!」
「爆ぜろ……! 雨に打たれて爆ぜろ九重! むしろその傘に雷落ちろ! 直撃しろ!」
背中越しに飛んでくる、呪詛に近いツッコミ。
それらは僕の理屈っぽい脳を叩くが、右からの永遠の柔らかな笑い声が、それらをすべて「なかったこと」にしていく。
「みんな、元気だねぇ。ねえ、燈君、今日の夕飯は栞ちゃんと一緒に、燈君が元気になれるもの作ってあげる」
「献立の決定権は、こちらで握っているわ。九重、あなたは余計なことを考えず、足元だけに集中しなさい。……滑って転んで、私たちの『輪』を乱すことは許さないから」
栞の、静かだが支配的な言葉。
雨は次第に強さを増し、傘の外側の世界を白く煙らせていく。
他者の視線も、社会的な規範も、降りしきる雨の向こう側へと押し流されていく。 この一本の傘の下、僕が支える空間の中に充満する三人の体温と、互いの呼吸が混ざり合う感覚だけが、確かな現実として存在していた。
僕は、左腕に感じる栞の強気な確信と、右腕を包み込む永遠の柔らかな執着を同時に味わいながら、自分の論理が完膚なきまでに敗北していることを再確認する。
不合理だ。
けれど、この不合理な平衡状態こそが、僕にとって最も安定した、心地よい地獄なのだ。
「……移動エネルギーを節約したい。あまり、寄り道はしないでくれ」
「ふふ、わかってるよ。……真っ直ぐ、私たちの『家』に帰ろうね」
永遠の明るい声が、雨音に溶けて消えた。
僕たちは一歩、また一歩と、逃げ場のない幸福の深淵へと足を踏み出していく。
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