第三話:沈黙という名の命令
図書室という場所は、本来、静寂が支配する公共の聖域であるはずだ。
高い天井、整然と並ぶ背表紙、そしてページを捲るかすかな音。僕にとって、ここは唯一、外的なノイズから解放される「論理のシェルター」だった。
――彼女が、そこに座るまでは。
「……九重。三秒、遅かったわね」
受付カウンターの奥から、栞が静かに、けれど有無を言わせぬ響きを伴って僕を呼び止めた。
彼女は図書委員の腕章を律儀に巻き、開いた文庫本から視線を上げることなく、正確に僕の到着時刻を指摘した。
「遅れたつもりはない。放課後のチャイムからここまでの移動時間を計算すれば、誤差の範囲内だ」
「いいえ。あなたは途中の掲示板で、三秒だけ足を止めた。……座りなさい。あなたの席は、既に確保してあるわ」
栞が顎で示したのは、彼女の座るカウンターに最も近い、閲覧用の円卓だった。
そこには既に、僕が読みかけだった科学雑誌と、温かい湯気を立てる陶器のカップが置かれている。図書室内での飲食は禁止されているはずだが、彼女が「ルール」そのものであるこの場所において、その指摘は無意味だ。
僕はため息を飲み込み、指定された席に腰を下ろす。
栞は何も言わなくなった。ただ、時折ページを捲る音だけが、僕の思考にリズムを与えるように響く。彼女は僕に何かを強要するわけではない。ただ、「ここに居ること」を当然の前提として空気を支配している。これが栞の「沈黙の命令」だ。
「お待たせー! 燈(ともし)君、栞ちゃん!」
静寂の聖域を、弾むような声が鮮やかに突き破った。
永遠が、購買のパンが入った袋を抱えて図書室に入ってくる。
「永遠、ここは図書室だ。声のデシベルを……」
「いいのいいの。今は他に誰もいないし、栞ちゃんが許可してくれたもんね?」
永遠は僕の隣に潜り込むように座ると、当然のように僕の肩に頭を乗せた。右からは永遠の柔らかな甘い香りが、左からは栞が纏うインクと紙の清冽な香りが漂ってくる。
「燈君、はい。これ、期間限定の『焼きそばパン・デラックス』だよ。燈君、お昼あんまり食べてなかったでしょ?」
「……。摂取カロリーの管理までされているのか」
「管理なんて人聞きの悪いこと言わないで。私と栞ちゃんで、燈君が一番効率よく動けるように相談して決めたんだから」
永遠がパンを千切り、僕の口元へ運ぶ。ふと視線を感じて左を向くと、栞が本を閉じ、じっとこちらの様子を観測していた。
「九重。永遠が用意したエネルギーを無駄にするのは、論理的ではないわ。……食べなさい」
栞の強気な視線が、僕の拒絶権を剥奪する。
右からのエモーショナルな供給と、左からの知的な承認。
僕が観念して口を開き、永遠の手からパンを受け取った、その時だった。
ガラリ、と図書室の扉が開いた。
「……あ」
入ってきたのは、本を探しに来たらしい男子生徒だった。彼は一歩踏み出した状態で、彫像のように固まった。
彼の視界に映っているのは、二人の美少女に密着され、あーんとパンを口に放り込まれている僕という、不条理の極致のような光景だろう。
「……九重。お前、マジかよ」
男子生徒の瞳に、急速に深い絶望と殺意が混ざり合っていく。
「誰もいないと思って来てみれば……。図書室で美女二人に挟まれて、焼きそばパンをあーんされるだと? しかも、あの鉄の女と言われた羽衣さんが、それを微笑んで見てる……。おい、これ何の宗教儀式だ? 供物は九重か? だったら今すぐ俺が屠(ほふ)ってやる」
「……。……これは単なる、幼馴染同士の効率的な栄養補給だ。君の誤解を解くために論理的な説明を……」
「説明なんかいらねえ! 爆ぜろ……。九重、爆ぜろ……! いや、爆発する前に、その場所を俺に代われ……!」
男子生徒は本を借りることも忘れ、呪詛を吐きながら踵を返して去っていった。
やれやれ。
扉が閉まる音を聞きながら、僕は深く息を吐く。また一つ、僕の平穏な日常に亀裂が入った。だが、永遠はさらに密着度を強め、幸せそうに目を細めた。
「もう、燈君。周りの目なんて気にしなくていいのに。ねえ、栞ちゃん?」
「ええ。九重の視界には、私たちだけが映っていればいいわ。……それが、この場所のルールよ」
栞が立ち上がり、僕の背後に回ると、首筋に触れるか触れないかの距離で身を屈めた。
二人の幼馴染が作り上げるこの「三人の世界」は、もはや外界の論理が通用しない、完璧に調律された聖域だった。
僕は、彼女たちが用意した「最高の安寧」という名の檻に身を委ね、再び差し出されたパンを口にする。
外の世界がどれほど僕を糾弾しようとも、この図書室の隅だけは、甘い毒を含んだ静寂の中に沈んでいた。
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