第二話:陽だまりの侵食

 結局、昨日の放課後は栞の家で「近現代哲学の再構築」という、僕の省エネ主義を真っ向から否定するような読書会が開かれた。  


 そして今日、校門を出る僕の左右には、昨日と全く変わらない「重量」がぶら下がっている。


 右腕には永遠の柔らかな温もりが、左腕には栞の静かな圧力が。この三位一体の陣形は、通学路という公共の場においても崩されることはない。


「ねえ、燈(ともし)君。昨日は栞ちゃんの家でずっとお勉強だったから、今日は駅前に新しくできたカフェに行こうよ。季節限定の『とろける苺のフォンダンショコラ』、燈君に絶対食べてほしいんだ」


 永遠が僕の腕を少し強く引き寄せながら、弾むような声で言った。  

 彼女の「~してほしい」という言葉は、単なる希望ではない。それは、僕の味覚の快楽までも彼女が掌握しようとする、優しさに満ちた侵食だ。


「限定メニューか。……永遠、その『とろける』という形容詞は、単に糖分が過剰であることを示唆しているだけではないのか。僕の血糖値の急上昇を招くリスクを考えれば、ブラックコーヒーを一杯飲むのが最も合理的な選択だ」


「もう、燈君はすぐそうやって可愛くないこと言う! 糖分は脳のガソリンなんだよ? 栞ちゃんも、燈君には甘いものが必要だと思うよね?」


 永遠は左側の栞に同意を求めた。  


 栞は前を見据えたまま、歩調を緩めることなく淡々と答える。


「ええ。九重は、思考を巡らせる際に過度なカロリーを消費する癖があるわ。……それに、あの店のショコラに含まれるカカオ成分は、集中力を高める効果が期待できる。あなたが今夜、私の貸した本を読了するためには、避けては通れないステップね」


「……二人がかりで僕のメニューを決定するのか」


「決定じゃないよ。燈君が一番『幸せ』になれる方法を、私たちが探してあげてるだけ」


 永遠が僕の顔を覗き込み、花が綻ぶような笑みを浮かべる。その瞳には、自分の提案が僕に拒絶される可能性など一ミリも存在しない、という無垢な確信が宿っていた。  永遠の「陽」の明るさは、時に論理的な反論を無意味にする。光が強すぎて、僕の影が消えてしまうのだ。


「――おい。見ろよ、また九重だぞ」

「右に七瀬さん、左に羽衣さんかよ。……神様、あいつの足元にだけバナナの皮を十枚くらい設置してくれませんかね」

「バナナじゃ足りねえ。隕石だ。隕石落として一回更地にしろ」


 すれ違う生徒たちが、僕を指差して呪詛を吐いている。  


 彼らの視線は鋭利な刃物のようだが、永遠と栞はそれを全く気にする様子がない。むしろ、僕という存在を外界から遮断するように、より密着の度合いを深めてくる。


「燈君、みんなに羨ましがられちゃって、ちょっと恥ずかしいかな?」


 永遠が僕の肩に頭を預け、甘えるような仕草を見せる。


「恥ずかしいというより、不合理だ。僕に注がれる憎悪のエネルギーを熱量に変換できれば、この街の街灯をすべて賄えるだろうに」


「ふふ、そんな理屈っぽいところも大好きだよ。ねえ、栞ちゃん」


「そうね。……九重。周囲の雑音なんて気にしなくていいわ。あなたはただ、私たちの声だけを拾っていればいい。その方が、あなたの精神衛生上も好ましいはずよ」


 栞の言葉は、静かだが強烈な重力を持っていた。  


 永遠の柔らかな光が僕の視界を染め上げ、栞の冷徹な知性が僕の聴覚を支配する。  

 幼馴染という名の、歴史ある包囲網。  

 彼らにとって、僕という人間は「自分たちの共有物」として最適化されるべき対象であり、そこに他者が介入する隙間はない。


 カフェに着くと、永遠は迷うことなく僕の分のフォンダンショコラを注文した。  向かい合わせに座るのではなく、なぜか三人がかりでL字型のソファー席を占拠する。僕は永遠と栞に挟まれ、逃げ場を失ったまま、運ばれてきた甘い塊を眺める。


「はい、燈君。あーんして?」


「……永遠、自分で食べられる」


「ダメ。私が燈君に食べさせてあげたいんだから。ほら、口開けて?」


 永遠の押しは、強引ではない。ただ、極めて純粋で、断る理由を根こそぎ奪い去る。 左側からは、栞がじっと僕の反応を観察している。彼女は僕がフォークを口に含む瞬間を、まるで実験の成功を見届ける観測者のような眼差しで待っていた。


 僕は諦め、口を開いた。  


 とろりと溶け出すショコラ。脳を直接殴るような、暴力的なまでの甘さ。


「……。……糖分の過剰摂取による、一時的な幸福感の増幅を認める」


「やったぁ! 栞ちゃん、燈君、美味しいって!」


 永遠が手を叩いて喜ぶ。その屈託のない無邪気さに、僕の論理はまた一歩、後退を余儀なくされる。  

 周囲の席からは、僕を射殺せんばかりの刺さるような視線が飛んできているが、僕はもはやそれをノイズとして処理することすら放棄していた。


「永遠。……次は、私の番よ」


 栞が静かに、僕の持っていたコーヒーカップを奪い、自分の唇をつけた。


「九重、あなたの好きな温度に調整しておいたわ。……飲みなさい」


 それは間接キスという名の、確信犯的な境界線の侵犯。  


 永遠が「あ、ズルい! 私も!」と笑いながら僕の腕に抱きつく。


 光に焼かれ、影に沈む。  


 二人の幼馴染に囲まれたこの場所こそが、僕にとっての「逃げ場のない楽園」なのだ。


 僕は、彼女たちの手によって完璧に調律されていく自分の未来を思い、そっと目を閉じた。

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