僕の論理は、二人の愛に勝てない
淡綴(あわつづり)
第一話:三位一体の力学
「愛」という言葉は、辞書の中で最も定義が曖昧な単語の一つだと思う。
ある者はそれを献身と言い、ある者はそれを情動のバグだと言う。僕に言わせれば、それは「歴史的慣性による思考停止」に過ぎない。
放課後の教室、傾き始めた西日が、僕の机の上に細長い影を落としていた。
僕はその影の角度から、下校時刻までの残り時間を計算する。無駄なエネルギーを消費せず、最も効率的に一日を終える。それが僕、九重 燈(ここのえ ともし)の生存戦略だ。
だが。
僕のこの完璧な計算は、常に二つの巨大な不確定要素によって阻害される。
「ねえ、燈君。またそんな難しい顔して。ほら、一度深呼吸して?」
柔らかな声と共に、右側から温かな重みが加わった。
七瀬 永遠(ななせ とわ)。
幼馴染の一人。
彼女は僕の右腕を自分の両手で包み込むように抱えると、当たり前のような顔で僕の顔を覗き込んできた。春の陽だまりをそのまま形にしたような、眩しすぎる笑顔。
「永遠、パーソナルスペースの定義を……」
「いいの、私がここがいいんだから。ね? 栞ちゃんもそう思うでしょ?」
僕の言葉を遮って、永遠が反対側に視線を送る。
すると、左側からも静かな、けれど有無を言わせぬ圧力を伴った温度が加わった。
「そうね。九重は、放っておくとすぐに自分の世界へ閉じこもるから。……物理的な接続を維持しておくのは、合理的よ」
羽衣 栞(はごろも しおり)。
もう一人の幼馴染だ。
彼女は僕の左腕に自分の腕を絡め、僕の肩にそっと自分の肩を預けた。永遠の熱が陽だまりなら、栞の肌の温度は、深い夜の静寂のように落ち着いている。
左右から完全にロックされた僕の腕。二人の体温が僕の体温と混ざり合い、境界線が曖昧になっていく。
「……栞。君まで永遠の非論理的な行動に同調するのか」
「非論理的? 心外ね。これは私たちが、私たちの共有財産(あなた)を最適に管理するための、最もシンプルな手段よ」
栞は僕の顔を見上げ、少しだけ強気に口角を上げた。
永遠が僕の右腕に頬を寄せれば、栞が僕の左腕をより強く引き寄せる。
彼女たちは決して僕を取り合っているのではない。むしろ、一人の僕という存在を、二人で完璧に分かち合い、包囲しているのだ。
「えへへ、燈君、いい匂いする。落ち着くね、栞ちゃん」
「ええ。やっぱり、三人でこうしているのが、一番しっくりくるわ」
彼女たちの間で交わされる穏やかな言葉。そこには嫉妬も争いもなく、ただ「これが世界の正しい形である」という揺るぎない確信だけがあった。
僕はこの二つの強力な磁場に挟まれ、身動きが取れなくなる。これを人は「ハーレム」と呼ぶのかもしれないが、僕にとっては、逃げ場のない完成された檻だった。
「――おい、九重。いい加減にしろよ、マジで」
不意に、教室の入り口付近から殺気立った声が飛んできた。
クラスメイトの佐藤だ。彼は顔を真っ赤にし、僕を親の仇か何かのように指差している。
「放課後になるたびに、学園の二大美女を左右に従えて! 永遠ちゃんに抱きつかれて、栞様に腕を組んでもらうだと? お前、前世で宇宙でも救ったのか?」
「佐藤君、落ち着いてよ。私たちは幼馴染として、燈君が寂しくないようにしてあげてるだけだよ?」
永遠が柔らかく微笑む。その聖母のような慈愛が、逆に佐藤の心をズタズタに切り裂いたのがわかった。
「寂しいわけないだろ! 九重! 貴様……いいか、どっちかと付き合うか、今すぐその場で爆ぜろ! 爆発して宇宙の塵になれ!」
「佐藤、君の言うことは論理的じゃない。爆発にはそれ相応のエネルギー源が必要だし、僕は今、そのエネルギーを二人に吸い取られている最中だ」
僕が冷静に返すと、佐藤は「そういうところが腹立つんだよ!」と絶叫し、教室を飛び出していった。
やれやれ。
周囲の嫉妬を買い、不必要なヘイトを集める。これは僕の省エネ主義に反する事態だ。
だが、右からの柔らかな猛攻を振り解く労力と、左からの静かなる支配を拒む知的なストレス。
それらを秤にかければ、このまま二人に身を委ね、思考を停止している方が、よほど「効率的」だという結論に至ってしまう。
「燈君、今日はどっちの家に行く? 私、新しいお菓子のレシピ覚えたんだよ」
「永遠、今日は私の番よ。九重には、昨日の続きの話を聞かせてもらわないといけないし」
「えー、じゃあ三人で栞ちゃんの家に行けば解決だね!」
「それもそうね。九重、異論はないわね?」
二人の声が、僕の左右から心地よい振動となって伝わる。
僕の論理は、今日も彼女たちの過剰な愛によって、音もなく溶かされていく。
「……わかった。ただし、移動にかかるエネルギーは最小限にしたい」
僕の妥協。それは、三位一体の力学がもたらす、完璧な敗北の記録だった。
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