承
その日、私は新作の原稿が思うように進まず、息抜きの散歩へ出掛けた。
最寄りから電車に乗って適当な駅で降り、知らない町をアテもなく歩く。家から十キロ程度の範囲にもまだ見ぬ景色というのはあるもので、手軽な小旅行を楽しめるわけだ。
行き着いた先は、シャッターの下りた商店街。セピア色の迷路を辿るうち、リラックスした心地になる。
どこか喫茶店でもと散策を続け、やがてこじんまりとした古本屋に行き着いた。
古い紙の匂いに誘われて店内に入る。棚に目を滑らせ、ふと目が留まったのは赤茶色の立派な表装。手に取った拍子に、隙間から何かがするりと落ちて……拾ってみると、それは古ぼけた便箋の束だった。
“先生、お久しぶりです。アタクシのこと、憶えていらっしゃいますか? きっとそう、憶えていらっしゃるわね。
いまや大御所の一角であらせられる人気作家の先生が、大量のファンレターの中からわざわざ、この手紙を選び出して読んでおられるということはきっと、差出人の名義に目が留まったからでしょう。
ええ。お察しの通り、アタクシあの人と結婚しました。心がざわつくんじゃありませんか。先生はアタクシたちから盗作した作品で受賞して、文壇にデビューなさったんですもの……けれど、どうかご安心下さい。いまさらそんな過去の話を蒸し返すつもりはございませんから……”
手紙を本に挟み、値札も見ずにレジへ向かう。達筆でしたためられた告発文……胸が躍っていた。
作家の端くれとして、感動する作品に出逢える以上の喜びはない。美しい文章はもちろん、書き手の感情を強く感じられる文章も、私は大好物なのだ。
文面からは、これを綴った彼女の想いが強烈に感じ取れる――早く家に帰って、じっくりこの文章と向き合いたい。そう思った。
コーヒーを淹れ、書斎の椅子に腰を下ろす。まず本の方を確認すると、最初のページに糸のような字で“聊表寸心”とある他は白紙だった。調べると「僅かばかりの気持ちを表す」という意味で、贈答品などに用いる言葉らしい。つまりこちらは、手紙と関係のない単なる雑記帳なのだろう。
改めて便箋を手に取る……作家の盗作疑惑。事実かはさておいて、創作意欲が刺激されることこの上ない。ルポライター気分で続きを読み進めた。
“ねぇ、先生。あの人は先月亡くなりました。アタクシどうしても、それだけお報せしたくって筆を取ったんですの。けれどいざ書き始めてみると、色々と思い浮かんでしまって……折角ですから、二十年前にアタクシが先生の研究室を出てからのことや、あの人との馴れ初めを知って頂けませんか?
だってね、先生。アタクシがあの人と巡り逢えたのは他でもない、先生のお陰なんですもの。先生は、まさにキューピッドなんですわ。ほほほ……。
ですからどうか、あの人を偲ぶと思って少しの間、お付き合い下さいな。読めばアタクシたちがあのことはもう水に流したと信じていただけるはずです。そしたら先生だって、いくぶん気が楽になるでしょう? ええ。お返事なんか要りませんから。
どこから書きましょう……思えば先生に勧められて、卒論代わりの作品を文学賞に出してしまったのが最初ですわね。
あの頃は青く、先生のお世辞をそのまま信じましたから、名のある審査員がたのお墨付きを得て、自分が作家として世に出ることを疑いませんでしたの。
結果は大敗。いま考えると、稚拙な表現の多い駄作だったと思います。けれど研究の集大成として書き上げた作品が、一瞥もされず叩き落とされる衝撃は、アタクシの心を挫くには十分すぎるものでした。
運がなかったのだ、次を書けばいいと先生は慰めて下さいましたね。その言葉を鵜呑みにするほど、アタクシは無垢ではいられませんでしたわ。
受賞作を読んで、これに負けたのかと自分の魂が否定されたようになって……アタクシは荒みました。なにもかもが嫌になったんです。研究室を出たら未練がなくなると考えましたけれど、持て余した時間で候補作まで調べて、あの審査員は無名の作家を取らないのでは? と、そんな邪推までしていたんですのよ。今となってはお笑い種ですけれど、当時は本気で、本気で憎んでおりました……”
冷めたコーヒーに口をつける。読むうちに、じっとりと汗をかいていた。
彼女の苦悩は、まさに数年前まで自分が味わっていたものと同じだ。私はどうにか、ネットのコンクールで受賞できたから書き続けられているが……手紙より二十年前となると、恐らくネット媒体はないはず。今ほど作家デビューの受け皿は広くなかっただろう。
そんな時代に、受賞という淡い期待を打ち砕かれた絶望。自分の作品が評価されない孤独。なにを信じるべきかも分からず打ちひしがれ、若き日の彼女は小説家の夢に蓋をしたのだ。
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