第2話 半透明な世界
焔堂 灯也に与えられたエリアは、
東京ドーム一個分。
広い。
だが、それは「守るべき領土」として与えられた瞬間、
狭すぎる檻に変わった。
世界の声は、淡々と告げていた。
――十日後までに、このエリアを保持せよ。
――侵食されれば、魔族としての権限は剥奪される。
保持できなければ、どうなるのか。
説明はなかった。
だが、説明されなくても分かる。
この世界で「剥奪」とは、
生存権の否定に他ならない。
それでも。
やる気は、湧かなかった。
体が、重い。
指先一つ動かすのが億劫で、
呼吸をすることさえ、努力に近い。
強い希死念慮が、
胸の奥に居座って離れなかった。
「……どうでも、いい」
誰にも聞かれない独り言が、
薄暗い部屋に落ちる。
ベッドから出なければならないことは、分かっている。
準備をしなければならないことも、理解している。
エリアを守るために、
モンスターを召喚し、
拠点を築き、
侵入者に備えなければならない。
――それまで、動かなければ。
だが、動けない。
頭では理解しているのに、
身体が、それを拒絶する。
布団の中で、
天井を見つめる。
白い。
ただ、それだけ。
エリアを侵略してくるのは、
人族だけではない。
同じ魔族も、
他者の領域を奪うために攻めてくる。
魔族同士に、同胞意識はない。
あるのは、
奪うか、奪われるか。
生きるために、
他者を削る。
それが、この世界の理だった。
――分かっている。
――分かっている、はずなのに。
「……はぁ」
ため息だけが、漏れる。
何度目かも分からない、
深くて、意味のない吐息。
生き残らなければならない理由が、
見つからなかった。
守るものは、もうない。
帰る場所も、ない。
名前だけを拾って、
それ以外をすべて置き去りにした。
それなのに、
なぜか世界は、
僕に「生きろ」と命じてくる。
――理不尽だ。
戦う気力も、
死ぬ勇気もない。
ただ、
消えたいまま、生かされている。
そんな状態で、
十日後の期限だけが、
確実に迫ってくる。
時間だけが、
淡々と、残酷に、進んでいた。
「……ああ、そういうことか」
声は、自然と低くなった。
おそらく、このポイントを消費して
モンスターを召喚するのだろう。
召喚した存在が、
エリアを守り、
侵入者を排除する。
簡単な話だ。
この世界は、複雑さを装っているが、
やっていることは単純だ。
生きたいなら、使え。
使わないなら、奪われろ。
ボードは、
急かすことも、煽ることもない。
ただそこに在り、
選択を待っている。
「……でも」
小さく、呟いた。
正直、
誰かを呼び出す気にはなれなかった。
モンスターであれ、
命であることに変わりはない。
命を使って、
命を守る。
そんな理屈を、
今の僕は受け入れられなかった。
それに――
一人の方が、心地いい。
誰かがいると、
気を遣ってしまう。
守らなければならない気がしてしまう。
失う可能性を、
考えてしまう。
それが、
もう耐えられなかった。
「……何もしなければ、
このまま終わるんだろうな」
恐怖は、ない。
焦りも、薄い。
ただ、
ベッドに沈み込みながら、
浮かぶボードをぼんやりと見つめる。
ポイントは、減らない。
時間だけが、過ぎていく。
世界は、
僕が何もしなくても、
何も言わずに待っていた。
それが、
ひどく残酷に思えた。
眺めてみても、
正直、どれもピンと来なかった。
強そうだとか、
便利そうだとか、
そういう感想すら、湧いてこない。
どれも、
生きるための種族だ。
戦うために存在し、
増え、奪い、守るための形。
「……違う」
小さく、呟いた。
どれも間違ってはいない。
でも、今の僕には――
眩しすぎた。
生きようとする意志が、
はっきりと前を向きすぎている。
カーソルを、
無意識に下へ下へと動かす。
一覧の、
いちばん下。
そこには、
区切り線の向こうに、
異質な文字列があった。
⸻
条件達成
特別種族
レッサーヴァンパイア
⸻
「……条件?」
思い当たることは、あった。
戦っていない。
守っていない。
生きようとも、
死のうとも、
はっきり決めなかった。
その中途半端さ。
その停滞。
その矛盾。
それ自体が、
条件だったのかもしれない。
説明欄が、静かに開く。
⸻
死を受け入れ、拒むもの。
半透明な世界を司れ。
⸻
息が、止まった。
死を、受け入れている。
それは、間違いない。
いつ終わってもいいと、
ずっと思ってきた。
けれど同時に、
どこかで拒んでもいた。
完全に消えることも、
完全に生きることも、
選べずに、ここまで来た。
「……半透明、か」
生と死の間。
存在と不在の境界。
世界に触れているのに、
完全には属していない。
それはまるで――
今の僕自身だった。
レッサー、という言葉が示す通り、
完全な怪物ではない。
だが、人でもない。
中途半端で、
曖昧で、
どこにも居場所がない存在。
「……皮肉だな」
そう呟きながら、
不思議と、胸の奥が静かだった。
怖くない。
高揚もしない。
ただ、
納得だけが、そこにあった。
これなら――
一人でいられる。
これなら――
誰かに期待されずに済む。
これなら――
生きたいとも、生きたくないとも言えないまま、
ここに居られる。
カーソルが、
レッサーヴァンパイアの文字の上で止まる。
ボードは、
何も言わない。
選べ、とも、
急げ、とも。
ただ、
選択を待っている。
僕は、
静かに指を伸ばした。
肉体が、再構築される。
骨が、軋む。
いや、壊れるのではない。
組み替えられている。
内側から、
一本一本、
別の規則で並べ直されていく感覚。
肉が裂けることはない。
血が溢れることもない。
ただ、
「今までの身体」が
静かに更新されていく。
終わりが、分からない。
始まりも、曖昧だ。
気がつけば、
呼吸が楽になっていた。
心臓の鼓動が、
以前よりもゆっくりで、
それでいて確かだった。
鏡を見る。
――変わっていない。
黒髪。
平凡な顔立ち。
生きていた頃の、焔堂 灯也。
牙もない。
赤い目でもない。
想像していた“怪物”の姿は、
どこにもなかった。
「……これが、ヴァンパイアか」
不思議と、
気分が高揚していた。
昂りではない。
焦燥でもない。
ただ、
世界と噛み合った感覚。
何となく、分かる。
考えなくても、
身体が理解している。
影が、
自分の居場所になること。
爪を意識すれば、
指先が静かに伸びること。
視線を合わせれば、
相手の意識が、
一瞬、こちらに傾くこと。
――魅了。
命令ではない。
支配でもない。
ただ、
拒む気力を、削ぐ。
エリア全体が、
いつの間にか暗くなっていた。
太陽は見えない。
月明かりだけが、
薄く世界を縁取っている。
だが、不自由はない。
闇の中でも、
輪郭が分かる。
距離が測れる。
夜目が、
自然と効いていた。
視界は、
むしろ静かで、落ち着いている。
ふと、背後に違和感を覚える。
振り返ると、
そこにあったはずのベッドが――
棺桶に変わっていた。
黒く、
装飾のない、
無駄のない形。
恐怖は、なかった。
試しに、
中に入ってみる。
蓋を閉めた瞬間、
世界の音が、遠のいた。
驚くほど、落ち着く。
胸の奥に溜まっていたものが、
ゆっくりと沈殿していく。
思考が、
静まる。
「……ああ」
この感覚を、
知っている。
久しぶりだった。
何も考えずに、眠れる。
不安も、
自己否定も、
希死念慮も、
今は遠い。
深く、
深く、
意識が沈んでいく。
――安眠だった。
⸻
そして、
日付が変わる。
世界のどこかで、
何かが解放される気配がした。
静寂の向こうで、
無数の足音が、
同時に動き出す。
その日を、迎えた。
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