第2話 あかね

 チコちゃんが泣いたので、私も泣いておいた方がいいかなと思った。

 チコちゃんは、治子さんというのだか、呼びにくいのでチコちゃんと呼んでいる。

 前の職場はおばさんばかりで、話の合う人が居なかった。自分のためにお弁当を作るなんて、バカみたいだし、会社でお昼を食べたら、おばさん達に一時間話を合わせなきゃいけなくて、だるいと思った。実際一度だけコンビニで買ってきて、その会に入ったが、昼休み中も仕事をしているみたいで、心底だるかった。くだらないおばさん達のマウント取り。会社のたいしてかっこよくもない男どもの噂。結婚してるくせに(してなくても)、お前は眼中にないから大丈夫だよって思ったけど、そんなの言葉にできるわけもない。触らぬ神に祟りなしって、本当だと思う。チコちゃんは一番年が近かったし、面倒な仕事を黙って片づけてくれるから、助かった。

 チコちゃんは余計なことを言わないし、寂しくて寝れないときに、何時間でも私の話を聞いてくれた。別に何かして欲しいわけじゃないけど、男の話をほかの男にするわけにもいかない。チコちゃんは何を話しても、他の人に言わないでくれるから安心感があった。私がパパにお小遣いもらってるって、つい言っちゃった時なんか驚いた。チコちゃんは、風俗で働いていた。私もね…、なんて話し出すから、同じpjなのかと思ったら、業者だった。私はパパ探しにラウンジにたまに行くけど、よっぽどな人じゃなければホテルに行くことはない。絶対ないとは言えないけど、肉体関係がない方がお手当いっぱいもらえたり、お買い物連れてってもらえたり、引っ張れる。私は学生の頃からpjやってるから、そういうことは経験的に学んでいた。チコちゃんは、私も同じようなことやってるって勘違いしてるけど、私はチコちゃんのようには簡単に寝ない。

 ちゃんと普段からメイクしてれば綺麗なのに、夜の仕事がないときはすっぴんで来るから、わかりやすくて笑ってしまう。今日はすっぴんだったから、本当になにも用事がなかったんだろう。チコちゃんと会うときは、バックも控えめなブランドに抑えて、アクセサリーも外している。昼間の仕事に行く時と同じ。エルメスとかシャネルなんて持っていったら、pjやってるって一発でばれちゃう。学生の時、初めてエルメス買ってもらって、嬉しくて学校に持っていったら、pjやってるって噂になっちゃった。ママのカバン? って聞かれて、そうだよって言えばよかったんだけど、つい、違うよって正直に言っちゃったのが悪かった。

 だから、持って行っていい場所と、ダメな場所はわきまえてる。中学生の時、先生が言ってたTPOってやつ? そういうの大事だなって思った。チコちゃんはあんまりブランド物にも興味ないみたいだけど、学生の時の二の舞は嫌だから、チコちゃんの前でハイブラは持たないようにしてる。チコちゃんはポーターとか、革製のノンブランドのカバンとか、男の子みたいなカバンばっかり持ってる。別に悪いことじゃないけど、私とは趣味が違う。チコちゃんはどこに行く時も、カバン変えたりしないんだろうなと思う。職場とかには、持ってディオールかな。それより高価なものは、変な噂を招くから、持って行かない。確かに本物のバーキンとか職場に持ってこられたら私だって見ちゃう。しまむらで売ってるみたいな偽物だったら、かわいいなって思うけど、本物だったらどうしたのかな? って興味持つ。それにバーキンでMac運ぼうと思ったら40くらいはサイズ必要になるし、普段使いで、ずーっと同じカバン、パカパカ開けっ放しにして持ち歩いてる人って、なんか逆にそれしかないの? って思うしダサい。キャリアウーマン気取ってるみたいでダサすぎる。本当に上品な人って、エルメスをそういう風に雑に扱わない。ちゃんと敬意を払って、いくつも持ってたとしても大事に扱ってる。

 チコちゃんが私の手にチコちゃんの手を重ねてくれたけど、ネイルもしてなかった。私は長すぎるのはやっぱり下品だし、さすがに25も越えたから、あんまり目立たないようにヌードカラーにしてるけど、月に一回はネイルサロン行ってるし、綺麗にしていたい。通わないとなんか気持ち悪くなっちゃうのだ。チコちゃんのこと、嫌いじゃないけど、不器用な人だなと、正直思う。チコちゃんと働いてた時の給料知ってるから、あんまりその時の収入と違わないようにチコちゃんに伝えたけど、残業代も入れると額面で月40くらいは、昼間の仕事だけで稼いでる。税金とかなんとか、高いよね。

 昨日は久しぶりにラウンジ行って、知ってる社長さんが呼んでくれたから席に着いたら、別の階の部長が来てた。最初気が付かなくて、話してたら、背景みたいだったおぢが、いきなり私の本名いうからびっくりした。空気読めよって、はっきり言うと思った。ラウンジ嬢とかpjやってる子は、みんな本名とは違う名前で活動してるから、知ってても人前で言わないのがマナーだと思う。でも、その社長さんが、うちの会社に接待してたなんて驚いた。そしたら、そのテーブルでオスどもみんな私のこと本名で呼ぶようになっちゃって、女の子ドン引き。私も引くに引けなくなっちゃって、認めないわけにいかなかったのがよくなかった。うまく立ち回れたらよかったんだけど…。私もまだまだ、修行が足りないってことだな。席に呼んでくれた社長さんの顔立てないわけにいかないから、LINE交換せざるおえなかったけど、正直参った。確かにうちの会社は副業禁止だし、ラウンジやってると、いろんな経営者さんくるけど、勤めてる子がAVやってて認めちゃったから辞めさせざるおえなかったって話も聞いたことあるし、見られちゃった以上は何とかしなくちゃいけない。弱み握られた感じになっちゃってるけど、なんとか懐柔して対策しなきゃとは思ってた。だからpj用のLINE交換は、私としてもやっときたいことだった。でも、帰ってから鬼ラインて、マジうざい。勘違いしないで欲しい。

 うちの会社は、規模としてはそこそこだけど、レアメタル系の専門商社だから、なくなることはない。むしろ需要は上がっている。私もデザイン勉強したかったし、いろんなソフト扱えた方が、将来的に職に困らないと思うから、今のところに就職した。デザインって一言に言っても、使うソフトもイラレ、フォトショはもちろんだけど、インデザインもCADも、まあとにかくいろんなソフトを、仕事しながら勉強できるから、いいかなと思った。お金払って、スクール通うってバカみたいだし。

 最初は小さな修正ばっかりだったけど、だんだんと企画の段階から入れてもらえるようになってきた。前の会社はパソコンすらウィンドウズだし、正直スキルアップもキャリアも積めないから無駄だなと思ってた。pjやってると本当に仕事するのあほくさいし、経済的に困ってるわけじゃないし、まあ仕事なんてしなくてもいいかな、って軽く考えてて、学生の時に就活しなかったのが悪かった。周りはみんなインターンとか、ただ働きに必死になってて、私は男の子じゃないし、企業研究とか自己研究とかES何10社も出して、祈られて、病んでく先輩見てたから、まあいっかなって軽く考えてたのが間違いだった。新卒でそれなりの会社入ってたら、転職活動してもイジーモードだし、履歴書に空白もできない。新卒でここに受かったのねって一目置いてもらえるし、とにかく大きな失敗だった。

 大学受験もあんまり真面目に考えてなくて、とりあえず山梨出て東京来たかったから、そこそこ名前が通ってて3教科で済む私大の文系にした。チコちゃんなんて、あれで国立出てるから6教科8科目も勉強してるってことでしょ? ほんと尊敬しちゃう。なのにあんな仕事してて、正直よく意味が分からない。着飾らないのはチコちゃんのいいところだけど、不器用なんだなとほんと思う。アピールするのが苦手なんだなって思う。

 チコちゃんは長く一緒にいると、良さがわかるけど、正直第一印象は地味だなって思った。あんまりしゃべらないから、何考えてるのかよくわかんなかったし。なんでも仕事引き受けちゃって、そんなことまでしなくていいのにって思ったけど、チコちゃんはちゃんと全部締め切りまでに仕上げるから、いちいちびっくりした。

 チコちゃんが辞めた時だって、できすぎてお弁当組のおばさん達に煙たがられて、総攻撃受けて、いじめみたいになっちゃってたし、社員さんとか上の人たちもそんな空気になってて冷たくされてた。チコちゃんから辞めたのか、更新がなかったのか本当のところは知らない。でもチコちゃんが辞めてから、仕事まわんなくなっちゃって、みんなてんてこ舞いだった。社員さんたちは残業増えてピリピリしてて、全然そんな空気じゃなかったのに、電話口とか下の人にどなる人も出てきて、めちゃくちゃ環境変わっちゃった。だから私も、更新せずに辞めちゃった。

 もともと履歴書埋めるために働いてたし、私にチコちゃんの仕事量はこなせない。こんな時給で、こんなに嫌な思いするなんてまっぴらだった。チコちゃん辞めさせちゃうなんて、本当にバカだなって思った。私と同じ予算で、チコちゃんほど仕事してくれる人なんて、絶対もう現れない。そんなことも見れない会社だったんだって思うと、心底馬鹿らしくなった。

 チコちゃん辞めてから、営業さんとかにお昼誘われたけど、お手当なしでp活するみたいで、それも馬鹿らしかった。一人でランチするのもつまんなかったし、丁度よかったのかも。辞めてから1年くらいぼーっとしてたけど、25の誕生日の前にやっぱだめだなって思って就職活動した。正直そんなに生活には困らなかったけど、暇だったし、また履歴書に空白できたら、今度は本当に夜職しかできなくなる。田舎のお母さんにも心配される。うちは父を4歳の時に病気で亡くしてるから、お母さんには心配かけたくない。お父さん亡くした時にいっぱい保険金出てるみたいだから、経済的にすごく困ってるってわけじゃないけど、新卒で就職しなかったってばれた時は大変だった。せっかく東京の大学まで出したのに…って泣かれちゃったのだ。一人娘だし、まあ確かにそうだよね。おじいちゃんおばあちゃんも、もうだいぶ年だし…。

 実家に帰ると結婚ガーって話になるけど、それがすごく嫌だった。こないだお正月で実家帰った時も、こっちに帰ってきて結婚しなさいとか、まじで何時代だよ。それだけは嫌だった。さっきなんとなく、山梨帰ろうかなって言っちゃったけど、やっぱりそれだけは嫌だった。チコちゃんなら反対してくれるかなって思ったけど、返事はなかったし、本当のところはどう思ってたんだろ。でも、チコちゃん一緒に住もうまで言ってくれて、マジ神かと思った。こんな風に涙流して心配してくれるなんて、チコちゃんだけかも。地元の友達にこっちのこと話すと、マウントだと思われるからやなんだよ。東京残ってる、学生時代の友達だってそう。別に自慢してるわけじゃないのに、対抗心燃やしてくるから、ほんと女って面倒くさい。早く結婚して、子供作ってって価値観の人に、私みたいに適当に生きてる人間は存在自体認めたくないんだろうと思う。早く結婚して、子どもぽこぽこ生むのも立派だと思うよ? 私には絶対できないけど。チコちゃんは年上なのに全然気を使わないし、ママよりもママみたい。

 チコちゃんと一緒に住むのも、楽しいかもしんないな。今のマンション解約絶対しないけどw。

「ねえチコちゃん、今の仕事楽しい?」

 何言っていいのかわかんなかったから、なんとなく言葉がでた。

「え? 昼の仕事? 夜の?」

「昼のだよ!」

「うーん。楽しいのかなぁ。別に嫌じゃないし…。やること決まってるし、あんまり人と喋らなくていいから…。楽は楽かもしれない。」

 チコちゃんは、私の手から自分の手を引っ込めてそう言った。

 やっぱりチコちゃんは、前の会社でこりごりだったんだと思う。だってあんだけやってて、評価されなかったらそりゃそうだよなって思う。でもチコちゃんは、私にだって仕事量のこと愚痴ったことはない。人の悪口もほとんど言わない。私が言うのに、同調してくれるくらい。マジでこの人神かよ。

「チコちゃんは、満足してる?」

 何がとは言えなかった。収入だって前の会社とさほど変わらないのだろうし、正社員でもない。条件はきっと前とさほど変わらない。

「うーん。満足とかあんまり考えたことないかな…。雇ってもらえてありがたいとは思うけど、いつまで続けられるかとか、正直不安だし…。」

 正社員でもないのに、雇ってもらえてって、どれだけ自己評価低いんだよ。私が経営者だったら、絶対チコちゃん雇う。一番に雇う。絶対。

「チコちゃん、謙虚すぎるよ…。」

 思わず心の声が漏れてしまった。

「みんな見る目がなさすぎるよ。チコちゃんめちゃくちゃ仕事できるのに、なんでそんなに自己評価低いの?」

「えっ? そんなことないよ。そんなこと言ってくれるの朱音だけだよ…。」

 もはやこの謙虚さ、国宝級だ。時代が時代なら、すごく偉い人になってたんじゃないかと思う。

「朱音は誰に対しても明るいし、コミュニュケーション能力高いし…。私は朱音みたいにできないよ…。」

 くー。ここまで来て私のことを言ってくれるなんて、可愛い。可愛すぎる。抱きたい。なんなら今夜、抱いてやりたい。

「そんなことないよ。チコちゃん居なくなって、前の会社だって大変だったんだよ?」

「えっ…、そうなの?」

「そうだよ。チコちゃんが一人でやってた仕事、誰もこなせなくて大変だったって、前にも言ったじゃん。」

「でも…、あたし…、嫌がられてたし…。」

 チコちゃんは、自分のできないことに、目が行き過ぎるのだ。

「チコちゃん自己評価低すぎるよ! もっと自信もってよ!」

 私はなんだか、語尾が強くなってしまった。

 なんでこんなにできるのに、チコちゃんは自信が持てないのだろう。できないこともできるって言ったり、ハッタリかまして自分で自分のことアピールできなかったら、今の世の中渡っていけない。

「う…。うん…。」

 ちょっと言い過ぎてしまっただろうか。でもチコちゃんにはこのくらい言ったって、言い足りない。本当はもっと言ってやりたいくらいだ。

「チコちゃん! ご飯食べよ! 冷めちゃうよ! ねっ!」

 チコちゃんのおかげで、いつもの私に戻って来た。そう、暗く考えてたってなにも始まらない。何とかしなくちゃいけないのはその通りだけど、食べるものも食べないと、力が出ない。私はそう自分に言い聞かせて、箸を持った。

「あとで、ガンダム見に行こう?」

 やっと私は笑うことができた。昨日から、LINEの通知に正直参ってしまって。気が滅入っていた。未読の赤いマークは、貯めると本当にプレッシャーになる。あれ色変えてくんないかな。切実に。既読つけちゃったら、返事しないわけにいかないし。LINEは便利だけど、便利すぎて時々嫌になる。マジでガチ鬱。

 食事が終わると私たちは外に出た。

 せっかくお台場まできたんだもん。ガンダム見に行こうって言ったし、楽しまなきゃ!

「でかいねー!」

 ガンダムの前に二人で立ってそういった。夜も遅く、周囲に人は居なかった。ガンダムは、いつ見てもでかい。高層ビルとか見慣れてるけど、別に見上げるものでもない。

「なんか、東京に居るって感じがするね!」

 私の声に、いつもの明るさが戻ってるような気がした。チコちゃんに話してよかった。チコちゃんは、私の女神だ。

「そうだね。」

 チコちゃんは私に同調してくれる。チコちゃんの声にも、いつもの冷静さが戻ってるような気がする。

 チコちゃんがくるりと反対を向き、数歩前に進んだ。

「海…。暗くて見えないね…。」

「…そうだね。」

 チコちゃんの横に並んで、同じ方向を見る。ただ暗闇が続いているだけで、何も見えない。

「朱音…。今日しんどかったのに、ちゃんと会社行って偉かったね。」

 チコちゃんが、大きくも小さくもない声で言った。

「えっ?」

 私は驚いてチコちゃんの方に首を回して、チコちゃんを見つめた。

 チコちゃんは、海のあるはずの方向を見つめながら続けた。

「そんなのに負けないで、ちゃんと出勤して偉かったよ。」

 なんでこの人は、私が言って欲しいことを知ってるんだろう。いつもチコちゃんは、私が本当に言って欲しいことを言葉にしてくれる。言葉数は少ないけど、ちゃんと言って欲しいことを、過不足なく伝えてくれる。

 私は今度こそ、本当に涙が堪えられなくなった。泣くつもりなんてなかったのに、ついポロポロと涙が落ちてしまう。

 そう今朝、全てが面倒くさくなって、バックレてしまおうかと頭をよぎったのだけど、なんとか起きて、いつものルーティンをこなし出社したのだ。

 涙が止まらくなってしまった。

 そう、チコちゃんに隠し事はできない。なんでもお見通しなのだ。

 私は堪え切れず鼻をすする。

 私は何も返事ができず、鼻をすすった。

 チコちゃんが、首をかしげて私の方に向き直る。

「ほら泣かないの!」

 泣いている私に気が付いたチコちゃんは、そう言って、カバンをあさってハンカチを渡してくれた。

 なんだよ! この人、ドラえもんかよ!

 私は思わずチコちゃんに抱きついた。

「そんな大丈夫だよ! 朱音なら大丈夫だって!」

 チコちゃんは驚いたように言った。

 今日何度目かのチコちゃんの大丈夫が、鼓膜をくすぐる。

 そう、きっと私は、誰かに私ならできるって、背中を押してもらいたかったんだ。

「そんな泣かなくても大丈夫だよ、なんとかなるって。」

 チコちゃんのコートを汚してしまう。でもそんなことには頭が回らないほど、私はチコちゃんにしがみついた。

「大丈夫! 朱音なら、絶対大丈夫だって!」

 チコちゃんは優しく私を抱きとめて、背中をさすってくれた。

「うん…。うん…。」

 私は何も言葉が出なかった。私より少し背が高いチコちゃんが、ものすごく頼もしく思えた。聞こえるはずのない波の音が、聞こえた気がした。

 そうだ、チコちゃんは、海の近くの生まれだった。

 きっと私を勇気づけるために、ここに連れてきてくれたんだ。

 私は海とは関係ない生まれだけど、なんだかチコちゃんが、ここに連れてきてくれた理由がわかった気がした。

「海辺って、いいよね…。」

 私の気持ちを見透かすように、チコちゃんが続ける。

「なんか海が見たいって思ったんだけど、暗くてなんにも見えないね。」

 うん。うん。と、私はチコちゃんに抱きついたまま、頷いた。

「だから、大丈夫だって。きっとなんとかなるよ。」

 背中をさする手は、いつの間にか、ポンポンと優しくゆっくりリズムを刻んでいた。もう記憶にもないけれど、きっと私もお母さんにこうしてもらって、眠りについたことがあるのだろう。チコちゃんのシャンプーの匂いがまだ残っていて、その匂いも優しく感じる。なんだかすごく安心する。

「大丈夫、朱音なら、大丈夫だよ。」

 背中を優しくポンポンと叩きながら、チコちゃんは優しく続けた。暗闇の中でガンダムだけが、自信満々でライトに照らされている。

「ガンダム、おっきいね。」

 私はさっき言ったことを、かすれた声で間抜けに繰り返すだけだった。

「大丈夫、大丈夫。」

 チコちゃんは、優しくゆっくり私を励まし続けてくれた。

 そう、落ち込んでばかりは居られない。

 私はひとしきり泣いた後、チコちゃんの肩を持つと、ぐっと体を離した。

「ねぇ! カラオケ行きたくない?」

 私は、勤めて明るい声でそう言った。

「えー? 今から?」

「うん。なんか大声で歌いたい気分!」

「やってるところ、あるかなぁ?」

 チコちゃんは、カバンをごそごそすると、携帯を取り出した。

「あるよ! だって、ここは東京だもん! 眠らない街! 東京!」

 そう、私たちは東京で暮らしている。

 東京で出会ったから、チコちゃんと仲良くなれた。

 チコちゃんに…。

 治子さんに出会えて、本当によかった!

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