第2話 Canon
次の日の夕暮れ時にも、私は、機野神社まで走りに行った。
今度は、千円札を握りしめて。
お守りを買うという名目であれば、またもう一度神社に行っても、おかしくはなさそうかな、と思って。本当は、またあの人のギターを聞きたかったからなのだけれど。
でも、彼女は神社にいなかった。というか、彼女だけではなく、神社には誰もいなかった。そして相変わらず社務所は固く閉ざされていた。
もしかしたらもう会えないんだろうか、なんてことが頭をよぎった。
私はさらにその次の日にも、神社に行った。しかもその日は雨でランニングはできなかったので、夕方、傘をさして神社を訪れた。我ながら、なかなかの執着心だった。
正直、ほとんどダメ元だったのだけれど。石段を上がっている最中に、雨音に混じって、微かにギターの音が聞こえてきた。
あの人だ、と思った。
私は嬉しくて、跳ねるように階段を上った。
階段の先の鳥居をくぐると、音の出所がはっきりと分かった。社務所からだ。昨日は固く閉ざされていた社務所に明かりがついていて、窓が開いている。
私は、まっすぐに社務所に近づいていった。
すると、ギターの音が止まり、社務所の窓からひょっこりと、凪が顔を出した。相変わらず、首元の緩んだTシャツを着ていた。
「…ようお参り……」
そこまで言って、彼女は私の方を見て、眉をひそめて。一瞬の間のあと、ポン、と手を叩いて、私を指さす。
「あ、一昨日ギター聴きに来てくれた子やん」
私は彼女の言葉に頷き、「こんにちは」と笑顔であいさつをした。
「今日は、お守りを買いに来ました」
あわよくば、ギターも聴ければと思っていたけれども、それは言わなかった。
私は社務所の軒下に入って、雨傘を畳む。
「そか、何のお守りにする? いろいろあるけど」
そう言う彼女の前には、日に焼けたお守りが並んでいた。
交通安全、安産祈願、商売繁盛、家内安全……いろいろあったが、私にはあまり必要なさそうだった。
そうか、お守りを買おうとは思っていたけれど、どういうお守りにするかは、考えていなかった。
迷った末、私は「必勝祈願」という字が縫い込まれた、赤い小さなお守りを選んだ。赤い、と言っても、日に焼けて、なんだか赤いような白いようなよく分からない色合いになっていたけれど。
「この『必勝守』っていうの、ください」
「はーい、じゃあ、500円お納めください」
私はポケットに忍ばせていた千円札を取り出し、凪に手渡した。
「君、名前なんていうん?」
長い手をゆらりと伸ばして、お釣りの五百円玉を私に差し出しながら、凪が問う。
まさか名前を聞かれると思っていなかった私は、「あ……えっ…と」と、多少どぎまぎしながら五百円を受け取り、なんとか返事をした。
「
動揺して、聞かれてもいないことまで答えてしまった。
そんな私に、凪は興味深そうな視線を向ける。
「へぇ、1回生か。私は2回生」
そこまで言って、彼女は私に、白い小さな紙袋に入れられた『必勝守』を差し出した。
私は両手でそれを受け取り、「ありがとうございます」と小さく言って会釈する。白い紙袋には、「機野神社」と朱色の字で印字されていた。
「私の名前は、凪、っていうねん」
覚えていて、と言われた気がした。
なんだか、相手との関係をつくっていくための自己紹介というよりは、生きているうちに自分で墓石に名を刻むことに近いような、そんなニュアンスに思えたから。
「凪さん」
私は確認するように、彼女の名前を呼んだ。
彼女は、嬉しそうにうなずいて、微笑んだ。
「そう、凪さん。じゃあ……七海、今日もギター聴いてく?」
「いいんですか」
願ってもないことだった。でも、どうしてそんなことを言ってくれるんだろう。
驚く私に、凪はいたずらっぽく笑いながら、こちらをのぞき込んだ。
「うん、だって君、私のギター好きやろ?」
図星過ぎて、何も言えなかった。自身の顔が赤面していくのが分かる。
あー、ダメだ、なんか私、すごく変な人だ、これじゃ。なんでバレたんだろう。
何か返答しなくてはと頭の中でぐるぐると考えていると、凪がくすくすと笑いながら奥へ引っ込んで、社務所の入り口のドアを少し開け、私を呼んだ。
「ほなぁ、こっちおいでよ。傘はそこにひっかけといたらええし」
気の抜けたような声。
拝殿に私を迎え入れた時にも、彼女は、ああいう感じで私を呼んだ。
凪はきっと、いろんな人を、ああやって気楽に、平気に、自身の領域に迎え入れてしまう人なのだろう。私だから、というのではない。たまたまあの時、ここに迷い込んだのが私だった、というだけで。
私は、凪に言われるままに、靴を脱いで、社務所に上がった。雨のせいか、部屋全体が少し湿気っていて、蒸し暑い。
凪は、私を部屋に迎え入れるや否や、壁に立てかけてあったギターを抱え、床に胡座をかいて座った。私も凪に促されて、同じように、彼女の向かいに座った。
ジャカジャン、とギターを鳴らし、凪が私をじっと見る。少し眠そうな、でも、とても賢そうなまなざしで。
「じゃあ、弾こかな。ちなみに、なんかリクエスト、ある?」
「……リクエスト…?」
それは、私が、この人に弾いてほしい曲をリクエストするということだろうか。
というか、それってすごくないだろうか。
それはつまり、リクエストされた曲を彼女が知ってさえいれば、たいていパッと弾ける、ということで。たくさんの曲を弾きこなせる自信がある、ということなのだろう。
驚いて目を白黒させていると、凪はくすくすと笑い出した。
「君、面白いな。しゃべるの、苦手?」
ああ、それは、よく言われる。
「苦手、ですね」
「どう苦手なん?」
どう、苦手……か。考えたこともなかった。
というか、そんなこと、誰かに聞いてもらったこともなかった。
私にとって「口下手」というのは結論であって、そこから何か掘り下げるようなものではなかったから。
私は生まれて初めて、それについて考えて。
言葉にしてみた。
「たぶん、一つの返答に決めるのが……苦手なんだと思います」
「ほぉん? なるほど?」
うんうん、と凪が首を縦に振る。
「テンポよく会話するには、一つの返答を、ポン、って、返さないといけないじゃないですか。バスケのパス練習みたいに。でも、私はたぶん、そういうのが苦手なんです。こう返そうかな、ああ返そうかな、って、いっぱい考えてしまうので」
自分の頭の中に探りを入れるようにして、ゆっくり、一つ一つ、言葉を紡いでいく。
決してテンポはよくなかったはずなのだけれど、凪は、うん、うん、と丁寧に相槌を打ちながら、私の話を聞いてくれた。
そして、私が話し終わると、凪は、そっかそっかー、と深くうなずきつつ、次のように言った。
「それは要するに、七海の頭の中では、返答がいくつも思い浮かんでてさ。どれにしよーって、いっつも悩んでるってこと?」
「そう、ですね。いろんな考え方があるから、一つに決められないというか……」
私の回答を聞いて、凪は、ポン、と一つ、膝を打つ。
「へえ、面白い」
そして、へにゃっ、と屈託なく笑う。
あ、あの時と同じ笑顔だ、とその時の私は思った。
出会った日、凪のギターを聞きに来たと伝えた時に「嬉しい」と言った時と同じ笑顔。
彼女にとって「面白い」ことは、「嬉しい」ことなのだ、きっと。
「あ、なんか私、七海に聞かせたい曲、思いついたかも」
凪は、ジャラン、と一つギターを鳴らした。
そして前日と同じように、「ちょっとチューニング変えるわ」と言って、ペグを回し始める。音が下がるときのウォーン、という音が、小気味よかった。
雨はしとしとと、窓の外で降り続いている。私は黙って彼女の仕草を見つめ、演奏の準備を待った。
「君の頭の中みたいな曲やから、聴いてて」
くすくす、と笑ってから、凪がスッと息を吸う。
そうして鳴らされた音を聞いた途端、ああ、凪のギターだ、と思った。
音の一つ一つの粒がそろっていて、綺麗に響く。耳に心地よい、いつまでも聴いていたくなるような音。
曲も、聞いたことがある。これは、パッヘルベルのカノンだ。
確かに、と思った。
複数の旋律が同時に聞こえてくるその曲は、確かに、答えを出せない私の頭の中で、さまざまな思考が浮かんでは消えていく様に、似ていなくもない。
でも、それ以上に。
その幾度も繰り返され、追いかけるように重なっていく旋律は、とても優しくて、穏やかで。どこか、懐かしくて。その和音には、すべてを許すような、明るさと包容力があって。
会話の中で、誰かの投げかけに応じようとする私の頭の中は、いつも混乱して、汗をかいていて、不快な感じがするのだけれど。曲の中で同時に奏でられるメロディたちには、そんな不快な要素は何一つとしてなくて。それぞれ大切な役割を果たし、合わさって、綺麗な音楽になっていた。
それはとりもなおさず、凪が、君の頭の中はこうなんよ、と、肯定してくれているようだった。「この音楽みたいって思えばさ、綺麗なもんやろ?」という、彼女の声が聞こえてきそうなくらいに。
だから、歌詞なんて何もないのに、メロディーだけで、「許されている」という感じがした。
穏やかな表情でギターを見つめる彼女の表情に、指の動きに、そして、そこから奏でられる音楽に、心が洗われていくようだった。
どうしてこの人は、こんなに優しく、ぜんぶを肯定するような音を奏でることができるんだろう。
気づいたら私は、涙をこらえるのに必死だった。
凪は、チラリとこちらを見て、そんな私に気づいたのか、はじめは可笑しそうに笑い。
それから、なぜか彼女も泣きそうな表情になって、目を逸らした。
彼女がパッヘルベルのカノンを弾き終わった時、私は口を一文字に引き結んで、彼女を見て。彼女も、気恥ずかしそうに苦笑して。
そして、互いに何も言わなかった。
その後、凪は「じゃ、気分転換にこういうのも」と、私の知らない陽気な曲を一曲、弾いてくれた。私はやはり、音楽を楽しみつつ、彼女の演奏に見惚れていた。
それから凪は私に、打って変わって気楽な様子で、たくさんの質問をした。「君さぁ、京都の人じゃないやろ?」とか、「なんでこのへん、うろうろしてんの?」とか。
私は質問に答える形で、彼女にいろいろな話をした。
夏休みを利用して母の実家に帰省していて、いま京都にいること。普段はバスケットボールをしていること。体力が落ちないように、ランニングをしていること。
口下手は昔からだったこと。母がよく趣味でピアノを弾いているということ。その割に、私は全然音楽をせずに、聴くばかりで育ってきたのだということ。
私も凪に何か部活などしているのかを聞いてみたら、彼女は「あー、私は特に何も」と、面倒くさそうに答えていた。「ギターばっかり触ってるな、暇さえあれば」とも。
そろそろ夕食の時間だと思い、帰ろうとしたとき、凪は私に、その日最後の質問をした。
「七海は、何に勝ちたいの?」
結構唐突だったので、何の話か分からなかった。
「勝ちたい?」
「いやぁ、『必勝守』買ってたからさ」
凪が、長い人差し指を、私の手に握られた小さな白い紙袋に向ける。
ああ、そういえば、そうだった。お守りを買うのはただの口実だったので、すっかり忘れてしまっていた。
「一応、お盆休み明けに、バスケの公式試合があるから。それに勝てたらな、って」
「ふぅん……」
質問した割には、それほど興味がなさそうに、凪は答えた。
「ええな、勝ち負けある土俵に、上がれて」
「え?」
凪に羨ましがられた意味が、分からなかった。
勝ち負けのある、土俵?
「それだけで、恵まれたことやな」
凪は何かを諦めるかのように、ふっ、と笑った。
私はその時、「どういうこと?」と聞けばよかったのだと思う。そうすれば、もしかしたら凪は、話してくれたかもしれないから。
いや、はぐらかされてしまっていたのかも、しれないけれど。
帰り際にも、まだ雨はしとしとと、降り続いていた。
私は自分の雨傘を、ばさっ、と音を立てて開いた。
「凪さん、また、来てもいいですか」
「うん、ええよ。また、ギター聴きにおいでよ」
社務所の窓枠に肘をついたまま、凪は微笑んだ。
その言葉のやりとりだけが、私たちの約束だった。
でも、その夏はもうそれ以来、凪には会えなかった。
京都に滞在することになっていた残りの4日間、全部の日に、私は神社に行ったのだけれども。
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斜陽の私たちの夏 げん @genzo_pen
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