斜陽の私たちの夏

げん

第1話 Rasgueado

 なぎに出会ったのは、大学1年生の夏のことだった。

 


 その日、私はランニングシューズを履いて、夕方でもまだ少し蒸し暑い、京都の夏の中を走っていた。

 我が家では夏の恒例行事として、お盆休みに、京都にある母の実家に帰省をする。大学生になったのだし、今年からはもういいよね、とやんわり聞いてみたのだが、結局、私は母についていっしょに京都に帰省をしていた。

 母の実家はびっくりするほどやることがないので、昼間はゴロゴロしながら暑さをやり過ごし、夕方になると走りにでかける、というのが、帰省した際の私の日々のルーチンだった。

 ランニングは好きだ。特に、しばらく走った頃に訪れる、自らが〝自動機械〟になったような、時間帯が。

 ランニングでいちばん身体が重だるく感じられるのは、走り始め、まだペースがつかめていないときで。大抵の場合、辛抱強く走っていれば、徐々に走ることに身体がなじんでくる。

 はっ、はっ、と吐く息で、リズムをつくる。そうしているうちに〝今日の私のちょうどいいペース〟が定まってくる。

 身体との相談の中で、「じゃあ今日はこのくらいのペースでいこうか」ということが決まれば、そこからは体力が続く限り、ただひたすらに走ることが気持ちがいい、〝自動機械〟状態だ。

 一定のスピードで紙を吐き出す印刷機みたいに、同じペースで足を突き出す。

 たっ、たっ、たっ、と着地の衝撃が身体を揺らし、心地の良い刺激を生む。ぬるい風が頬を撫でる。

 「走る」という、ただそれだけを繰り返す感覚を全身で楽しむ。

 ランニングの最中におとずれるそういう時間が、私は好きだった。

 常に人間でいるのは、けっこうややこしいことだから。

 京都を走ると、いつもと違う景色を楽しむことができるのも良かった。

 母にとっては、ここはきっと小さいころからなじみのある場所なのだろうけれど、私にとっては、毎年夏休みに母に連れられて数日間だけ滞在する、ほとんど未知の土地だった。

 もし走っていたのが、京都ではなく自分が普段暮らす街だったら、と想像する。

 もし、京都でなかったら。

 たぶん私は、ああいう行動はとらなかっただろう。きっと少しばかり冒険心みたいなものが芽生えてしまったのだと思う。未知の土地、だったからこそ。

 きっかけは、私の耳が、美しいギターの音色を拾ったことだった。

 ジャララン、と豪快にかき鳴らされる音と、打って変わって丁寧に紡がれる、悩ましげなメロディーと。

 その音色は、誰かを誘っているようにも聴こえた。たぶらかすように、そそのかすように。

 私は、「ああ、えっと、こういうの、なんていうんだっけ」と、頭の中を探る。こういう曲って、ジャンルがあった気がする、と思って。

 あの、なんだか色気のあるダンスの、ほら、えーっと……あ、そうだ、

「フラメンコ」

 私は走りながら、小さく独り言を発した。

 音はどうやら、古い住宅地の中にぽつりと見える、あちらの小山の方からするらしかった。

 私は、その小山を目指して走った。好奇心のままに、音楽に誘われるように。

 その小山のふもとまで走ると、京都にはそこら中にある、見慣れた赤い鳥居が出現した。

「……神社……?」

 私は、「走る」自動機械となっていた自分をゆっくりと停止させるようにして、鳥居の前で立ち止まる。

 一階ほどの高さしかない小さな赤い鳥居の先には、不揃いな石段が、小山の上の方まで続いていた。

 ギターの音は、そちらの方からするようだった。この怪しげなメロディは、この曲の主題テーマみたいなものなのだろうか。繰り返し、丁寧につまかれて、私の心を誘った。

 行ってみよう、と決断するまでに、それほど時間はかからなった。

 私はそのメロディに誘い込まれ、吸い込まれるみたいにして、石段を登っていった。



 階段を上り切った先に、もう一つ、小さな鳥居があった。鳥居には、機野きの神社とあった。

 鳥居をくぐると、すぐ目の前には、賽銭箱の備えられた拝殿があった。

 左手には、竜の口からちょろちょろと水が流れ出る、手水舎ちょうずしゃ。柄の先が金属でできた古びた柄杓ひしゃくが、二本だけ申し訳程度に置かれている。その奥には、お札やお守りが置かれた社務所もあった。けれど、固く閉ざされていて、誰もいない。

 さほど広くない、一戸建ての住居のような神社だった。小ぢんまりとしていて、古めかしい。

 人っ子一人いないのに、人の気配が色濃く感じられるのは、きっと、線香の匂いが漂っているためだ。馴染みのある、庶民的な香りである。たぶん、蚊取り線香だ。

 ギターはどうやら、拝殿の中から聞こえるようだった。

 拝殿の中は暗くて見えなかったので、私は賽銭箱の目の前まで、歩みを進めた。

 神様が弾いているのかな、なんて、馬鹿げたことを妄想した。フラメンコのメロディは相変わらず繰り返されていて、終わる気配がない。もしかしたら、弾いている人が、楽譜で指示されている以上に、曲の一部を繰り返しループさせているのかもしれない。

 神社の拝殿なんかでギターを弾く人もいるものなんだなぁ、と少し驚きながら、せっかく来たのでお参りでもしておこう、と思って。

 私は、拝殿に向かって恭しく二礼し、手を合わせ、右手を少しずらしてから、大きな音で二回、柏手を打った。

 すると。

 ギターの音が止んだ。

 「あ、邪魔しちゃったかな……」と思いつつ、私は目を閉じ、適当なことを祈った。

 大会で勝利できますように、とか、かっこいいシュートが決まりますように、とか、ちゃんと単位が取れますように、とか。あと、そうだ、家族の健康も祈らないと、それから……あ、できればこれから大学で友だちがたくさんできたら嬉しいな、など、など。

 あふれんばかりの願望を、名前も知らない神様に雑に投げてから、目を開けると。

 賽銭箱の向こう側に、女の人が立っていた。

「……ぉわっ!!」

 びっくりして、思わず一歩、後ずさる。

 私と同じくらいの歳だろうか。身長はさほど高くないのだけれど、なんだか、手足が長い女性だった。

 髪はおかっぱで、丸い眼鏡をしている。でもそれは、いわゆる優等生的な風貌というよりは、どちらかといえば個性派俳優を髣髴ほうふつとさせる感じだった。たぶん、着ている服が、古着っぽいTシャツに、かなりダメージの入ったジーンズだったからだ。優等生はそういう格好をしない。

「ごめん、お客さん?」

 と、女性が口を開いた。母や祖母と同じ、京都弁のアクセントだ。

「え?」

「なんか、お札とか、お守りとか。そういうの、買いに来たん?」

「あ、いや、そうじゃ……」

 そうじゃない、というのも失礼な気がした。

 じゃあ神社に何しに来たんだよ、って話なので。だからとりあえず、ここに来た理由を、正直に話すことにした。

「あの……ギターの音が聞こえてきて、すごく、なんていうか……惹かれて。もっと聞きたいなと思って、来ました」

 他に人がいそうな気配はないから、たぶんこの人が、さっきのギターを弾いていたんだろう。でも、こんなに若い……たぶん、大学生くらいの人が、あんな上手にプロみたいなギターを弾いてたってこと……? ちょっと信じられないんだけど……

 彼女は私の言葉に、目を見開いてから、照れたようにはにかんだ。

「ぇえ、そっかぁ……嬉しい。」

 笑った顔が、かわいいなと思った。

 へにゃっと相貌が崩れる感じが、柔らかくて、ほんとうに嬉しそうで。

「じゃあ、ちょっと聴いてく?」

 彼女は、親指でくいっ、と後ろの拝殿を指した。

「え、いいんですか?」

 びっくりした。ああいうところって、そもそもなんというか、気軽に上がっていっていいものではないような気もしていたし。

 でも、彼女は私の問いかけには応えず、「はよ、こっちこっち」と言いながら、そのまま拝殿に入っていってしまった。

 え、どうしよう、靴って脱いだ方がいいのかな、なんて考えていたら、奥から「あ、そこのたたきで靴脱いでなぁ」と、気の抜けた声が聞こえてきた。

 私は彼女の言葉に従って、ランニングシューズを脱ぎ、拝殿に上がった。

 そこではじめに見た光景を、私は今でも、ありありと思い出せる。

 黒い床板が光る、だだっ広い空間の真ん中で、胡坐をかき、アコースティックギターを抱えた女性が一人。

 長い手足は、ギターを抱えると「ああこの人はこのために手足が長く生まれてきたんだな」という感じがするくらい、しっくりきていた。

 おそるおそる、「こんなところでギターなんて弾いていいんですか……?」と問うた私に、彼女は笑って言った。

「私は、神さんに音楽を奉納してるねん。別になんも、悪いことしてへん」

 と。

 でも、確かに。

 確かにこれは神事なのだと思えるくらい、ギターを抱えて拝殿の中央に座る彼女には、どこか神がかり的な美しさがあった。

「ここ、座りぃ。私のとっておき、聴かせてあげるし」

 彼女は手のひらを指し向けて、目の前に座るようにと、私を促す。

 薄暗い拝殿内をおずおずと歩き、私は彼女の前に正座する。彼女はその間、弦を鳴らしながらペグを回して、音の高さを調整していた。

「ちょっと待ってな、チューニング変えるから」

 ギターに関しては完全に素人の私でも、ペグを回すと、音が下がっていくのが分かった。複数の弦の音が下げられていく。

 というか、「チューニング変える」って、なんだ。

 よく分からないけれど、手慣れている感じだった。きっとその「とっておき」を演奏するために、必要な作業なんだろう。

「最近ずっと、練習してるやつなんやけどな」

 スッ、と息を吸ってから、彼女はその曲の演奏を始めた。

 その瞬間から、彼女の身にまとう空気が変わった。この拝殿の中の、空気さえも。

 彼女は曲を弾く〝自動機械〟になったのだと思った。いや、あるいは、人間ではない何かに。

 ポーン、と親指で鳴らされた低音に支えられ、彼女の人差し指と中指が、綺麗なアルペジオを奏でていく。

 あれ、このイントロ、どこかで聞いたことがある……たぶん、有名な曲だ。

 私はそれを聴きながら、場違いにも弦を弾く彼女の指を「綺麗だな」と思っていた。細くて長くて、でも、力強い。

 それに、自身の左手の方を見つめる彼女の真剣で切実な横顔は、とても美しくて。

 そうしてギターを弾く彼女の指と表情を見ているだけで、どこか心が苦しくなるような背徳感を覚えた。

 そのうち、彼女の奏でるイントロが、ゆらぎながらスピードを落とし、主要なメロディーに着地して。

 やっと、理解した。

 これは……

 「戦場のメリークリスマス」だ。

 切なく、美しいメロディーに、心が震える。

 薄暗い拝殿の中が、彼女の奏でる音楽で満たされていく。

 演奏中、彼女は時折、ギターの弦を、指の腹でタンっ、とタップした。

 そのたびに、普通にギターをつまくのとは異なる、透き通るようなきれいな響きが、拝殿の中を満たした。後に彼女に教わったところによると、タッピングハーモニクス、というらしい。

 まるで、打楽器みたいな演奏方法だと思った。

 彼女はそうして、ギターをギターらしく扱ったり、打楽器みたいに扱ったりして、めいっぱいギターで遊んでいた。

 私はそんな彼女を見ながら「同じなのかもしれない」と思った。私たちがバスケットをする時にボールで遊ぶみたいに、彼女は、ギターで遊んでいるんだ。たぶん、彼女の方がずっとずっとハイレベルではあるんだろうけれど。

 こんなに真剣に遊んでいたら、そりゃあ、上手くもなる。

 ふと、演奏の最中、彼女がチラッと私を見た。

 いつしかその切実な表情に惹かれてじっと見つめてしまっていた私は、その時、彼女とばっちり目が合ってしまって。

 驚いた私の表情が、可笑しかったのだろう。

 彼女は、ふっ、と笑った。

 たぶん、その瞬間だったと思う。

 私が、彼女に、心を持っていかれてしまったのは。

「私、この曲、すごい夏の夕暮れ時に合うと思ってるねんよなぁ。曲名にクリスマスってついてるんやけど」

 演奏の後、彼女はそう言って笑った。演奏中とは打って変わって、気楽な雰囲気だった。

 私は彼女の魅力にやられてしまって、演奏が終わってからも、何やらずっと緊張していたのだけれど。

 別れ際にはなんとか、「演奏、すごく素敵でした。聴かせていただいて、ありがとうございました」と、丁寧にお礼を言うことができて。

 その日は、名前も聞かずに別れ、ランニングの続きをしながら、祖母の家に帰宅した。

 それが、彼女に……凪に、初めて出会った日のことだった。

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