アペックス社異次元生命体接触記録

「労働基準監督署だ! 全員、そのまま動くな!」


田中武志の怒号が、無機質なオフィスに響き渡った。 「不正の総合商社」と揶揄される悪名高きアペックス社。田中はその強制捜査の先頭に立っていた。正義感の塊のような彼は、過重労働と労災隠蔽の決定的証拠を掴むべく、この日に賭けていた。


「田中さん、ちょっと張り切りすぎじゃないですか……」


後ろからついてくる同僚の前田文彦が、困ったような顔で小声で言った。前田は典型的な事なかれ主義者で、今回の捜査にも消極的だった。


「前田、何言ってるんだ。内部告発によれば、この奥にある『アローヘッド計画』の実験室こそが、違法残業の温床であり、証拠の隠し場所なんだぞ」


田中は前田の制止を振り切り、立入禁止のテープを引きちぎって実験室の重い扉を押し開けた。


そこは、奇妙な空間だった。 実験室の中央に、空気が歪んで見える場所がある。まるで空間そのものに亀裂が入っているかのような、紫色の光を放つ「裂け目」。


「な、なんだあれは……?」 前田が悲鳴に近い声を上げる。


田中がその裂け目に近づこうとした瞬間、空間が軋むような高周波音が鼓膜を突き破り、視界が真っ白に染まった。爆発。衝撃が田中の意識を彼方へと吹き飛ばした。


気がつくと、静寂があった。 田中は実験室の床に倒れていた。埃っぽい床の感触。ゆっくりと上体を起こすと、目の前に「それ」がいた。


人間ではない。巨大な甲殻類と昆虫を混ぜ合わせ、そこに蝙蝠のような翼を生やした、名状しがたい姿。関節がありえない方向に曲がった肢が、不快なリズムで蠢いている。


「ヒッ……!」 田中は後ずさった。前田の姿はない。


異形は田中に向かって、複眼をギョロリと動かした。殺される。そう直感した時、怪物は意外にも穏やかな、しかし不快なノイズ混じりの日本語を発した。


「ワレワレノ……カンソク……ヒガイ、デタ? ツグナイ……シタイ」


たどたどしいが、敵意はないようだ。だが、その姿は生理的な嫌悪感を催させる。 田中は震える手でポケットからスマホを取り出した。警察へ、いや誰でもいい、助けを。 しかし、スマホは爆発の衝撃で画面が粉々に砕け、電源も入らなかった。


「コマッテル……ソレ……コワレタ?」


異形はそれを見ると、長い触手のような指で田中の手からスマホをひったくった。 「あ!」 次の瞬間、異形はスマホを実験室の頑丈な金属机に叩きつけた。


ガシャン! バララッ!


スマホは完全にバラバラになった。基盤が飛び散り、見るも無惨な姿に。 「き、貴様!」 田中が激昂しかけた時、異形の手の中で破片が渦を巻いた。まるでビデオの逆再生を見るように、破片が集まり、融合し、瞬く間に元の形へと戻っていく。


異形はスマホを田中に差し出した。 傷一つない。画面のヒビ割れすら消えている。電源を入れると、何事もなく起動した。


「カンタン。コレグライ……カンタン」


異形は満足げに触角を揺らした。


「ホカニモ、ナオシテホシイモノ……アル? アレバ、『ヘーカス』ト、ヨベ」


そう言い残すと、異形は空間の裂け目の中へと吸い込まれるように消えていった。


田中は呆然としたまま、スマホを握りしめた。現実感がなかった。だが、長年の習性が彼を突き動かした。彼はふらつく足取りで実験室の端末を操作し、「従業員の残業時間改変」のログを見つけ出し、データを保存した。


「へっこんな大胆な悪事をやったにしては無能な奴だ。こんなハッキリとした証拠を残すなんてな」


田中はあっさり見つかった不正の証拠に安堵した。


~~


庁舎に戻ると、前田がデスクで真っ青な顔をして座っていた。 「おい、前田! 先に帰ってたのか!」 「た、田中さん!?」 前田は幽霊でも見たかのような顔で田中を見つめた。「ぶ、無事だったんですか……?」


「無事も何も、あの爆発で気絶してただけだ。お前こそ、あそこで何を見た? あの怪物は何だったんだ?」


「か、怪物? ……いえ、僕は爆発の煙で何も……よく見えませんでした。先に逃げてしまってすみません」 前田は目を合わせようとしない。 「それより田中さん、体の調子は? どこか痛むところとか、変わったことは?」


「……いや、特にない。ピンピンしてるよ」


実際は変わったところがないどろか、身体の調子はすこぶる良かった。


その夜。 帰宅した田中を迎えたのは、娘の泣き声だった。 「パパ……ハムスターの『チビ』が動かないの……」


娘の手の中には、冷たくなったジャンガリアンハムスターが握られていた。妻が困った顔で「もう寿命だったのよ」と諭すが、娘は泣き止まない。 妻がこっそりと田中に耳打ちする。 「明日、あの子が学校に行ってる間に、どこか見つからない場所に埋めてあげて」


田中は頷いた。「ああ、分かった」 彼は動かなくなった小さな体をタオルに包み、通勤バッグの底に入れた。


「あら貴方、お弁当……」妻はそう言って、田中が手を付けなかったお弁当を取り出した。あんな事が起こった後だ。田中は何も食べる気になれなかったのだ。


~~


翌日。アペックス社の捜査は続いていた。 田中は一人で再びアローヘッド計画の実験室に入った。封鎖線が張られているが、捜査官の特権で中に入る。


誰もいない実験室で、田中は呟いた。 「……ヘーカス」


空間が歪み、あの異形が現れた。 「ナオシテ、ホシイ?」


田中はバッグの中身を机の上に広げた。 爆発で止まってしまった腕時計、破れたハンカチ、そして娘が先日壊してしまった恐竜のフィギュア。 「これを直してくれ」


異形はまず腕時計を手に取った。 ガシャン! 床に叩きつけ、バラバラの部品にしてから、一瞬で修復する。 続けてハンカチを引き裂いてから元に戻し、フィギュアも一度踏み潰してから元通りにした。


「すごい……本当に完璧だ」 田中が感嘆の声を上げ、バッグを片付けようとした時、異形がバッグの底に残っていたタオルをつまみ上げた。 中から、ハムスターの死骸が転がり落ちた。


「あっ、それはいいんだ! それは直さなくて──」


田中の静止は間に合わなかった。 異形はハムスターの死骸を掴むと、全力で机に叩きつけた。


グチャッ!


生々しい音が響き、肉片と血が飛び散った。 「やめろぉぉぉッ!!」 田中が叫んだ直後、飛び散った肉片が蠢き、集まり、再構築された。


数秒後。そこには、鼻をヒクヒクと動かす元気なハムスターの姿があった。


「ナオッタ」 異形はそう言うと、「ヤボヨウ、デキタ」と言い残し、姿を消した。


田中は震える手でハムスターをタオルに包み直した。温かい。心臓が動いている。生きている? 恐怖と、娘が喜ぶだろうという奇妙な安堵が入り混じり、田中は混乱したまま帰路についた。


~~


「わあ! チビが治った!」 娘は大喜びだった。田中は「獣医さんが凄腕だったんだ」と嘘をついた。妻は新しい個体を買ってきたのだと察し、目配せをしてきた。


「ほら! チビの長い尻尾もそのままでよかったぁ~!」 娘がハムスターの尻尾を摘まんだ。チビは他のハムスターと比べて尻尾が長く、それが可愛いと娘は気に入っていた。


それを見て少し首を傾げる妻。田中は妻にソッと「ペットショップを何件もはしごして似たようなハムスターを探してきたんだ」と耳打ちした。妻は「それにしては随分帰宅が早いのね」と訝しがったが、田中は「猛ダッシュしたんだ」と誤魔化した。


実際、田中の身体は活気が満ちており、今の体調ならそれぐらいは容易に出来そうな気がする。「それにしてもソックリ…」と言いかける妻だったが、娘の「ありがとう、パパ大好き!」という満面の笑みを見て、それ以上の追及はやめる事にした。


娘はニコニコしながらハムスターを滑車で遊ばせ始める。


カラカラカラカラ……。 ハムスターは猛烈な勢いで滑車を回し始めた。


「あら貴方、またお弁当残したの?」


妻が田中のバッグから手つかずのお弁当を取り出す。田中は捜査に加えて、あの異形のショックによってお昼ご飯が頭からすっ飛んでいた事に気付いた。


翌朝。 田中が起きると、リビングから音が聞こえる。 カラカラカラカラ……。 ハムスターは、昨夜から一睡もせず、一度も餌を食べず、猛烈な速度で滑車を回し続けていた。


「……元気すぎるな」 田中は不安を覚えながらスマホを見た。昨日から充電していないのに、バッテリー表示は『100%』のまま。 「故障か?」


通勤電車の中、田中はスマホの画面をよく見ようと顔を近づけた。 違和感があった。ホームボタンの横の黒いフレーム部分。そこによく見ると、木目のような模様がある。 いや、模様ではない。これは── 「木片?」 アペックス社の実験室にあった、木製テーブルの材質と同じものが、スマホのプラスチックと完全に融合して埋め込まれていた。


寒気がした。 田中は実験室へと急いだ。 もう次元の裂け目は消えていた。静まり返った実験室。


スマホが鳴った。妻からのメッセージだ。 『見て! チビったら本当に元気! あなた、苦労して探してくれてありがとう』 添付された写真には、娘の手の上で仰向けになったハムスターが写っていた。


田中の呼吸が止まった。 ハムスターの白い腹の毛の中に、紙切れのようなものが埋め込まれている。 拡大する。そこには『アローヘッド計……』という文字。 実験室に散乱していた機密書類の一部が、ハムスターの腹の肉と一体化していた。


「な、なんだこれは……」


その時、田中は気づいた。 爆発の日以来、自分は一度も「眠気」を感じていない。 一度も「空腹」を感じていない。 一度も「疲れ」を感じていない。


猛烈な悪寒が背筋を駆け上がった。 田中はトイレの個室に駆け込み、ベルトを外した。ズボンを下ろし、自身の身体をまさぐる。 太ももの裏側に、硬く冷たい感触があった。


鏡を使って確認する。 そこには、大理石が埋まっていた。 皮膚が盛り上がり、大理石の破片が筋肉と融合している。


田中は服を整えると、実験室に走った。 実験室の奥にある、大理石でできたサイドテーブル。その角が、大きく欠けていた。 自分の太ももにある石と、同じ形。


「う、うわああああっ!!」


田中は昼食休憩中だった前田を捕まえ、実験室に引きずり込んだ。 「前田! 正直に言え! ああの日、何があった! 俺はどうなったんだ!」


前田は震え上がり、泣き出した。 「い、言えなかった……言えるわけがない……」 「何をだ!」


「あの日、爆発で……田中さんは……田中さんは……」


前田は嘔吐きながら、絶望的な事実を口にした。


「田中さんは、木っ端微塵になったんです……肉片も残らないくらい、バラバラに……」


田中の脳裏に、スマホを叩きつける異形の姿が蘇る。 ハムスターを叩き潰す音。 『コワレタ? ナオ、ス?』


「僕はパニックになって……あの怪物に頼んでしまったんです。『田中さんを直してくれ』って……!! そしたら、あいつ、部屋中の瓦礫も家具も書類も一緒くたにして……あなたを『直した』んです!」


田中は自分の手を見た。 一見、人間の手だ。だが、この皮膚の下には、机の破片や、パイプ椅子の金属や、床のタイルが混ざり合って詰め込まれている。 バッテリーが減らないスマホ。眠らないハムスター。そして自分の疲れず腹も空かない体……。


「あ、ああっ……」


田中は膝から崩れ落ちようとしたが、膝関節に埋め込まれた金属片がそれを許さず、奇怪な音を立てて立ったまま硬直した。


~~


2025年12月 東都新聞


アペックス社捜査員、取調べ中に錯乱

防衛省発注の極秘計画「アローヘッド計画」を主導していたアペックス時空力学工業(以下、アペックス社)の労働基準法違反の疑いについて捜査していた労働基準監督署の職員が、取り調べ中に錯乱状態に陥った。記者の調べによると職員はアペックス社の実験室の捜査中に「ヘーカス」と虚空に向かって叫び続け、産業医による診断を受ける事となったという。この錯乱の原因はアペックス社保有の神経ガスの影響と見られ、労働基準監督署は労働安全衛生法の面でもアペックス社の不正を追及する方針を固めた。

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2026年1月14日 10:00
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アペックス社二次災害 rei @reiyuri

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