円環の手
高田精密の真面目な社員、佐野史郎の朝は、粘つくような違和感と共に始まった。
枕元には、彼が密かに思いを寄せていた熊田曜を誘って行った、インディーズバンド「PANDORA」のライブ限定Tシャツが畳まれている。財布を開けば、ラブホテルの領収証が確かにそこにある。スマホのLINE画面には、深夜に曜と交わした「これからの二人の関係」についての、少し気恥ずかしくなるような真剣なやり取りが残っていた。
全てが、昨夜の成功を物語っていた。史郎は長年の奥手な自分を乗り越え、最高の夜を過ごしたはずだった。
しかし、史郎の脳裏には、その記憶が一切ない。
まるで録画データが破損したように、昨日の記憶だけがすっぽりと抜け落ちていた。出社して曜と顔を合わせても、どう接していいか分からない。曜の方も、昨夜の熱情が嘘のように余所余所しく、二人の間には以前よりも深く冷たい溝ができてしまった。
それだけではない。仕事中、史郎は何度も単純なミスを繰り返した。同僚の名前が出てこない、進行中のプロジェクトの内容が思い出せない。昨日の記憶が、曜とのことだけでなく、完全に消失していることに気づいた時、史郎はデスクで吐き気を催した。
「誰だ……誰が俺の昨日を奪ったんだ!」
帰宅後、史郎は誰もいない自室で叫んだ。恐怖と怒りが混ざり合い、理性を蝕んでいく。「責任とれよ! 俺の大切な一日を返せ!」
その夜、史郎は夢を見た。
それは夢と呼ぶにはあまりに鮮明で、冒涜的な光景だった。彼の意識の深淵に、その存在はいた。玉虫色に輝く鱗に覆われた巨大なドラゴンのような姿。だが、その身体には数え切れないほどの眼球が埋め込まれ、無秩序に生えた触手が空間そのものを歪めるように蠢いている。直視するだけで精神が削り取られるような、宇宙的恐怖の具現。
史郎が恐怖で声を失っていると、その怪物は、意外なほど知的で、そして事務的な声で語りかけてきた。
『――申し訳ない。我が配信を観測するための因果律操作の影響で、貴殿とその周辺の時空間記録に欠損が生じてしまったようだ』
「は……? 配信? 何を言って……」
『貴殿の言葉で言うところの「昨日」を奪ってしまったこと、深くお詫びする。責任を取らせていただきたい』
あまりに丁寧な物言いに、史郎は混乱したまま問い返した。
「責任って……お前に何ができるんだよ! 何でもできるって言うのか!」
怪物の無数の眼球が、一斉に史郎を見つめた。
『左様か。「何でもできる力」が貴殿の望みか。承知した』
怪物の身体から、一枚の鱗が剥がれ落ち、史郎の手のひらに舞い降りた。
『この鱗に願うがいい。三度まで、貴殿の望む事象をこの現実に上書きしよう。私はお風呂に行かねば……』
***
目を覚ますと、史郎の手には奇妙な温かさを持つ、玉虫色の鱗が握られていた。夢ではなかったのだ。薄気味悪さを感じながらも、史郎はその鱗をスーツのポケットに忍ばせて出社した。
昼休み。会社の食堂で、史郎は同僚の小泉太一に、曜との関係が事実上破綻したことを打ち明けた。軽薄だが根は悪い奴ではない小泉は、彼なりに史郎を慰めようと肩を叩いた。
「元気出せよ佐野。たかが一回の失恋だろ? 女なんて星の数ほどいるじゃないか」
その無責任な慰めが、史郎の神経を逆撫でした。昨日の記憶を失い、曜との関係も壊れ、精神的に追い詰められていた史郎は、つい声を荒らげてしまった。
「うるさいな! だったら俺にくれよ! その星の数ほどの女を!」
ポケットの中で、鱗が微かに熱を帯びた気がした。
ドサリ、と音がした。
隣で小泉が床に倒れ伏していた。白目を剥き、口から泡を吹いている。心停止だった。食堂がパニックに陥る中、史郎は呆然と立ち尽くした。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
その日の夕方、緊急ニュースが世界を駆け巡った。原因不明の同時多発的な心不全により、世界中の「男性」が死滅したと。
確認できる限り、老若問わず、全ての男が死んだ。
社会インフラの維持管理を担っていた男性が突如として消えたことで、世界は急速に崩壊を始めた。あと十二時間で電力供給が止まり、七十二時間後には物流が完全に麻痺するとの予測が出された。
この未曾有の事態に対し、政府機能すら停止する中、以前から非常事態に備えていた巨大複合企業「アペックス社」が動き出した。彼らは残されたインフラと物資を掌握し、生き残った唯一の男性である佐野史郎を確保した。
「人類復興計画」
それがアペックス社の提示した狂気の沙汰だった。現在生き残っている全ての女性を、たった一人の男、佐野史郎に与える。
混乱の極みの中、史郎はアペックス社のシェルターへと連行された。そこで彼を待っていたのは、アペックス社の元社員であり、この事態に対応するために招集された熊田曜だった。
「佐野くん、無事だったのね……」
やつれた顔の曜を見て、史郎は安堵と共に、事の顛末を全て話した。あの奇妙な夢と、ドラゴンの鱗、そして自分の不用意な願いが世界を滅ぼしたことを。
「なんてこと……」曜は絶句した。「私がアペックス社で関わっていた極秘プロジェクト、『アローヘッド計画』……あれは異次元を観測するためのものだった。あなたが接触したのは、その異次元の住人……いえ、或いは更に上位の……」
「曜さん、俺は取り返しがつかないことをした。でも、まだ鱗の力は二回残ってる!」史郎は鱗を取り出し、叫んだ。「これで、死んだ男たちを全員生き返らせる!」
「待って! やめて!」曜が史郎の手を掴んだ。「あの存在は、私たちの常識では測れない。不用意な願いは、どんな形で叶えられるか分からないわ!」
「でも、このままじゃ人類は終わりだ! やるしかないんだよ!」
史郎は曜の手を振りほどき、鱗に向かって強く念じた。
「頼む! 全ての男を生き返らせてくれ!」
鱗が一瞬、強く輝いた。
シェルターの外、そして世界中で、静寂を破るような悲鳴と、何かが這いずり回るような音が響き始めた。
「やった……! 生き返ったんだ!」
史郎は歓喜し、モニターを確認した。確かに、街中を男たちが歩いている。しかし、様子がおかしい。
彼らは皆、虚ろな目をしていた。言葉を発さず、目的もなく彷徨い、壁にぶつかっても方向を変えようとしない。
「そんな……」曜がモニターを見て呻いた。「死んでいた時間の経過で、脳細胞は壊死している……。その他の臓器も腐敗が始まっているわ。あれは、ただ命だけを与えられて動いている死体よ」
世界は、ゾンビのような男たちで溢れかえった。事態は悪化していた。
「私の推測が正しければ、あのドラゴンは高位次元の存在。私たちの宇宙の物理法則なんて、彼らにとっては落書きのようなもの」曜は震える声で言った。「でも、希望はある。その鱗はドラゴンの体の一部。量子的なつながりがあるはず。『アローヘッド』の観測装置を再起動させて、その鱗を触媒にすれば、ドラゴンの座標を特定して、直接接触できるかもしれない」
「接触して、どうするんだ?」
「この事態を収拾するように頼むのよ。他に方法はないわ。幸いドラゴンは貴方の願いを一度は聞いてる。もう一度、貴方から頼んでみて」
電力がダウンするまで、残り六時間。
史郎と曜、そしてアペックス社の女性技術者たちは、地下深くの実験施設へと走った。埃を被った巨大なリング状の装置「アローヘッド」が、再起動の時を待っていた。
作業は困難を極めた。男性スタッフがいない中、不慣れな手つきでシステムの復旧が進められる。だが、設備の老朽化は深刻だった。
「座標特定、あと少し……!」曜がコンソールを操作しながら叫ぶ。
その時、激しい火花と共に、装置の主要な電源ケーブルが断裂した。警報音が鳴り響く。
「ダメ! 電力が足りない! 座標を見失う!」
「くそっ!」史郎が駆け寄ろうとするが、それより早く、曜が動いた。
曜は断裂した高圧ケーブルの両端を、素手で掴んだ。
「曜さん!?」
「早く! 座標を確定して!」
曜の体が青白いアーク放電に包まれる。彼女の絶叫が施設に響き渡った。彼女は自らの体を導体として、回路を繋いだのだ。
「座標特定! 成功しました!」技術者の悲痛な声が上がる。
それと同時に、曜の体は炭化し、崩れ落ちた。
「曜さん!!」
史郎は駆け寄り、彼女の変わり果てた姿を抱きしめた。涙が溢れて止まらない。
「嘘だ……こんなの……。そうだ、鱗! 鱗で曜さんを!」
史郎はポケットから最後の願いを宿した鱗を取り出した。だが、曜の最期の言葉が脳裏をよぎる。
『異次元では何が起きるか分からないから、最後の願いは貴重にとっておけ。最悪、異次元探索に失敗した時、それを使ってドラゴンを呼び出す手も考えられる……』
彼女は、自分の命よりも、人類の存続を優先しろと言い残したのだ。
「佐野さん! 急いでください! 電力が落ちます! ゲートを開いて!」
アペックス社の社員たちが彼を急かす。目の前には、異次元へと繋がる不安定な光の渦が開いていた。
だが、史郎は動けなかった。
自分のせいで世界が壊れた。小泉が死んだ。そして今、愛する曜までもが、自分の目の前で犠牲になった。
残されたのは、ゾンビが徘徊する絶望的な世界と、最後の願いを宿した一枚の鱗。
「……嫌だ」
史郎は呟いた。
「こんな世界を救うために、曜さんがいない世界で生きていくなんて、絶対に嫌だ!」
絶望が、彼の心を黒く塗り潰した。もう、責任も、人類の未来も、どうでもよかった。ただ、この耐え難い現実から逃げ出したかった。
史郎は鱗を握りしめ、魂の底から叫んだ。
「こんなの全部、夢になって消え失せろ!!」
鱗が、これまでで最も強く、眩い光を放った。光は全てを飲み込み、世界を白く染め上げていった。
***
「……う、ん」
佐野史郎は目を覚ました。
見慣れた自室の天井。朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
「夢……か」
ひどく長く、恐ろしい悪夢を見ていた気がする。だが、内容は思い出せない。
体を起こすと、枕元に畳まれたTシャツが目に入った。インディーズバンド「PANDORA」のライブ限定Tシャツ。
(そうだ、昨日は曜さんとライブに行ったんだった……)
胸が高鳴る。スマホを手に取り、LINEを確認する。そこには、深夜に曜と交わした「これからの二人の関係」についての、少し気恥ずかしくなるような真剣なやり取りが残っていた。
(やった……! 夢じゃなかった!)
財布を開けば、ラブホテルの領収証が確かにそこにある。
全てが、昨夜の成功を物語っていた。史郎は長年の奥手な自分を乗り越え、最高の夜を過ごしたはずだった。
しかし、史郎の脳裏には、その記憶が一切ない。
まるで録画データが破損したように、昨日の記憶だけがすっぽりと抜け落ちていた。
「おかしいな……飲みすぎたわけでもないのに」
史郎は釈然としない思いを抱えながら、スーツに着替えた。
会社に行けば、きっと曜と顔を合わせるだろう。どんな顔をして挨拶すればいいだろうか。昨日の情熱的な夜の記憶がないまま、彼女と向き合わなければならない。
不安と、微かな期待を胸に、史郎は家を出た。
円環は閉じた。そしてまた一日が始まる。
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