アペックス社二次災害

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労災とサビ猫

山は、乳白色の呼気に飲み込まれようとしていた。


「対象を確認。座標、動かず」


アペックス社の社員である男は、無線機に向かって荒い息を吐いた。スーツの裾は泥と血で汚れ、高級な革靴は既にその機能を失っている。 当初、この山に入ったチームは12名いた。だが今は、彼一人が残るのみだ。悲鳴も、銃声もなかった。仲間たちは、霧が濃くなるにつれて、ただプツリと存在が途切れるように消えていったのだ。


「クソっ、あの計画立案者め!なんて無能なんだ!引き継ぎ書もなしに逃げやがって!!」


男はハンドガンを握りしめ、前方の茂みを凝視した。 そこに、それはいた。 一匹のサビ猫。黒と赤茶が複雑に入り混じった、美しい毛並みを持つ猫だ。宝石のような金色の瞳が、男を静かに見つめ返している。


「逃がさん……絶対に殺す。ここで終わらせないと、次元が……」


男は霧をかき分け、猫を追い詰めた。猫は逃げる素振りを見せつつも、どこか男を誘導するかのように湖畔へと降りていく。 視界が開けた。湖のほとりには、カラフルなテントがいくつか張られ、若い女性たちの姿が見えた。民間人だ。


「どいてろ!」


男は叫び、猫へ銃口を向けた。 猫は少女たちの足元に滑り込み、あろうことか「守られる側」の顔をして丸くなった。 男は躊躇せず引き金を引こうとした。その瞬間、心臓を万力で握りつぶされたような激痛が走った。


「はっ……クタバレムセキニン」


銃が手から滑り落ちる。男は膝をつき、目を見開いたまま地面に倒れ込んだ。 薄れゆく視界の端で、サビ猫がゆっくりとあくびをするのが見えた。 その口の中が、無限の深淵に繋がっているような錯覚を覚え、男の意識は永遠の闇に落ちた。


~~


「きゃあああっ!?」


突然倒れ込んだ男に、野外活動部の女子高生たちは悲鳴を上げた。 部員の中心にいた部長が、恐る恐る男に近づき脈を確認する。


「……ダメだ。心停止してる」 「嘘でしょ……警察呼ばなきゃ!」


陽菜がスマホを取り出すが、画面を見て首を振る。


「圏外だ。霧のせいかな、さっきまで繋がってたのに」


男が必死の形相で狙っていた足元のサビ猫は、今や部長の足にすり寄り、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。


「可哀想に。この人に追われてたんだな」


部長は猫を抱き上げた。猫は大人しくその腕に収まる。


「とりあえず、この遺体をブルーシートで覆って、警察と連絡がつくまでテントで待機しよう。霧も凄くなってきたし、外にいるのは危険だ」


私たちは部長の指示に従い、男の遺体をキャンプサイトの端に安置し、各自のソロテントへと戻った。 私のテントに入り、シュラフに潜り込む。外は既に真っ白な霧で何も見えない。


スマホの通知が鳴る。Wi-Fiルーター経由のグループLINEだ。通話はできないが、データ通信は微弱ながら生きているらしい。



[野外活動部(5)]

咲綾(2年): まじ怖すぎなんだけど。あの人何だったの?

亜子(1年): アペックスって名刺持ってた。ヤバい会社の人?

陽菜(1年): それより猫ちゃん大丈夫かな? 部長のテントにいるんだよね?

部長(3年): ああ、私のテントでおとなしくしてる。毛並みが良くて可愛いぞ。名前はまだない。


画面の向こうの会話に、私は少しだけホッとした。陽菜の明るいスタンプが、恐怖を和らげてくれる。私は陽菜に密かに憧れていた。彼女のようなコミュ力があれば、こんな状況でも気の利いたことが言えるのに。


咲綾: てかさ、来週のK-popのライブ、まじ楽しみ。この霧晴れたら即下山してチケット発券しなきゃ。

亜子: またその話? それよりPANDORAの新曲聴いた? 歌詞が深すぎて泣けるんだけど。

咲綾: は? インディーズバンドとか興味ないし。


いつもの咲綾先輩と亜子ちゃんの喧嘩だ。日常が戻ってきた気がした。 しかし、ふと気づく。 部長の発言が、ピタリと止まっていた。


私: 部長? 大丈夫ですか?


既読はつく。だが、返信はない。 嫌な予感がした。私は勇気を出してLINE通話をかける。 コール音は鳴る。だが、出ない。


「……ちょっと、見てくる」


私は独り言をつぶやき、テントのジッパーを開けた。 濃密な霧が冷気と共に流れ込んでくる。部長のテントは私のすぐ隣だ。


「部長?」


返事はない。テントの入り口は半開きになっていた。 中を覗き込む。


そこには、誰もいなかった。 シュラフの上に、スマホが置かれたまま画面が光っている。 そしてその横に、あのサビ猫が座っていた。 猫は私をじっと見つめている。金色の瞳が、ランタンの光を反射して怪しく輝いていた。


「部長……?」


トイレだろうか? 私は自分のテントに戻り、震える指でグループLINEに書き込んだ。


私: 部長がいない。テントに猫しかいないです。


送信した直後、画面に文字が現れた。


部長: ごめんごめん、ちょっと外で変な音がしたから周辺調査してた。すぐ戻るよ。


心臓が早鐘を打つ。 「調査してた」? スマホはテントに置きっぱなしだったのに? 部員たちは「びっくりさせないでよー」「さすが部長、行動力ありすぎ」と安堵のスタンプを送っている。


胸騒ぎが止まらない。 私はもう一度、部長のテントへ向かった。 やはり、誰もいない。スマホもそのままだ。 そしてサビ猫が、さっきと同じ姿勢で、じっと私を見ていた。首の角度すら、1ミリも変わっていないように見えた。


私は震える手でスマホを取り出し、無人のテントと猫の写真を撮り、グループに送信した。


私: [写真送信]

私: 本当にいないんです。スマホも置きっぱなし。なのに返信が来るなんておかしい。

咲綾: は? 悪ふざけやめてよーw

亜子: 霧でトイレ行っただけじゃないの? 画像加工?


信じてもらえない。私は焦ってビデオ通話のボタンを押した。 数秒後、全員が応答する。画面分割でみんなの顔と、私のカメラが映す部長のテントが表示される。


「ほら、見てください! 誰も……」


私がカメラをテントの中へ向けた、その瞬間だった。


『ギャアアアアアッ!!』 『うそ、なにそれ!?』 『逃げて!! 今すぐそこから離れて!!!』


スピーカーから、鼓膜が破れそうなほどの絶叫が響いた。 え? 何? 私の目には、ただの猫と無人のテントしか映っていない。 だが、画面の向こうの皆は、何か恐ろしいものを見たかのように顔を引きつらせている。


「逃げて! こっち見ちゃダメ!!」


陽菜の悲痛な叫びに、私は反射的に走り出した。 自分のテントに飛び込み、入り口を閉め切る。心臓が破裂しそうだ。


私: なに? 何が見えたの!?


亜子: 影が、溶けてた

咲綾: 目がいっぱいあった。猫じゃなかった

陽菜: あの猫の周りの空間、歪んでたよ。琴音ちゃん、大丈夫!?


そして、通知が鳴る。


部長: みんな大げさだなあ。もうテントに戻ってるよ。猫ちゃん可愛い。


背筋が凍りついた。 部長のテントには誰もいなかった。それは確実だ。なのに、部長のアカウントは平然と会話を続けている。


その時、個人LINEの通知が来た。陽菜からだ。


陽菜: グループじゃ言えないけど、直接会って話したい。私のテントに来れる?


私は頷き、這うようにして陽菜のテントへ向かった。 テントに入ると、陽菜ちゃんが青ざめた顔で座っていた。いつも明るい彼女が、小刻みに震えている。


「来てくれてありがとう……。あのね、変なの」


陽菜ちゃんは声を潜めた。


「咲綾先輩も、同じなの」


「え?」


「さっき咲綾先輩のテントの近くを通った時、中を覗いたの。誰もいなかった。……サビ猫がいただけ」


「サビ猫? だって猫は部長のテントに……」


「そうなの。でも、LINE見て」


グループLINEでは、咲綾先輩が『K-popの推しの画像』を貼り付け、部長と楽しそうに会話している。


「メッセージは送られてるのに、テントには猫しかいない。部長と同じ状況……」


薄気味悪い沈黙が流れた。


「確認しよう。二人で」


私たちは手を繋ぎ、霧の中へ出た。


まず、咲綾のテント。 中を覗く。咲綾先輩はいない。 ……サビ猫がいた。こちらを見て、金色の目を細める。


次に、部長のテント。 部長はいない。 ……サビ猫がいた。全く同じ姿勢で、こちらを見ている。


「……嘘でしょ」


陽菜ちゃんが呟く。


「ちょっと待ってて。私、もう一回咲綾先輩のテント見てくる。琴音ちゃんはここで見てて」


陽菜ちゃんが霧の中に消える。数秒後、ビデオ通話がかかってきた。 画面には、咲綾先輩のテントの中のサビ猫が映っている。 そして私の目の前には、部長のテントの中のサビ猫がいる。


「……模様、同じだよね?」


画面越しの陽菜ちゃんの声が震える。 目の前の猫の、左耳の小さな欠け。右前足の複雑な縞模様。 画面の中の猫にも、全く同じ特徴があった。 双子ではない。クローンですらない。 そこに存在するのは、「同一の個体」が「同時に二箇所に存在する」という、物理法則を無視した光景だった。


「戻ろう! 亜子ちゃんのところへ!」


私たちは合流し、亜子ちゃんのテントへ走った。 嫌な予感しかしない。 亜子ちゃんのテントのジッパーを開ける。


……亜子ちゃんの姿はない。 サビ猫が、一匹、ちょこんと座っていた。


「ひっ……!」


三匹に増えたのか、それとも瞬間移動したのか。 私たちには分からなかったが、その猫が「猫の形をした何か別の法則」で動いていることだけは理解できた。 猫は、ただそこに「在る」だけで、周囲の現実を侵食しているようだった。


私たちは悲鳴を上げて、私のテントへ逃げ帰った。 入り口を閉め、バックパックや荷物でバリケードを作る。


スマホを見る。 グループLINEは、異様な盛り上がりを見せていた。


部長: ねえ、霧が晴れてきた気がしない?

咲綾: ほんとだー! 月が見えるかも。

亜子: PANDORAの曲流しながらキャンプファイアしたいね!


彼女たちの言葉は、あまりにも「普通」で、それが余計に恐ろしかった。 私たちは震える指で入力する。


私: みんな、今どこにいるの?

部長: 自分のテントだよ?

咲綾: テント。

亜子: テントだけど? どうしたの?


「嘘だ……」


陽菜ちゃんが頭を抱える。


「みんな、あいつに取り込まれちゃったんだ。体は消えて、意識だけがネットの中に……いや、あのメッセージも本人のものかどうかも……」


テントの外で、衣擦れのような音がした。 ジャリ、ジャリ、と何かが近づいてくる音ではない。 もっと粘着質な、空間そのものが軋むような音。


「ここから出よう」


私は決意した。


「霧の中で迷ってもいい。ここにいたら、私たちも消されるかも」


「う、うん……そうだね」


私はリュックを背負い、テントの出口を確保しようと荷物を退かした。


「陽菜ちゃん、行くよ。手を離さないで」


返事がない。 振り返る。


そこには、陽菜ちゃんの姿はなかった。 私のシュラフの上に、サビ猫が座っていた。


「……え?」


猫は、陽菜ちゃんがさっきまでいた場所で、陽菜ちゃんがしていたように小首をかしげた。 その金色の瞳には、何の感情も映っていない。ただ、宇宙のような虚無があるだけだ。


スマホが鳴る。


陽菜: あれ? 琴音ちゃん、どうしたの、急に黙って。


私は悲鳴を上げることもできず、ただスマホの画面と、目の前の猫を交互に見つめた。


霧が、テントの中まで満たし始めていた。


~~


2025年12月 東都新聞(朝刊)社会面


県内山間部で行方不明の女子高生5人、捜索続く

今月×日、県内のキャンプ場で野外活動部の女子高校生5人が行方不明となった事件で、警察は本日も捜索を続けたが、手掛かりは発見されなかった。 現場には争った形跡はなく、テントや所持品、スマートフォンなどがそのまま残されていた。 捜索隊の関係者によると、現場付近には一匹のサビ猫が住み着いており、捜索員の後をついて回っているというが、関連性は不明である。

警察は、事件と事故の両面で捜査を進めている。



2025年12月 東都新聞(夕刊)


アペックス社、社員20名の「失踪」を隠蔽


厚労省調査で判明 行方不明者を「自己都合退職」と偽装


前代未聞の労災隠し、組織的改ざんの実態

防衛省発注の極秘計画「アローヘッド計画」を主導していたアペックス時空力学工業(以下、アペックス社)が、実験中に行方不明となった社員20名に対し、本人や家族の承諾なく「自己都合による退職」として処理していたことが、厚生労働省の特別調査で明らかになった。


組織的な「存在の抹消」

厚労省が押収した内部資料および人事記録によると、失踪した20名の社員はいずれも「次元穿孔実験」の直接的な観測、あるいは保守作業に従事していた。同社は、これら社員が実験の何らかの影響により消息を絶った直後、「一身上の都合により退職」と記された退職願を組織的に捏造していた疑いがある。


偽装工作の卑劣な手口

調査によって判明した同社の悪質な手口は以下の通りである。


・署名の筆跡偽造: 行方不明となった社員の署名が、失踪の数日前の日付で退職願に記されていた。


・退職金の未払い: 「自己都合」とすることで、会社都合の労災補償を回避。一部の家族には「機密保持手当」名目での少額の口止め料が支払われていた。


・失踪場所の隠蔽: 警察への行方不明者届を提出せず、「本人の意思による無断欠勤・失踪」として処理。


被害者家族の悲痛な訴え

失踪した研究員の妻(30代)は、涙ながらに記者に語った。 「主人はあの日、猫の話ばかりしていました。『仕事で不思議な猫を追いかけている』と。その後、会社からは『別の女性と蒸発した』と言われ、無理やり離婚届と退職願に判を押させられたんです。でも、信じていません。今でも夜中には主人の影が現われて、家の中を歩いている気がするんです……」

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