少女たちの筆圧

シーケンス1:現状と違和感

教室の空気は、常に熱を帯びた「騒音」によって支配されていた。県立北高校、2年3組。午後の現代文の授業。 「──つまり、作者はここで『断定』を避けることで、読者に問いを投げかけているわけです。しかし、社会に出れば曖昧さは許されません。私たち女性には、常に決断し、導く力が求められるのですから」


女性教師の太く通る声が響く。彼女は黒板をチョークで叩き、教壇を見下ろした。 「はい、ここまでの議論で意見がある者。積極的に手を挙げて。発言しない者は、思考していないのと同じですよ」


その瞬間、クラスの女子生徒たちの半数が、まるでバネ仕掛けのように1斉に挙手をした。 「はい!」「私がいきます!」「いいえ、私の意見は違います!」椅子をガタつかせ、声を張り上げる。その姿は「活発」であり「意欲的」であり、そして何より、この社会が女子に求める理想的な「逞しさ」そのものだった。1方で、教室の隅に固められた男子生徒たちは、1様に背を丸め、小さくなっている。彼らは花瓶の花のように静かに微笑んでいることだけが許され、議論という戦場に参加することは期待されていない。むしろ、彼らが大声を出すと「ヒステリックだ」「情緒が不安定だ」と眉をひそめられるのだ。


白井紗枝(しらい さえ)は、周囲の喧騒に合わせて、適度なタイミングで手を挙げた。 「白井さん」 「はい。私は、筆者の主張は論理的整合性に欠けていると考えます。結論を読者に委ねる姿勢は、リーダーシップの欠如とも取れるからです」紗枝が教科書通りの、しかし力強い口調で答えると、教師は満足げに頷いた。 「素晴らしい。その通りです、白井さん。明確な批判精神こそが、これからの社会に必要とされています。内申点にプラスしておきます」


紗枝は礼をして着席する。心の中で、冷めた息を吐いた。これでいい。これが正解だ。声を大きく、態度は堂々と、論理は攻撃的に。それが、この国で女が生き残るためのメソッドだ。家では両親——特に母親から、耳にタコができるほど言われている。 『紗枝、いい大学に入って、1流企業に就職しなさい。将来、良い旦那さんを見つけ、家族を養っていく甲斐性のある女になるのよ』大黒柱になることへの期待。経済力を持たねば、誰も守れないというプレッシャー。紗枝はその重圧を、優等生という仮面をつけることでやり過ごしていた。


ふと、紗枝の視線が教室の窓際へと流れる。そこには、クラスの喧騒から切り離されたように、1人静かに手元のノートに向かう少女がいた。黒川彩(くろかわ あや)。彼女は挙手もしなければ、教師と視線を合わせようともしない。ただ黙々と、シャーペンを動かしている。その横顔は硝子細工のように繊細で、どこか危うげだ。紗枝は知っている。彼女がノートに書いているのは、授業の板書ではなく、窓の外の風景や、空想の落書きであることを。そして、その線が驚くほど独創的で、美しいことを。


「……おい、黒川」教師の低い声が飛んだ。教室の空気が凍る。彩はゆっくりと顔を上げた。その動作の緩慢さに、教師はいら立ちを隠さない。 「さっきから下ばかり向いて、何をしているんだ。私の授業は退屈か?」 「いえ……考えていました」 「なら発言しなさい。黙っているのは、何も考えていないのと同じだと言ったはずだぞ。それとも何か? 自分には他者と共有すべき意見なんてない、という卑屈なアピールか?」クラス中から、クスクスという失笑が漏れる。 「黒川さんって、なんか暗いよね」 「ウジウジしてて、キモい」ささやき声が聞こえる。この学校において——いや、この社会において、「大人しい」は罪だ。活発さ(ハイパーアクティビティ)こそが正義であり、沈黙や内省は「コミュニケーション能力の欠如」あるいは「陰湿な性格」として断罪される。


彩は言い訳をしなかった。謝罪もしなかった。ただ、静かな瞳で教師を見つめ返し、小さく首を横に振っただけだ。その姿は、教師の目には「反抗的」で「扱いにくい問題児」に映っただろう。だが、紗枝の目には違って見えた。 (綺麗だ……)


周囲のノイズに迎合せず、自分の世界を守り抜こうとする孤高の姿。紗枝が演じている「作られた強さ」とは違う、芯の通った「静かな強さ」。紗枝は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。それは憧れであり、劣情であり、そして何よりも「彼女を守りたい」という倒錯した庇護欲だった。けれど、優等生の紗枝には、彩を庇って手を挙げることはできない。そんなことをすれば、自分もまた「あちら側(不適格者)」に落ちてしまうからだ。


「……チッ。まあいい。後で職員室に来なさい。その『腐ったような』根性を叩き直してやる」教師は捨て台詞を吐いて授業に戻った。彩は再び視線を落とし、ノートの隅に何かを描き始めた。紗枝はその背中を見つめ続ける。彼女の筆圧は、とても薄い。今にも消え入りそうな線で、彼女はこの世界に必死にしがみついている。


チャイムが鳴るまで、紗枝は教科書通りの優等生を演じ続けながら、机の下で拳を固く握りしめていた。


ゴールの提示

放課後の進路指導室の前は、処刑場のような静けさに包まれていた。紗枝は、プリントを届けるという口実で、そのドアの前に立っていた。中から漏れ聞こえる声が、耳に突き刺さる。


「……だから、無理だと言っているんだ。自分の内申点を見てみなさい」担任の権田(ごんだ)の声だ。彼女は「ナメられたら終わり」が信条の、典型的な旧世代の教育者だった。 「ですが、私の作品は県展でも入選しました。実技試験なら……」彩のか細い、しかし必死な抗弁が聞こえる。 「あのねえ、黒川さん。芸術大学? そんな『趣味』みたいな進路を選んで、将来どうやって家族を養うつもり?」


紗枝は眉をひそめた。またその理屈だ。 男の子がピアノや絵画に没頭するのは「情操教育として素晴らしい」と称賛されるが、女の子がそれを本職にしようとすると「食えない夢を見るな」「現実を見ろ」と叩かれるのだ。


「いい? あなたには生活力がない。授業態度も消極的。コミュニケーション能力の評価はC。そんな状態で推薦なんて出せるわけがないでしょう。もっと堅実な、理工学部か経済学部を目指しなさい」 「……でも、私は」 「話は終わり。親御さんとも相談済みですよ。お母様も『しっかり稼げる公務員になってほしい』と仰っていたわ」※1


ガタッ、と椅子が引かれる音がして、ドアが開いた。出てきた彩は、顔面蒼白で、唇を噛み締めていた。廊下に立っていた紗枝に気づくと、1瞬だけ恥ずかしそうに目を伏せた。 「……聞かれちゃった?」 「ごめん。わざとじゃないんだ」紗枝は慌てて首を振る。2人は並んで廊下を歩き始めた。夕日が校舎を長く引き伸ばし、彩の影をより1層薄く見せている。


「私ね、やっぱりダメみたい」彩がぽつりと呟く。 「指定校推薦の枠、1つしかないんだって。私みたいな『主体性のない生徒』には回ってこないって」 「そんなのおかしいよ。彩の絵はすごいじゃないか。先月の美術の課題だって、誰よりも……」 「先生たちが求めてるのは『絵の上手さ』じゃないの。『女としての逞しさ』なのよ。私にはそれがないから」彩は諦めきったように笑った。その笑顔が痛々しくて、紗枝は何も言えなくなる。


翌日、教室の掲示板に『指定校推薦・合格内定者1覧』が貼り出された。紗枝は人だかりをかき分けて、その紙を見た。芸術大学の欄に書かれていた名前を見て、彼女は息を呑んだ。


——『早川 悠人(はやかわ ゆうと)』


クラスメイトの男子生徒だ。紗枝は思わず、教室の後ろを振り返った。早川悠人は、自分の席でちょこんと座り、レースのハンカチで指先を拭いていた。彼は、彩と同じように大人しい。授業中に手を挙げることもなければ、リーダーシップを取ることもない。成績だって、中の下といったところだ。体育の授業では「紫外線が怖い」と言って見学し、教師たちから「まあ、肌は大事にしないとね」と甘やかされている。


「……なんで?」紗枝の口から、疑問が漏れた。彩と早川。2人の性質はよく似ている。どちらも静かで、繊細で、内向的だ。なのに、彩は「主体性がない問題児」と切り捨てられ、早川は「推薦枠」を勝ち取った。


紗枝は納得がいかず、昼休みに職員室へ向かった。権田を見つけ、世間話を装って尋ねてみる。 「先生、今回の推薦のことなんですけど……早川君が選ばれたんですね」 「ああ、早川君ね! 彼は素晴らしいわよ」権田は、彩に見せた冷徹な顔とは打って変わり、目尻を下げてとろけそうな笑顔を見せた。 「あの子、とっても素直でしょう? 言われたことは黙ってやるし、反抗もしない。字も丸文字で可愛いし、提出物も丁寧。ああいう『癒やし系』の子が、芸術には向いているのよ」


「でも、黒川さんも……大人しくて、真面目ですよね?」紗枝が食い下がると、権田は途端に真顔に戻った。 「黒川? あれは『大人しい』んじゃなくて『陰気』なの。ボソボソ喋って、何を考えているか分からない。可愛げがないのよ」


紗枝は衝撃を受けた。同じ「静けさ」でも、男が持てば「従順・癒やし(プラス評価)」になり、女が持てば「陰気・無能(マイナス評価)」になる。早川悠人は、ただ「男の子である」というだけで、その消極的な性格すらも美徳として加点されているのだ。これは公正な競争ではない。スタートラインからして、何かが決定的に歪んでいる。


教室に戻ると、彩が自分の机に突っ伏していた。その背中が「どうせ私なんて」と語っているように見えた。紗枝の中に、今まで感じたことのない種類の怒りが湧き上がった。それは優等生としての仮面の下で、静かに、しかし熱く燃え始めた。


(……早川君は、本当になぜ選ばれたの?)紗枝は早川の机を睨みつけた。彼の机の上に、返却されたばかりの小テストが置かれているのが見えた。紗枝は周囲を伺い、誰も見ていない隙にその答案用紙を手に取った。そして、そこに書かれた文字を見た瞬間、彼女の目が見開かれた。


シーケンス3:バグの発見

紗枝は、早川悠人の答案用紙を凝視したまま、しばらく息をするのを忘れていた。そこに書かれていた答えは、決して賢明なものではなかった。 『作者の気持ち:とても悲しいと思う。僕なら泣いてしまう』論理もへったくれもない、感情に訴えるだけの稚拙な回答だ。普段の彩なら、もっと構造的で深い分析を書くだろう。しかし、その点数欄には赤ペンで大きく『A(大変よくできました)』と書かれている。


なぜか。答えは、文字そのものにあった。早川の文字は、枠からはみ出さんばかりに大きく、そして黒かった。おそらく2B、いや4Bの鉛筆を使っているのだろう。紙が凹むほどに強く押し付けられた筆跡は、乱暴だが、圧倒的な「質量」を持って見る者に迫ってくる。それは、紗枝自身の筆跡と酷似していた。そして、教師たちが常々口にする「堂々としろ」「声の大きな者が勝つ」というドグマ(教義)を、視覚的に体現していたのだ。


(……そうか)紗枝の脳内で、パズルのピースが音を立てて嵌まった。教師たちは、答えの内容なんて読んでいない。彼女たちは、答案用紙から漂う「エネルギー」を採点しているのだ。早川悠人は、男子特有の不器用さで力が入りすぎているだけかもしれない。だが、その結果として生まれた「濃くて太い文字」が、権田のような体育会系女性教師のツボ——「元気があってよろしい」という原始的な評価基準——を無自覚に刺激しているのだ。


1方、彩の文字はどうか。HBの細い芯で、サラサラと書かれた繊細な文字。論理は完璧でも、その筆跡は教師たちにとって「自信のなさ」「生命力の欠如(インポテンツ)」に見えているのだ。


紗枝は答案用紙を元の場所に戻すと、早足で教室を抜け出した。屋上の踊り場で、ひとり本を読んでいた彩を見つける。 「彩ちゃん」 「紗枝ちゃん……? どうしたの、そんなに息を切らして」紗枝は彩の手を取り、その華奢な指先を見つめた。 「彩ちゃん、お願いがあるの。次の歴史のテスト、私の言う通りにしてほしい」 「え……?」紗枝はポケットから、自分が愛用している濃い鉛筆を取り出し、彩の掌に押し付けた。 「そのテスト、答えはいつも通りでいい。でも、書き方を変えて。親の敵を討つみたいに、力を込めて書くの。芯が折れるくらい、紙が破れるくらい、強く」


数日後、歴史のテスト返却の時間。教壇に立った権田は、いつになく上機嫌だった。 「今回は、特筆すべき生徒がいます」権田は1枚の答案用紙を高々と掲げた。 「黒川さん。前に出なさい」


彩がおずおずと席を立つ。クラス中の視線が集まる中、彼女は自分の答案を受け取った。そこには『85点』という数字があった。以前までの彼女なら、内容は合っていても『字が読みにくい(薄い)』『覇気がない』という理不尽な理由で減点され、60点台が関の山だったはずだ。しかし今回の答案は、まるで別人が書いたかのように黒々としていた。所々、筆圧が強すぎて紙が裂け、裏側の机の木目すら写し取っている。


「見なさい、この力強い文字を!」権田はクラス全体に聞こえるように声を張り上げた。 「字は心の鏡です。今までの黒川さんの字は、蚊の鳴くような弱々しいものでした。それは自信のなさ、ひいては責任感の欠如の表れでした。しかしどうですか、この真っ黒な文字は! これこそが『正しい字』です!」


権田は満足げに彩の肩をバンバンと叩いた。 「黒川、やっと目が覚めたようね。こうでなくちゃ。その調子で、腹に力を入れて生きなさい。そうすれば、社会はあなたを認めるわ」 「……はい、ありがとうございます」彩は困惑した表情のまま、小さく頭を下げた。


休み時間。彩は自分の席に戻るなり、紗枝の方を振り返った。その瞳は、驚きと興奮で揺れていた。紗枝は誰にも気づかれないように、小さくVサインを送った。彩の頬が紅潮し、微かに口元が緩む。


通じた。私たちは、勝ったのだ。勉強など必要なかった。人格を矯正する必要もなかった。ただ、「筆圧(プレッシャー)」を変えるだけ。それだけのハック(裏技)で、この堅苦しい学校システムは、彩を「優秀な生徒」として認めたのだ。※3


2人の間に、甘美な共犯関係が生まれた瞬間だった。社会の評価なんて、所詮はその程度のものだという軽蔑と、それを手玉に取ったという全能感。だが、この成功体験が、2人をより危険な実験へと駆り立てることになる。


「ねえ、紗枝ちゃん」放課後、2人は人気の少ない美術準備室にいた。彩は新品のスケッチブックを抱きしめながら、いたずらっ子のような目で紗枝を見上げた。 「筆圧だけでこんなに変わるなら……『名前』を変えたら、どうなると思う?」


シーケンス4:実験の失敗と転換点

その実験は、ある種の悪ふざけとして始まった。現代社会の小論文課題。テーマは『私の考えるリーダーシップ』。本来なら、女子生徒たちは「決断力」や「統率力」といった勇ましい言葉を並べ立て、教師の機嫌を取るのが定石だ。


しかし、美術準備室の薄暗がりの中で、紗枝と彩は顔を見合わせてクスクスと笑っていた。 「本当にやるの? 彩ちゃん」 「うん。筆圧だけであれだけ変わったんだもの。中身が同じでも『書き手』が変わればどうなるか、確かめてみたい」彩は書き上げた原稿用紙の最後、氏名欄にペンを走らせた。そこに書かれた名前は『黒川 彩』ではない。『2年3組 黒河 晃(くろかわ あきら)』。あえて漢字を変え、男性的な響きを持つ架空の名前を記した。


もし、この文章を「男の子」が書いたと思わせたら?内容は、彩が普段考えていることをそのまま書いた。「真のリーダーシップとは、弱さに寄り添い、立ち止まる勇気を持つことだ」。女子が書けば「優柔不断」「女々しい」と切り捨てられる内容だ。だが、これを『晃』という謎の男子生徒が書いたとしたら——。


***


数日後の国語の時間。権田が答案の束を抱えて教室に入ってきた時、その足取りはいつになく軽やかだった。 「さて、返却の前に1つ。今回の課題で、非常に興味深い視点を持った論文がありました」権田は1枚の原稿用紙を丁寧に、まるで聖書でも扱うかのように両手で持ち上げた。 「『弱さに寄り添うこと』……。この繊細な感性、そして傷つくことを恐れずに内面を吐露する勇気。これこそが、現代の男性に求められる『癒やしの知性』です」


教室がざわめく。権田はうっとりとした表情で、名前の欄を読み上げた。 「黒河晃くん。……ええと、名簿にはない名前だけれど、転入生かしら? それとも名前の記載ミス? どちらにせよ、素晴らしいわ。名乗り出なさい」


権田の目は、教室の隅に座る男子生徒たちの集団を期待に満ちた眼差しで探っていた。彼女の中では、この文章を書いたのは「儚げで、知的な美少年」というプロファイリングができあがっているのだ。 「黒河くん? 恥ずかしがらないで」


沈黙が落ちる。男子たちは互いに顔を見合わせ、首を横に振る。そんな奴はいない。紗枝は息を呑んで隣を見た。彩が、ゆっくりと椅子を引く音が響く。


「……先生」彩が立ち上がった。権田の視線が彩に向く。その瞬間、教師の目から「期待」の光が消え、怪訝な色が浮かんだ。 「何? 黒川さん。今は『黒河くん』を探しているのだけれど」 「それは、私です」彩は静かに、しかしはっきりと告げた。 「私が書きました。名前は……ペンネームです」


時が止まったようだった。権田は手元の「傑作」と、目の前に立つ「陰気な女子生徒」を数回見比べた。やがて、その顔がみるみるうちに紅潮していく。それは感動によるものではなく、騙されたという屈辱と怒りによるものだった。


「……あなたが書いた、ですって?」権田の声のトーンが、氷点下まで下がった。 「はい。内容は、私が常々考えていることです」 「ふざけないでちょうだい!」権田は原稿用紙を教卓に叩きつけた。バンッ、という乾いた音が教室に響き渡る。 「名前を偽って提出するなんて、教師を愚弄しているの!? それに……何これ」権田は先ほどまで絶賛していた文章を、汚いものでも見るような目つきで指差した。 「『弱さに寄り添う』? こんなことを書いて、恥ずかしくないの? これは『繊細』なんじゃない。ただの『責任逃れ』よ! 男の子が書いたならいじらしくて可愛げもあるけれど、女が書くと……なんていうか、あざといわね。計算高くて、可愛げがない」


「先生、書いてあることは同じです」彩が珍しく反論した。 「書き手の性別が変わるだけで、なぜ『知性』が『計算』に変わるんですか?」


「口答えをしない!」権田の怒声が飛んだ。 「そういうところが可愛くないと言っているの! 名前の虚偽記載でマイナス20点。授業態度の減点も含めて、今回は赤点とします。放課後、生活指導室に来なさい」


彩は唇を噛み締め、着席した。紗枝は拳を握りしめていた。爪が掌に食い込む痛みを感じながら、悟ってしまった。システムは、バグを許さない。私たちが暴いた「真実」は、教師たちにとって「あってはならない不都合」だったのだ。そして、1度システムに牙を剥いた異物は、徹底的に排除される運命にある。


権田の冷たい視線が、彩に突き刺さったまま離れない。それは単なる「出来の悪い生徒」を見る目ではなかった。社会の秩序を乱す「危険分子」をマークする、監視者の目だった。


「……黒川さん」権田は低い声で付け加えた。 「最近、あなた少し『目に余る』わよ。筆圧を変えたり、名前を偽ったり……。その不安定な行動、何か重大な問題の兆候かもしれないわね」


実験は成功した。仮説は証明された。けれど、その代償として、彩は教師たちの「標的」になってしまったのだ。※4


シーケンス5:冤罪と罠

その日の昼休み、教室は奇妙な緊張感に包まれていた。「黒河晃」の1件以来、教師たちの視線は常に彩に向けられていた。それは監視というより、獲物がボロを出すのを待ち構えるハンターのそれに近かった。


彩は自分の席で弁当箱を広げていたが、箸を動かす様子はなかった。彼女の視線は、教室の前方、窓際の席に座る早川悠人に吸い寄せられていた。彼が指定校推薦を勝ち取った、あの「繊細な」男子生徒だ。早川はスケッチブックを広げ、高価そうな水彩絵の具を並べていた。


(どんな筆を使っているんだろう……)彩の心にあったのは、純粋な探究心だけだった。自分と彼、1体何が違うのか。彼が使っている画材に、あの黒々とした文字のような「正解」が隠されているのではないか。彩は、ただじっと見ていた。遠くから、彼の手元を。


カタン、と音がした。早川が絵筆を落としたのだ。彼は彩の視線に気づいていた。彼は怯えたように肩を震わせると、両手で自分の身体を——まるで裸を見られたかのように——抱きしめる仕草をした。そして、助けを求めるように教卓の方を向いた。 「……せ、先生。怖いです」


その声は小さかったが、教室中に響くサイレンのような効果をもたらした。瞬時に、担任の権田が飛んできた。彼女はまるで待っていたかのように、彩の机の前に仁王立ちになった。



「黒川さん!」権田の怒鳴り声に、彩はビクリと身体を跳ねさせた。 「え、はい……?」 「今、早川くんのことを睨みつけていましたね? 執拗に、ねっとりと」 「見ていましたけど……睨んでなんていません。ただ、画材が気になって……」 「言い訳無用!」権田はドンと机を叩いた。 「『ただ見ていただけ』。痴漢やストーカーが捕まった時に必ず言うセリフね。いい? あなたがどう思っていたかは関係ないの。彼が『怖い』と感じた、その事実が全てなのよ」



教室中の視線が突き刺さる。紗枝は席を立とうとしたが、隣の生徒に袖を掴まれた。「関わらない方がいいよ、白井さんまで目を付けられる」という忠告だった。紗枝は唇を噛み締め、動けなくなる。



権田は彩の顔を覗き込み、軽蔑を隠そうともせずに言った。 「あのね、黒川さん。私たち女性は生まれつき、エストロゲンの影響で攻撃的なの。その自覚が足りないわ。あなたのその鋭い眼光は、か弱い男性にとってはナイフと同じ。それはね、『視覚的暴力(Visual Harassment)』なのよ」※5


「……視覚的、暴力?」彩は呆然と繰り返した。 「そう。直接手を出さなくても、女性特有の威圧感で男性を支配しようとする……それが『無自覚なミサンドリー(男性蔑視)』の典型的な兆候です」


権田は、怯える早川の方を振り返り、「もう大丈夫よ、先生が守ってあげるからね」と猫なで声で慰めた。早川は安心したように小さく頷く。その姿は、完全に「可哀想な被害者」として完成されていた。誰も、彩の言い分など聞こうとしない。「女が男を見る」こと自体が、この世界では「捕食者が獲物を品定めする」行為として解釈されるのだ。


「黒川さん。先日の名前偽装の件といい、今回のハラスメント未遂といい、あなたの加害性は看過できないレベルに達しています」権田は冷酷に宣告した。


「放課後、特別指導室に行きなさい。あなたのその歪んだ『本能』を、矯正する必要があります」


彩は反論する気力すら奪われ、ただ青ざめた顔で頷くしかなかった。紗枝は見ていた。彩の瞳から、光が消えていくのを。ただ純粋に絵を描きたかっただけの少女が、社会という巨大なシステムによって「性犯罪者予備軍」へと仕立て上げられていく様を。


その冤罪の構造はあまりにも完璧で、あまりにも残酷だった。


シーケンス6:矯正プログラム

放課後の特別指導室は、病院の待合室のように白く、そして無機質な薬品の匂いがした。窓には分厚いカーテンが引かれ、外界からの光は遮断されている。彩が足を踏み入れると、そこには既に十名ほどの女子生徒がパイプ椅子に座らされていた。彼女たちに共通しているのは、不良のような粗暴さではない。むしろ逆だ。声が小さい子、いつも本を読んでいる子、伏し目がちな子。この学校で「陰気」と蔑まれ、その不可解な沈黙ゆえに「何を考えているか分からない=不気味な捕食者」というレッテルを貼られた少女たちだった。


「姿勢を正して」白衣を着た女性カウンセラー——内海(うつみ)——が、氷のような冷たい声で命じた。 「これより、『潜在的攻撃性制御セミナー(Anger & Dominance Management for Girls)』を開始します」


内海はホワイトボードに、巨大な文字でスローガンを書き殴った。


『男の子は花、女の子は剪定バサミ』


「全員、復唱」 「……男の子は花、女の子は剪定バサミ」少女たちの蚊の鳴くような声が響く。彩も唇を震わせながら、その言葉を口にした。


「いいですか」内海は教鞭を振り回しながら講義を始めた。「最新の脳科学が証明しています。私たち女性の脳は、胎児期に浴びるエストロゲンの影響で、生まれつき『攻撃性』と『支配欲』がセットされています。これは原罪です」内海はプロジェクターに、暴力的な抽象画のような脳のスキャン画像を映し出した。 「あなたたちが『ただ黙っているだけ』だと思っていても、その脳内では常に男性をどのように屈服させるか、無意識のシミュレーションが行われているのです。先ほど黒川さんが早川くんを凝視したようにね」※6


彩は膝の上で拳を握りしめた。違う、私はただ画材を見ていただけだ。だが、この場において反論は「攻撃性の発露」と見なされる。


「だからこそ、私たちは理性で『謙虚さ』を演出しなければなりません。それはマナーではなく、猛獣が首輪をつけるのと同じ義務なのです」


講義は実践的なロールプレイへと移行した。教室の中央に、男子生徒役のマネキンが置かれる。


「シチュエーションは『夜道』です。あなたは帰宅途中、前を歩く男性を見つけました。どうしますか? はい、黒川さん」指名された彩は、おずおずとマネキンの後ろに立った。 「ええと……普通に、歩きます」 「ブブーッ!」内海が不快なブザー音を鳴らした。 「ダメに決まっているでしょう! 夜道で女が背後から近づく。それだけで男性は『レイプされるかもしれない』『暴力を振るわれるかもしれない』と恐怖で心臓が止まりそうになるのよ!」※7


内海は彩の肩を掴み、マネキンから大きく引き離した。 「正解はこう。『わざと足音を高く鳴らし、咳払いをして存在を知らせ、道の反対側に移動して追い抜かないようにゆっくり歩く』。そして、『私はあなたを襲いません』という服従のポーズを示すこと。やってみなさい」


彩は屈辱に顔を歪めながら、マネキンに対して頭を下げ、わざとらしい咳払いをし、距離を取る演技をさせられた。 「私は……襲いません。私は、安全です」 「声が小さい! もっと卑屈に! 相手が安心するまで笑顔で!」


廊下から、その様子を伺っていた紗枝は、吐き気を堪えていた。ドアのガラス越しに見える光景は、教育ではない。洗脳だ。「男の子を守る」という美名の下で行われているのは、少女たちの自尊心を粉々に砕き、「自分は生まれながらの加害者だ」と刷り込む儀式だった。


彩が、泣きそうな笑顔を作ってマネキンに頭を下げ続けている。あの凛とした瞳を持っていた彩が、壊されていく。


紗枝の手元のパンフレットにはこう書かれていた。『加害者は、自分が加害者であることに気づかない。だからこそ、予防的な教育が必要なのです』


(ふざけるな……)紗枝はパンフレットを握りつぶした。男たちが怯えているのは「暴力」じゃない。女たちが真の力を発揮し、自分たちを追い越していくこと、その「才能」に怯えているだけじゃないか。それを「恐怖」という言葉にすり替えて、彼女たちの足に足枷を嵌めているのだ。


しかし、優等生である紗枝には、今すぐドアを蹴破って彩を助け出す力はなかった。ただ無力感に打ちひしがれながら、彩が「私は剪定バサミです。ごめんなさい」と繰り返す声を聞いていることしかできなかった。※8


シーケンス7:魂の摩耗

セミナーから戻ってきた彩は、まるで「漂白」されたかのようだった。教室の扉を開ける手つきは極端に遅く、足音ひとつ立てずに席に着く。背中を丸め、気配を消し、誰とも視線を合わせない。それは権田や内海が望んだ通りの「謙虚で無害な女性」の姿だったが、紗枝の目には、魂を抜かれた抜け殻のようにしか見えなかった。


放課後の美術室。ここだけが、かつて彩が呼吸を許された唯1の場所だった。紗枝は祈るような気持ちで、キャンバスに向かう彩の背中を見守っていた。絵を描けば、またあの生き生きとした彼女が戻ってくるかもしれない。そう信じていた。


しかし、その期待は残酷な音によって裏切られた。シュッ、シュッ、シュッ。鉛筆が紙を走る音ではない。消しゴムが紙を擦る、乾いた摩擦音だけが響き続けている。


「……彩ちゃん?」紗枝が恐る恐る声をかけると、彩はビクリと肩を震わせた。 「あ、ごめんなさい。私、また威圧感出してた? 背中が大きすぎて、怖かった?」 「違う、違うよ! そんなこと思ってない」紗枝は駆け寄り、彩の手元を覗き込んだ。スケッチブックは真っ黒に汚れていた。何度も描いては消し、描いては消した黒鉛の跡で、紙の繊維がボロボロに毛羽立っている。


「描けないの」彩は虚ろな目で呟いた。 「線を1本引くたびに、内海先生の声が聞こえるの。『その鋭角は男性的恐怖を煽る』『その配色は支配的だ』って」


彩は震える手で鉛筆を握り直し、再び紙に向かった。彼女が描こうとしたのは、窓辺の花瓶だった。しかし、彼女の本来の持ち味である鋭くデフォルメされた線を描こうとした瞬間、彼女の手が痙攣したように止まる。 「ダメ……これじゃダメ。もっと丸く。もっと優しく。男の人が見ても安心するように」彼女は自分自身に言い聞かせるように呟き、慌てて消しゴムをかける。そして、震える手で描かれたのは、まるで幼児が描いたような、頼りなく歪んだ丸い線だった。


「ほら、これなら安全。これなら誰も傷つけない……」彩は引きつった笑顔を紗枝に向けた。その瞳の奥には、絶望的な恐怖が張り付いている。 「私ね、わかったの。私の才能だと思っていたものは、ただの『凶器』だったんだって。私が自由に描くと、世界が傷つくの。だから、なおさなきゃいけないんだ」


ガスライティング(心理的虐待)の完了だった。システムは、彼女から絵筆を取り上げる必要すらなかった。「お前の表現は加害だ」と刷り込むだけで、彩は自らの手で、自分の才能を検閲し、殺すようになったのだ。


カタン、と鉛筆が床に落ちた。 「……もう、嫌だ」彩は両手で顔を覆った。 「私の中にいる『野獣』が怖い。絵を描こうとすると、誰かを蹂躙したくなる衝動が湧いてくる気がする。私は、生まれながらの罪人なんだ」


紗枝は言葉を失った。怒りで視界が赤く染まるのを感じた。あんなに美しかった独自の視点が、「潜在的な加害欲求」という汚い言葉に書き換えられてしまった。目の前にいるのは、社会が求めた「理想的な更生者」だ。大人しく、従順で、自分の力を恐れ、決して男たちの聖域を脅かさない女。でも、それはもう、紗枝が愛した黒川彩ではなかった。


彩はふらりと立ち上がると、描きかけの——いや、消しかけのスケッチブックをゴミ箱の上にかざした。 「待って!」紗枝が止める間もなく、彩はそのページを破り捨てた。 「こんなゴミ、持っていたらまた誰かを怖がらせちゃう」※9


クシャクシャに丸められた紙屑が、ゴミ箱に落ちる。彩は力なく部屋を出て行った。残された紗枝は、ゴミ箱の中の紙屑を見つめた。そこには、消しゴムで消しきれなかった、かつての彩の「強い線」の痕跡が、傷跡のように微かに残っていた。


紗枝はその紙屑を拾い上げることもできず、ただ立ち尽くしていた。まだこの時は知らなかったのだ。このゴミ箱に捨てられた「魂の残骸」を、ハイエナのように狙っている視線があったことを。


シーケンス8:覚醒(WOKE)

放課後の美術室前の廊下に、早川悠人の「入選作品」が飾られていた。タイトルは『硝子の叫び』。薄暗い背景に、鋭角的な線で描かれた1人の人物が、耳を塞いで蹲っている構図だ。通りがかった教師たちが、その絵の前で足を止め、感嘆のため息を漏らしていた。


「ああ、なんて痛切な響きなの」権田がうっとりと呟く。 「この線を見て。世界に怯える少年の、壊れそうな魂が震えているわ。守ってあげたくなる……これぞ、芸術(アート)ね」


紗枝はその横で、胃の底からせり上がってくる吐き気を必死に飲み込んでいた。彼女は知っている。その構図を。その鋭い線を。それは1ヶ月前、彩が美術室の隅で描き殴り、そして「こんな攻撃的な絵はダメだ」と泣きながらクシャクシャに丸めて捨てたスケッチそのものだったからだ。


早川は、ゴミ箱からそれを拾ったのだ。そして、彩の苦悩と憤怒が込められた線を、上からなぞった(トレースした)だけなのだ。


「……先生」紗枝は震える声で問いかけた。 「もし、これを女子が描いたら、どう評価しますか?」 「え?」権田は怪訝そうに振り返り、すぐに嘲るように鼻を鳴らした。 「別に性別によって評価は変わらないわよ?ただ描いた女の子の精神状態が心配になるわね。カウンセリングを進めるわ」


紗枝の中で、何かが完全に断ち切れる音がした。


女が描く「苦悩」は、ただのヒステリー(病気)。男が描く「苦悩」は、高尚な芸術(アート)。※10


内容は同じなのに。「誰」が出力したかによって、その価値は天と地ほどに反転する。それどころか、システムはこの構造を利用して、女から才能を搾取しているのだ。彩が「矯正」されて絵を描けなくなれば、そのユニークなアイデアは宙に浮く。それを「無害な」男子生徒が拾い上げ、自分の手柄として発表する。社会はそれを「少年の繊細な感性」と崇め奉り、元の持ち主である少女は「危険な剪定バサミ」として封印される。


これは教育ではない。これは「精神的な去勢」であり、そして「魂の盗用(カニバリズム)」だ。


紗枝は美術室を背にし、中庭へと走った。ベンチに、彩が座っていた。彼女はスケッチブックを開いていたが、その手は動いていなかった。真っ白なページの真ん中で、鉛筆の先が空しく震えている。


「彩ちゃん」声をかけると、彩はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、濁った池のように光を失っていた。 「あ、紗枝ちゃん……見て。私、『良い子』になったよ」彩は力なく微笑んだ。 「もう、あんな鋭い線は描かないの。鉛筆を強く握ると、男の人を刺しちゃう気がするから。ふわふわした、丸い線を描かなきゃいけないの。でもね……」彩の目から、1筋の涙がこぼれ落ちた。 「手が、動かないの。私の心はギザギザしているのに、丸を描こうとすると、脳みそがバグって……何も、描けない」


彩は鉛筆を落とし、自分の両手を汚らわしいものでも見るように見つめた。 「私は加害者だから。表現なんてしちゃいけないんだ」


その言葉を聞いた瞬間、紗枝の脳裏に、幼い頃から親に言われ続けてきた言葉がフラッシュバックした。 『男の子を守るのが女の役目』 『女は強く、逞しく、そして謙虚であれ』


——違う。誰も、男の子なんて守ろうとしていない。この社会が守っているのは、「男」という壊れやすい偶像と、彼らのちっぽけなプライドだけだ。そのために、彩のような圧倒的な才能を持つ少女を「怪物」に仕立て上げ、恐怖という鎖で縛り付けているに過ぎない。


早川悠人が奪ったのは、ただのアイデアじゃない。彩の「生きる意味」そのものだ。それを許容し、賞賛するこの学校も、教師も、そしてそれに順応して「優等生(名誉××)」の地位にあぐらをかいていた自分も——全員が共犯者だ。


(私は、共犯者にはならない)


紗枝は彩の前に膝をつき、落ちた鉛筆を拾い上げた。その指先に、迷いはもうなかった。彼女は自分の生徒手帳を取り出すと、その場で真っ2つに引き裂いた。バリッ、という硬い音が響く。


「……紗枝ちゃん?」 「彩ちゃん。もう描かなくていい。丸い線なんて、嘘の線なんて、1本も描かなくていい」紗枝は彩の両手を包み込み、強く、痛いほどに握りしめた。 「その代わり、私たちが1番得意なことをしよう」


「得意なこと?」 「ええ。教師たちが言う『ヒステリー』を。彼女たちが恐れる『攻撃性』を。……私たちが持っている本当の筆圧で、このふざけたキャンバスを切り裂いてやるの」


紗枝の瞳に、暗く冷たい炎が宿った。それはもう、先生に褒められるための優等生の目ではなかった。システムを破壊し、愛する人を地獄から引きずり出すための、反逆者の目だった。


「明日の全校集会。……準備はいい?」


シーケンス9:決意

全校集会の朝、空は忌々しいほどに晴れ渡っていた。 講堂では「県芸術コンクール」の表彰式が行われる。受賞者は早川悠人。受賞作は『硝子の叫び』。 ……かつて彩が描き、自己否定の果てに捨てたアイデアの成れの果てだ。


教室の片隅で、彩が荷物をまとめていた。 教科書も、ノートも、そして使い古した画材セットも、すべて鞄に詰め込んでいる。彼女の目は死んでおり、唇は白く乾いていた。 「……もう、行くね」 彩の声は掠れていた。 「今日で退学届を出してくる。母さんも『あんたには普通の高校は無理だったのよ』って。田舎の祖母の家で、畑仕事をすることになったから」


紗枝は制服のポケットの中で、生徒代表のスピーチ原稿を握りしめていた。 そこには、教師たちが検閲し、完璧に整えられた美辞麗句が並んでいる。 『早川君の受賞は、我が校の誇りです。彼の繊細な感性を守り、育てることこそが、私たち女子生徒の使命であり……』


これを読めば、紗枝の未来は安泰だ。 内申点は満点。1流大学への推薦。母親が望む「稼げる女」への最短ルート。 だが、目の前にいる彩の手を見た瞬間、紗枝の呼吸が止まった。


彩の中指には、固く盛り上がった「ペンだこ」があった。 誰よりも描き、誰よりも悩み、鉛筆を握りしめてきた証。 魂を削って紙に向かってきたその勲章は、あの早川悠人の白魚のような指には決して存在しないものだ。


(この指を、なかったことになんてさせない)


紗枝は、自分の指先が熱くなるのを感じた。 彼女はポケットから原稿用紙を取り出すと、彩の目の前で、音を立てて真っ2つに引き裂いた。


「紗枝ちゃん……?」 「退学届なんて出さなくていい」 紗枝は破り捨てた紙吹雪を床にばら撒き、彩の肩を掴んだ。 「彩ちゃんが行く場所は、田舎の畑じゃない。今から私と1緒に、特等席に行こう」


「え、どこへ……」 「処刑台の上よ」


シーケンス10:告発

体育館は、数百人の生徒の体温と、儀式的な静寂に包まれていた。 壇上には、スポットライトを浴びてはにかむ早川悠人と、それを父のような慈愛に満ちた目で見守る校長や権田の姿があった。


「——では、生徒代表、白井紗枝さん。祝辞を」


名前を呼ばれ、紗枝は演台へと歩を進めた。 マイクの前に立つ。無数の視線が集まる。かつては、この視線を浴びて「正解」を述べることこそが快感だった。だが今は、そこにあるのは欺瞞だけだ。


紗枝はマイクの柄を握った。 キイィン、とハウリングの音が響き、会場が不快そうにざわめく。


「早川君、おめでとうございます」 紗枝の声は、驚くほど冷静で、よく響いた。 「あなたの受賞作『硝子の叫び』は、本当に素晴らしい。……だってそれは、私の友人である黒川彩さんが、3ヶ月前の放課後、美術室で血を吐くような思いで生み出した構図そのものなのですから」


会場の空気が凍りついた。 早川の笑顔が引きつり、権田が血相を変えて立ち上がるのが見えた。 「白井さん!? 何を言ってるの、やめなさい!」


紗枝は止まらなかった。ポケットから、USBメモリを高く掲げる。 「ここには、過去3年間の美術・国語の採点データが入っています。男子生徒の作品には『繊細』『将来性』として1律加点され、女子生徒の作品は『攻撃的』『情緒不安定』として減点された記録です。黒川さんが『ゴミ』として捨てさせられた絵と、早川君の受賞作が完全に1致している証拠写真もあります」


「マイクを切れ! 誰か彼女を下ろしなさい!」 校長が怒号を飛ばす。先生たちが演台に向かって駆け寄ってくる。 紗枝はマイクスタンドにしがみつき、全校生徒に向かって叫んだ。


「私たちは加害者じゃない! 私たちは剪定バサミなんかじゃない!」 喉が裂けそうなほどの声量。優等生の仮面が砕け散る。 「あなたたちが弱いんじゃない。私たちが強すぎるから、それが怖いだけでしょう!? だからって、私たちを怪物に仕立て上げないと自分のプライドを保てないなんて……そんなの、ただの甘えだ!」


「やめろぉぉぉ!」 男性教師の手が紗枝の腕を掴み、乱暴に引き剥がした。 マイクが床に落ち、鈍い音が響く。 だが、紗枝は教師の手を振り払い、壇上の端へと走った。 そこから飛び降りる。 重力に逆らい、彼女が着地したのは、パイプ椅子が並ぶ客席——呆然と立ち尽くす彩の目の前だった。


「紗枝、ちゃん……」 「走るよ、彩ちゃん!」


紗枝は彩の手首を掴んだ。 その握力は強く、痛く、そして熱かった。


シーケンス11:逃走と再生

「待ちなさい! 逃げる気か!」 背後から権田のヒステリックな叫び声が聞こえる。怒号と混乱が渦巻く体育館を、2人の少女が疾走する。


上履きのまま廊下を駆け抜け、昇降口を飛び出し、中庭へ。 息が切れ、肺が焼けるように熱い。心臓が早鐘を打っている。けれど、これほど「生きている」と感じたことはなかった。


「あっちだ!」 紗枝は校門を指差した。既に守衛が閉めようとしている。 「跳ぶよ!」 2人はスカートが捲れるのも構わず、閉まりかけの鉄柵に足をかけ、その身を空へと投げ出した。


ドサッ、とアスファルトに着地する。 膝を擦りむいたが、痛みさえも心地よかった。 2人は1度も振り返らず、学校という巨大な鳥籠から遠ざかるように、雑踏の中へと走り続けた。


***


息を切らして辿り着いたのは、高架下の薄暗い空き地だった。 コンクリートの壁と、乾いた砂。都会の喧騒から切り離された、誰のものでもない場所。


2人は肩で息をしながら、へたり込んだ。 「はあ、はあ……やっちゃった……」 彩が笑い出した。それはかつての怯えた笑いではなく、子供のような無邪気な笑いだった。 「私、もう進学できないね。内申書、ボロボロだ」 「私なんか、全校生徒の前で先生たちを罵倒しちゃった。就職も結婚も、もうおしまい」 紗枝も笑った。 親が敷いたレールも、社会が求めた「良き女性」の型も、すべてあそこに置いてきた。残ったのは、擦りむいた膝と、自由になった身体だけ。


ふと、彩が足元の小石を拾った。 そして、地面の硬い土の上に、ガリガリと線を刻み始めた。


それは、丸くもなければ、優しくもない線だった。 コンクリートを削るような、鋭く、攻撃的で、暴力的なまでに力強い線。 「……見て」 彩が呟く。 「手が、震えない。……描ける」


砂埃の中に現れたのは、牙を剥いて咆哮する獣の絵だった。 それは学校では「男性を脅かす」として禁忌とされた表現。けれど、今2人には、それが何よりも美しく、生命力に満ちたものに見えた。


「繊細な筆圧」 紗枝はその絵を指でなぞった。指先に土の感触と、彩の意思の強さが伝わってくる。 「これが本当の彩だね」


「うん。……ねえ、紗枝ちゃん」 彩は小石を握りしめ、強い瞳で紗枝を見つめた。 「私たち、もう誰かのためになんて描かない。誰かのために、自分を殺したりしない」


「ええ。私たちは『怪物』でいい。……いいえ、私たちがこの世界の形を、その筆圧で変えてやるのよ」


夕日が差し込み、2人の影を長く、黒々と地面に焼き付けていた。 その影は、どんなにか細い男たちよりも巨大で、そして揺るぎないものだった。


少女たちは手を取り合う。 それは友情という生温かいものではなく、この不条理な世界で生き抜くための、共犯者としての契約だった。


※1

https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/zentai/html/honpen/b1_s00_02.html


※2

https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/0038040716650926

https://www.researchgate.net/publication/324791659_Teachers%27_Perceptions_of_Gender_Differences_-What_about_Boys_and_Girls_in_the_Classroom

https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=3348981


※3

https://bpspsychub.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.2044-8279.2010.02017.x

https://www.bbc.com/news/education-31751672


※4

https://www.researchgate.net/publication/275930954_Discrimination_in_Grading

https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/13504851.2019.1646862

https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/01425692.2022.2122942


※5

https://note.com/beatangel/n/n05816f0e6d0e

https://www.youtube.com/watch?v=jSMoPr8ZGAw&t=1s


※6

心理学の教科書では常識として載せられているが研究結果は1致をみていない。しかし近年、思わぬ角度から謎が解消された

https://note.com/beatangel/n/nd693f750a262


※7

https://note.com/beatangel/n/n1fcff056ea6a


※8

https://www.bbc.com/news/articles/c9qednjzwv1o


※9

https://variety.com/2019/music/global/mexico-musician-armando-vega-gil-dead-suicide-sex-accusations-1203178243/

https://www.theguardian.com/uk-news/2019/jul/11/who-was-carl-sargeant-what-were-allegations-against-him-wales

https://theviolinchannel.com/former-stockholm-city-theatre-ceo-benny-fredriksson-died-aged-58-suicide/

https://www.bbc.com/japanese/53389397

https://www.exmoo.com/article/57502.html


※10

https://note.com/beatangel/n/n357d84f25ec5

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕達の弱災社会 rei @reiyuri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画