無垢なる聖域

汚染された聖域

日曜日の朝、カーテンの隙間から差し込む日差しの中、佐藤健(32歳、地方公務員)は聖なる儀式を執り行っていた。テレビ画面の中では、フリルとリボンに包まれた魔法少女が世界の危機に立ち向かっている。 「頑張れ、プリズムハート……!」 佐藤は手にしたアクリルスタンドを握りしめ、かつてのように没入しようと試みる。しかし、背筋を這うような薄ら寒い感覚がそれを阻害していた。


CMに入り、佐藤はいつものようにSNSで実況や感想をポストしようとスマートフォンを手に取る。しかし、タイムラインに流れてくるのは、純粋なファンの叫び声ではなくなっていた。 『プリズムハートの絶対的な被保護性こそ、我々ホビットの権利の象徴である』 『敵役の怪人が放つ「自立の強要」は、現代社会におけるホビット差別そのものだ』 著名な政治家や人権活動家たちが、佐藤の愛するアニメを「政治的に高尚で道徳的なプロパガンダ」として解釈し、崇め奉る投稿で埋め尽くされていた。かつて「オタクの妄想」と蔑まれたその作品は、今や不可侵の聖典のように扱われている。


「……違うんだよな。もっとこう、単純に可愛いとか、そういう話なんだけど」 佐藤は呟き、書きかけのポストを削除する。 テレビ画面ではアニメがエンディングを迎え、主人公が画面の向こうに微笑みかけた。 『みんな、また来週ね! ピュアなハートで、世界を救う!』


その直後、画面がニュース速報に切り替わる。 『ピュアな我々のハートは! 野蛮な非ホビットの暴力性によって脅かされているのです!!』 耳をつんざくような金切り声が響いた。街頭演説の映像だ。演台に立っているのは、立憲自由党の党首。実年齢は50代半ばだが、その外見は半ズボンを履いた10歳の少年にしか見えない。声帯手術によって作られた人工的なボーイソプラノが、スピーカーのノイズと共に佐藤の鼓膜を不快に震わせる。


佐藤はたまらずテレビの電源を抜き、逃げるように家を出た。 近所の喫茶店に入り、ブラックコーヒーを頼んで1息つこうとする。だが、そこも既に侵食されていた。 店内の1角、日当たりの良いテーブル席には、大人用の椅子ではなく、持ち込みの「幼児用ハイチェア」が設置されている。そこに座っているのは、スーツではなくフリルのついた涎掛け(スタイ)をつけた「元・大人」たち──ホビットだった。


彼らは哺乳瓶を両手で包み込むように持ち、中の白い液体を啜っている。中身はただのミルクではない。精神を安定させるための向精神薬がブレンドされた特製ミルクだ。 佐藤は視線を逸らそうとするが、どうしてもその異様な姿が視界の端にこびりつく。


彼らの肌は、度重なるアンチエイジングとシリコン注入の副作用で、ビニールのようにツルツルと光沢を放っている。しかし、そこに生きている人間特有の「揺らぎ」はなく、表情筋は死滅していた。常に乾いた眼球はカッと見開かれたままで、瞬きが少ない。 テーブルの下に見える手足は、成長を逆行させるかのように骨を削っているため、枯れ木のように異様に細い。顎の骨も極限まで削っているため、彼らは固形物を満足に咀嚼できず、常に半開きの口から涎を垂らしながら、甲高いアニメ声で会話を交わしている。


「バブー(同意だよ)」「あーい(尊いね)」 生物としての違和感が凄まじい。生理的な嫌悪感が胃の腑からせり上がってくる。 佐藤をはじめ、店内の「非ホビット」の客たちは皆、彼らを直視しないように俯いている。彼らの容姿を「不気味だ」と口に出すことは、現代社会において最も重いハラスメントであり、暗黙のタブーとなっていたからだ。


(……でも、彼らがアニメを支持してくれたおかげで、俺たちオタクも市民権を得たんだ) 佐藤は冷めたコーヒーを流し込みながら、自分に言い聞かせる。 かつて日陰者だったオタク文化は、ホビットたちの「主要文化」として肯定され、公的な支援すら受けるようになった。 「オタクが差別されない、良い世の中になったはずだ」 佐藤はモヤモヤとした黒い感情を飲み込み、無理やり自分を納得させようとした。しかし、哺乳瓶を吸うプラスチックのような肌の「子供たち」を見ていると、自分が愛した「無垢さ」が、何かグロテスクな怪物に変質してしまったような絶望感を拭い去ることはできなかった。



美しき自己犠牲

月曜日の朝。重苦しい雨が役所の窓を叩く中、佐藤健は大会議室の硬いパイプ椅子に座らされていた。 ホワイトボードの前には、「ダイバーシティ推進課」の課長が立ち、パワーポイントを投影している。議題は『ホビット職員のワークライフバランス適正化及び、それに伴う業務分担の再編について』だった。


「えー、周知の通り、ホビットの方々は非常にデリケートです」 課長は事務的な口調で淡々と説明を始めた。 「彼らの骨格は外科手術によって極限まで細く加工されています。そのため、長時間デスクに座り続けると脊椎に深刻なダメージを負うリスクがあります。また、彼らの精神構造は『純粋な無垢』を維持するために最適化されており、複雑なタスクやクレーム対応といったストレスには耐えられません」


スクリーンには、電話対応中に泣き出して過呼吸になったホビット職員のイラストと、それを保護しなかったとして非ホビット職員が懲戒処分を受けた事例が映し出された。 「さらに、彼らはその美しい外見を維持するため、都心の専門クリニックでの定期的なメンテナンスが不可欠です。よって、医療過疎地である地方への転勤は、彼らの『生存権』を脅かす人権侵害にあたります」


結論として提示された業務改善案は、あまりにも1方的なものだった。


1.ホビット職員の週休3日制導入、および「メンテナンス休暇」の無制限付与。


2.地方出張所への転勤枠、および夜間当直業務は、全て非ホビット職員が負担する。


会議室に沈黙が落ちる。誰もがその理不尽さを理解していたが、誰も口を開こうとはしなかった。 耐えかねた佐藤は、震える手で挙手をした。 「……質問です。これは明白な差別ではありませんか?」 佐藤の声が静まり返った部屋に響く。 「同じ公務員でありながら、特定の身体的特徴を持つ集団にのみ過度な特権を与え、その負担を我々に1方的に押し付ける。なぜ、大人が大人の間にここまでの待遇差を設けるのですか?」


佐藤は正論を言ったつもりだった。しかし、返ってきた反応は怒声ではなかった。 課長は眼鏡の位置を直しながら、まるで物分かりの悪い幼児を諭すような、哀れみに満ちた冷ややかな視線を佐藤に向けたのだ。 「佐藤君。君はまだ『お子様』のようだね」 「……え?」 「いいかね。ホビットの方々は、社会で苦しんでいる犠牲者だ。彼らは守られるためにそこにいる。対して我々は『大人』だ」


課長は歪んだ笑みを浮かべて続けた。 「本当の大人というのはね、自分の権利を主張することじゃない。可哀想な社会の犠牲者──つまりホビットたちのために、泥をかぶり、黙って責任を負える人のことを言うんだよ。君の言っていることは、弟にお菓子を取られたと泣き喚く子供と同じだ」


周囲の視線も同様だった。「空気が読めない奴だ」「まだ自分が守られる側だと思っているのか」という無言の圧力が佐藤を刺す。佐藤は言葉を失い、顔を赤くして俯くしかなかった。


その時だった。 「課長、私がやります」 沈黙を破り、佐藤の同期である男性職員が立ち上がった。 「夜間当直、今月分は私が全て引き受けます。彼らに夜更かしは毒ですから」 その発言を皮切りに、まるで集団催眠にかかったかのように次々と手が挙がり始めた。 「私もです! 残業分は私が持ちます!」 「彼らの笑顔を守るのが、僕たちの仕事ですから!」


それは異様な光景だった。自己犠牲こそが美徳であり、搾取を受け入れることこそが「成熟した大人」の証であるかのような熱狂。課長は満足げに頷き、彼らを「立派な大人だ」「日本の誇りだ」と称賛した。


そして、最も過酷な「地方への片道切符」とも言える転勤辞令の話になった時だ。 佐藤の隣で、ひとりの女性が静かに手を挙げた。 「……私が、行きます」 佐藤は息を呑んで隣を見た。そこにいたのは、佐藤が密かに想いを寄せていた同期、小林百合子だった。 「小林さん、正気か!? 君は来月、昇進試験が……」 佐藤が小声で制止しようとするが、百合子は虚ろな目で微笑むだけだった。 「いいの、佐藤君。誰かが行かないと、ホビットさんたちが困っちゃうでしょ?」


「素晴らしい!」 課長が拍手喝采を送る。 「小林君、君こそ真の大人だ! その献身的な姿勢、まさに公僕の鑑だ!」 会議室中が百合子の自己犠牲を称える拍手で包まれた。百合子は「名誉ある大人」として称賛の嵐の中に立っていたが、佐藤には彼女が、断頭台へ向かう生贄のようにしか見えなかった。 彼女の指先が、微かに震えていることに気づいたのは、その場にいる誰よりも彼女を見ていた佐藤だけだった。



境界線の告白

会議から数日後。小林百合子の地方転勤が決まった壮行会の帰り、佐藤は彼女を2次会に誘った。 「最後くらい、2人で飲もうよ」 そう言って入ったのは、駅前のチェーン居酒屋だった。かつては学生やサラリーマンで賑わっていたが、今は店内の1等地に「ホビット優先席(防音個室)」が整備され、1般客は狭く薄暗い隅の席に追いやられていた。


ジョッキが運ばれてくると、百合子は乾杯もそこそこにビールを流し込んだ。 「ぷはっ。……あーあ、地方かぁ。空気美味しくて肌にいいかもね」 百合子は努めて明るく振る舞っていたが、オフィスの蛍光灯の下では分からなかった「崩壊」が、居酒屋のダウンライトの下では残酷なほど鮮明だった。 佐藤は息を呑んだ。厚塗りのファンデーションでも隠しきれないほど、彼女の目の下にはどす黒いクマが刻まれていた。指先はささくれ立ち、かつて綺麗に整えられていたネイルは剥げかけている。


「……無理してるんじゃないか、小林さん」 佐藤が静かに切り出すと、百合子はジョッキを持つ手を止めた。 「あの会議での決定、やっぱりおかしいよ。君が地方に行く必要なんてない。ホビットたちのワガママの尻拭いじゃないか」 「しっ! 声が大きいよ、佐藤君」 百合子は慌てて周囲を見渡した。隣の席のサラリーマンが、不快そうにこちらを睨んでいる。 「……仕方ないじゃない。誰かがやらなきゃいけないんだから」 百合子は視線をジョッキの中に落とし、泡の消えていく様を見つめながら呟いた。 「もう反抗しても無駄よ。おかしいと思わないわけじゃないけど……現実を受け入れるべきだわ。それが『社会を回す』ってことでしょ?」


「それが社会を回すこと? 自分をすり減らして、あいつらの養分になることが?」 佐藤は身を乗り出した。「君は優秀だ。もっと正当に評価されるべきだ。あんな怪物たちのために、君の人生を犠牲にするなよ」


その言葉を聞いた瞬間、百合子の表情からふっと感情が抜け落ちた。 彼女は空になったジョッキをテーブルに置き、震える声で漏らした。 「……疲れたなぁ」 「え?」 「私だって、評価されたいよ。でも、今の世の中で評価されるのって、『どれだけ我慢できるか』か、『どれだけ弱くて可愛いか』のどっちかじゃない」 百合子は自嘲気味に笑い、自分の2の腕を抱きしめるように摩った。その瞳には、深く暗い羨望の色が宿っていた。 「ねえ、佐藤君。私……正直、羨ましいの」 「誰が?」 「ホビットたちよ。泣けば許される。守ってもらえる。無責任でいられる。……いいよね、愛されるって」 彼女は夢遊病者のような目で虚空を見つめ、ポツリと言った。 「私、もう守る側なんて嫌。……守られる側に行きたい」


それは、彼女の魂が上げた悲鳴だった。 佐藤はその言葉の危うさに背筋が凍り、慌てて口を開こうとした。「小林さん、それは──」


しかし、百合子はハッと我に返り、瞬時に「立派な大人の仮面」を被り直した。 「なんてね! 酔っ払っちゃったみたい。今の忘れて」 彼女は伝票を掴んで立ち上がると、追及しようとする佐藤を遮るように、冷ややかな、それでいてどこか哀れみを含んだ微笑を向けた。 「佐藤君もさ、もっと現実見なよ。いつまでもアニメの主人公みたいに正義感ぶってないで、早く『大人』になりなよ」


「小林さん!」 呼び止める声も虚しく、百合子は背を向けて店を出て行った。 自動ドアの向こう、夜の闇に消えていく彼女の背中は、佐藤が知っている凛とした同期のそれではなく、今にも折れそうなほど脆く見えた。 佐藤の手元には、まだ半分も減っていないぬるいビールだけが残された。これが、人間としての小林百合子との、最後の会話になった。



ありのままの姿見せるのよ

季節が巡り、街には不気味な変化が定着しつつあった。 当初は「外見だけ子供」だったホビットたちの変化が、ついに内面──脳機能と道徳観念にまで及び始めたのだ。


ある日の午後、役所の窓口でトラブルが発生した。 ホビットの職員(元・40代男性課長)が、気に入らないという理由だけで、市民の申請書類をシュレッダーにかけたのだ。 目撃した佐藤が慌てて駆け寄る。「何をしてるんですか! それは重要書類ですよ!」 すると、ホビット職員はカッと目を見開き、金切り声を上げた。 「だって、字が小さくてムカついたんだもん! 僕の目はキラキラしてるから、小さい字は読めないの!」


佐藤が「読めないなら眼鏡をかけてください、破棄していい理由にはなりません」と叱責しようとした瞬間、ホビット職員は床に転がり、手足をバタつかせ始めた。 「うええええん! 佐藤がいじめる! 僕は1生懸命生きてるのに! 虐待だ! 差別だ!」 大粒の涙を流し、その合間にチラリと周囲の反応を伺うその目は、明らかに狡猾な光を宿していた。


しかし、周囲の反応は佐藤の予想を裏切るものだった。 上司や同僚たちが駆け寄ったのは、書類を破られた市民でも、叱責した佐藤でもなく、泣き叫ぶホビットの方だった。 「ごめんね、怖かったね」「佐藤君、君はどうしてそう冷酷なんだ!」 あろうことか、ホビット職員は泣きながら指を差し、「佐藤が破ったんだ! 僕は止めようとしたんだ!」と平然と嘘をついた。全員がそれが嘘だと分かっていた。防犯カメラにも映っている。だが、誰もそれを指摘しなかった。


その夜のニュース番組で、文化評論家がこの「ホビットの癇癪」をこう解説した。 『彼らの行動こそ、我々が失った「動物としての正直さ」の表れです。嫌なことを嫌と言う。責任という重圧から解放され、感情のままに振る舞う。これこそがストレス社会を生き抜く「真に強い大人」の姿であり、政治的に最も正しい(ポリティカル・コレクトネス)生存戦略なのです』


世間はこれに追従した。 すぐに泣き、自分のミスを他人のせいにし、約束を破る。そんなホビットの振る舞いは「ピュアな感性」「嘘をつかない体」として肯定された。 対して、尻拭いをする非ホビットたちは、反抗期の子供に暴言を吐かれる親のような立場に追い込まれた。 「お前らは顔がシワシワで醜いから、僕たちの世話をするしかないんだ」 「クソおじさん、早くジュース買ってきてよ」 そんな暴言さえも、「歯に衣着せぬ鋭い批評」として称賛される始末だった。


佐藤はオフィスの隅で、膨大な量の「ホビット職員のミス修正報告書」を作成しながら、冷や汗が止まらなかった。 役所内では、ホビット職員のために室温は常に高く設定され、彼らの集中力が続かないため1時間おきに「おやつ休憩」が設けられている。その間、電話対応も事務処理もすべて非ホビットが行う。 (……無理だ。こんなことが続けば、物理的に回らなくなる) 財政状況のデータを見れば明らかだった。ホビットへの「快適環境維持費」と、彼らの労働生産性の低さを補うための「代替要員人件費」が予算を圧迫し、道路の補修や水道管の整備といった基本的なインフラ維持費が削られ始めていた。


社会という巨大なバスは、運転手がハンドルを放して後部座席で駄々をこね、乗客がそれを必死に宥めている間に、ゆっくりと、しかし確実に崖へと向かって走っていた。



聖なる欲望

狂気は加速し、社会の倫理観は完全に書き換えられていった。 その日、佐藤が休憩室のテレビで見かけたのは、ワイドショーの特集『ホビット経済圏の奇跡』だった。画面には、地下アイドルのライブ会場や、歓楽街の風俗店が映し出されている。


かつて、そうした場所に通う中年男性は「いい歳をして現実逃避している」「キモい」「性的欲求の塊」として、冷ややかな視線と蔑みの対象となっていた。 しかし、カメラが捉えた現在の客層は、ハイチェアに座り、ペンライトを握りしめたホビットたちだった。 彼らがよだれ掛けを揺らしながら、ステージ上の少女や少年に金切り声で声援を送り、風俗店のパネルを脂ぎった指で撫で回す姿を、ナレーターは感動的なBGMと共にこう紹介した。


『見てください、この溢れんばかりの生命力を! 彼らは恥じることなく、己の「好き」という感情に正直です。これこそが、現代人が忘れていた「愛」の形なのです』


スタジオのコメンテーター(著名な社会学者)が深く頷く。 「ええ。非ホビットの中年がアイドルや風俗に金を落とすのは、単なる『性欲の発散』や『現実逃避』であり、そこには加害性が潜んでいます。実に醜悪だ。しかし、ホビットの方々のそれは違います。彼らの行動は純粋な『人間讃歌』であり、過酷な現実社会に適応するための『賢者の知恵』なのです」


佐藤は飲みかけの茶を吹き出しそうになった。 やっていることは全く同じ──いや、むしろホビットの方が、オムツ姿で異性キャストに甘え、過激なサービスを要求している分、その光景は異様でグロテスクだった。 しかし世論は完全に洗脳されていた。 ホビットがアイドルの手を握れば「ピュアな交流」。非ホビットが握れば「セクハラ」。 ホビットが風俗店で性的サービスを受ければ「愛の探求」。非ホビットが受ければ「性搾取」。 明確な2重基準(ダブルスタンダード)が、正義としてまかり通っていた。


そして、その狂乱は法整備へと波及する。 ニュース速報が、政府の新たな経済対策を報じた。 『政府は本日、ホビット支援法を改正し、彼らの精神衛生維持に不可欠な「余暇活動」に対し、公費を投入することを決定しました。通称「エンジェル・クーポン」の配布です』


アナウンサーが笑顔で解説する。 「ホビットの方々はストレス耐性が低く、常に癒やしを必要としています。彼らがアイドル活動の応援や、異性との触れ合い(性風俗含む)を行うための費用は、これまで自己負担でしたが、今後はその8割が税金で賄われます。これは彼らの『生存に必要な経費』と認められたためです」


画面には、税金で風俗店に入っていくホビットたちの行列と、それを「私たちの税金が、可愛い彼らの笑顔になるなら本望です!」と涙ぐんで語る街頭インタビューの映像(疲れ切った顔をした非ホビットの女性)が流れる。


佐藤は絶句した。 道路には穴が空き、公園の遊具は錆びついているのに、俺たちが納めた血税が、あの不気味な赤ん坊たちの「性欲処理」と「おっかけ活動」に溶けていく。 「……嘘だろ。これが、先進国の姿なのか?」 佐藤の呟きは、休憩室の排気音にかき消された。もはや、この国では「常識」こそが「狂気」として扱われるようになっていた。



矯正される魂

佐藤健のデスクには、悪夢のような書類の塔が築かれていた。その全てが『エンジェル・クーポン利用申請書』──すなわち、ホビットたちの遊興費を公金で賄うための請求書である。


1枚めくるごとに、佐藤の理性が軋みを上げて悲鳴を上げた。 『申請理由:精神的安寧のため。使途:アイドル「マジカル・ロリポップ」握手会VIPチケット(1枚5万円)』 『申請理由:母性の欠乏によるパニック障害の緩和。使途:高級ソープランド「パパミルク」・バブバブ・プレミアムコース(120分・8万円)』 『申請理由:咀嚼困難な心への栄養。使途:ドン・ペリニヨン(ピンク)』


「ふざけるな……!」 佐藤は震える手で書類を机に叩きつけた。窓の外では、予算不足で修繕されない道路の陥没穴を避けて、救急車が遠回りをしている。それなのに、この書類1枚で、救急車のガソリン代何回分が消えるのか。 佐藤は上司の席へ詰め寄った。「課長! これは承認できません! 生活必需品ならまだしも、これはただの性欲と娯楽の浪費です!」


しかし、上司は書類から目も離さずに溜息をついた。 「佐藤君。君のその『差別的な選別意識』が、彼らを追い詰めていることにまだ気づかないのかね? これは彼らの『魂の酸素』なんだよ」 「酸素が8万もするわけないでしょう!」 「……君には研修が必要だね。『ホビット尊厳回復センター』へ行ってきなさい。君のその歪んだ認知、矯正してもらうといい」



連れてこられたのは、都心の地下にある真っ白な施設だった。壁も床も天井も、目に痛いほどの純白。微かに甘ったるいベビーパウダーの香りと、消毒液の臭いが混ざり合っている。 「ようこそ、佐藤さん。貴方は『共感性』という人間として最も大切な機能が欠損しているようです」 担当教官の女性は、唇だけで微笑んでいた。その目は、実験動物を見る科学者のように冷徹だ。


研修は、洗脳的なビデオ視聴から始まった。 暗い部屋で、悲劇的なピアノ曲をバックに、ホビットが「ジャムの瓶が開けられない」というだけで泣き崩れる映像が、スローモーションで延々と流される。 『見てください、この絶望を。彼らにとって、この世界は全てが重く、硬く、冷たいのです』 ナレーションが語りかける中、佐藤は必死に反論を試みる。「いや、それは彼らが好き好んで手術した結果で……」


「黙りなさい」 教官がスイッチを押すと、部屋の照明が落ち、数人の屈強な男たちが入ってきた。 「言葉で理解できないなら、身体で理解してもらいましょう。ホビット・シミュレーションです」


佐藤は拘束椅子に座らされ、腕に太い注射針を刺された。注入されたのは、強力な筋弛緩剤のカクテルだった。 「あ、ぐ……っ!?」 数秒で世界が崩れ落ちた。 指1本動かせない。首が支えられず、ガクンと前に垂れ下がる。顎の筋肉が緩み、口がだらしなく開いて、止めどなく唾液が流れ落ちてスーツを汚していく。意識は鮮明なのに、身体だけが泥の人形になったような、強烈な無力感と屈辱。


「さあ、食事の時間ですよ」 教官がクラッカーを1枚、佐藤の口に押し込んだ。 噛めない。顎に力が入らないのだ。ザラザラした破片が喉に張り付き、強烈な不快感と共に嘔吐中枢を刺激する。 「う、ご……ぉ……ッ!」 佐藤はむせ返り、唾液と吐瀉物が混ざった汚物を床に撒き散らした。 「汚いですねぇ。でも、これがホビットさんの日常なんですよ? 彼らは毎日、この苦しみと戦っているんです。どうです、可哀想だと思いませんか?」


佐藤は涙とよだれにまみれながら、懸命に声を絞り出した。 「……ち、が……う……っ」 「はい?」 「これ、は……かれ、らが……のぞん、だ……こと……だ……っ! 自分で、骨を、削った……被害者、じゃ……ない……っ!!」 佐藤の抵抗は、論理としては正しかった。しかし、この場において論理は異端だった。


教官の表情から微笑が消えた。 「……驚きました。これほどの苦痛を味わっても尚、被害者を愚弄するとは。貴方の心は、本当に凍りついているようですね」 彼女は冷酷に宣告した。 「相互理解には、更なる痛みが必要なようです。彼らが手術のたびに味わう『生まれ変わる痛み』を、共有してもらいましょう」


「──フェーズ2。神経接続、開始」


教官がコンソールを操作すると、佐藤の頭部に装着されたヘッドギアが不吉な唸りを上げた。 それは、脳の痛覚中枢に直接電気信号を送り込み、ホビット化手術の際の「骨を削る激痛」と「皮膚を引き伸ばす灼熱感」を再現する拷問器具だった。


「相互理解(共感)の準備はいいですか? ……3、2、1」


バチィイイイイイッ!!


「ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”!!!」 佐藤の口から、人間が出してはいけない音が漏れた。 全身の骨という骨が万力で砕かれ、同時に皮膚を煮えたぎった油で剥がされるような感覚。 視界が白1色に染まり、思考が焼き切れる。


「私が……っ! 私が間違っていました……っ!!」 佐藤は無意識に叫んでいた。何を謝っているのかも分からない。ただ、この痛みを止めて欲しかった。 「もっと! もっと彼らを愛しなさい! 彼らの痛みを想像しなさい!」 「愛します! 愛しますからぁああっ!!」


電流が止まった時、椅子に崩れ落ちた佐藤の瞳からは、理性の光が消え失せていた。 ただ、条件反射のような恐怖と、虚ろな従順さだけが残った。 口元から涎を垂らし、白目を剥いて痙攣する佐藤の姿は、皮肉にも彼が嫌悪していた「ホビット」そのもののように見えた。


「よくできました」 教官は満足げに、佐藤の汗ばんだ頭を撫でた。 「これで貴方も、ようやく『優しい大人』の入り口に立てましたね」



「子供」の座を巡る戦争

「研修」を経て職場に復帰した佐藤健の瞳からは、生気が完全に抜け落ちていた。 彼は街の変貌を、ただの風景として眺めていた。かつて感じた義憤も、違和感も、脳裏をよぎろうとするたびに条件反射的な「電気ショックの幻痛」が走り、思考を強制的に停止させるからだ。


侵食は、ついに聖域である「本物の子供たち」の領域にまで及んでいた。 デパートの玩具売り場からは、「3歳〜6歳向け」のコーナーが消滅し、代わりに『ホビット様専用・プレミアム知育玩具(対象精神年齢3歳以上)』の棚が黒々と広がっている。そこにあるのは、握力が弱くても持てる超軽量ガラガラや、噛み砕きやすい素材でできた積み木だ。本物の子供たちは、隅に追いやられた狭い通路で、肩身が狭そうに縮こまっている。


公園の入り口には、行政の真新しい看板が立っていた。 『【警告】大きな声を出さないでください。ボール遊び禁止。走り回り禁止。繊細なホビットの方々が驚いてパニックを起こします。違反した児童は警察に通報します』 砂場は「衛生管理されたホビット専用セラピー・サンド」に入れ替えられ、泥だらけの小学生が近づこうものなら、警備員が「シッシッ!」と野良犬のように追い払う。


さらに恐ろしいのは教育現場だった。 小学校の道徳の教科書には、こう記されるようになった。 『私たちはすぐに大人になってしまいます。それは「強者」になるという罪深いことです。だから、永遠に純粋なままでいてくれるホビットさんを、敬い、譲り、守りましょう』 教室では、健常な児童たちが、教壇に座るホビット(特別外部講師)に向かって、「僕たちは生意気にも成長してごめんなさい」と唱和させられている。



ある日の帰宅ラッシュ。満員電車の中で事件は起きた。 佐藤が吊革に掴まり、虚ろな目で中吊り広告を見つめていると、車両の端から金切り声が響いた。


「どいてよ! 私の席よ!!」


優先席の前で、フリルのついたボンネットを被ったホビット(推定実年齢50代女性)が、座席に座る親子連れに向かって絶叫していた。 父親は3歳くらいの眠った娘を膝に乗せ、疲れ切った顔で頭を下げている。 「す、すみません。娘が熱を出していて……もう少しで降りる駅なので、勘弁してもらえませんか」


「知らない! 私は足の骨を削ってるの! 立ってると痛いの! 痛い痛い痛い!!」 ホビットは地団駄を踏み、父親の脛を蹴りつけた。その細い足に殺傷能力はないが、その執拗さと異常性が周囲を凍りつかせる。 「貴方たちは健康だろ! 強者だろ! なんで弱者の私を虐めるの! この人殺し! 席泥棒!」


子供が目を覚まし、異様な怪物の姿に恐怖して泣き出した。「パパ、怖いよぉ……」 するとホビットは、その泣き声に対抗するように、さらに甲高い声で叫んだ。 「うるさぁあい! 私の方が辛いの! 私の方が可哀想なんだぞ! 生意気なガキが泣くんじゃなあい!」


それは、生物としての生存競争だった。「守られるべき弱者」の座を巡り、人工的な子供が、本物の子供を排除しようとしていた。


周囲の乗客は1斉にスマートフォンを向けているが、誰1人として親子を助けようとはしない。「関わったら『差別主義者』として社会的に抹殺される」という恐怖が、良心を麻痺させているのだ。


佐藤は、その光景をすぐ傍で見ていた。 以前の彼なら、迷わず割って入っただろう。だが、今の佐藤の脳内には、あの真っ白な部屋の教官の声だけがリフレインしていた。 『彼らは痛いのです。可哀想なのです。譲るのが正義なのです』


(……ああ、ホビットさんが困っている。足が痛そうだ。可哀想に)


佐藤の思考は平坦だった。目の前で父親が必死に子供を庇い、ホビットが涎を垂らして罵倒していても、何の感情も湧かない。ただ、「騒がしいな」としか思わなかった。


結局、父親は謝りながら席を立ち、熱のある娘を抱えて次の駅で逃げるように降りていった。 ホビットは勝ち誇った顔で席に座り、バッグから哺乳瓶を取り出して「勝利の美酒」を啜った。



翌日、その様子を撮影した動画がSNSで拡散された。 しかし、その切り取られ方は悪意に満ちていた。タイトルは『公共交通機関でホビットを恫喝するモンスターペアレント』。


コメント欄は地獄の様相を呈していた。 『子連れ様だからって偉そうにするな』 『ホビットちゃんがパニック起こしてるじゃん、可哀想……』 『子供はすぐ熱下がるけど、ホビットの骨の痛みは1生なんだぞ? 想像力ないの?』 『この父親、特定して職場に通報しようぜ』


佐藤は昼食のパンを齧りながら、そのタイムラインをスクロールした。 画面の中の世界も、現実の世界も、完全に狂っている。しかし、佐藤はもう「狂っている」とすら思わなかった。 彼は無表情で『いいね』ボタンを押した。 それが、この社会で生きるための唯1の作法だったからだ。



飼い主の飼い主

研修から戻り、感情の死んだロボットのように業務をこなしていた佐藤に、人事課から辞令が下った。 「おめでとう、佐藤君。君の献身的な態度は『ホビット・フレンドリー』の模範だ。本日付けで『シニア・パートナー』への昇進を命じる」


シニア・パートナー。響きだけは重役クラスだが、渡された雇用契約書の特記事項には、小さくこう記されていた。 『対象となる特定ホビット職員(以下「甲」)に対し、パートナー(以下「乙」)は法的親権に準ずる保護責任、および24時間の生活介助義務を負う。なお、甲の精神的苦痛は直ちに乙の懲戒事由となる』


それは実質的な「奴隷契約」だった。だが、佐藤は無表情のままハンコを押した。拒否すれば、またあの白い部屋に戻されるだけだ。


「さあ、君のパートナーを紹介しよう」 課長が開けたドアの向こうにいたのは、特注の電動車椅子に深く沈み込んだ、小さな影だった。 佐藤の記憶にある彼女──仕事熱心で、少し疲れていたけれど理知的だった小林百合子の姿は、そこにはなかった。


そこにいたのは、身長120センチほどに四肢を短縮し、顔面の皮膚を極限まで引き伸ばしてマネキンのようなツルツルとした造形に変貌した、異形の「少女」だった。 「……久しぶりね、佐藤君。また1緒になれて嬉しいわ」 声帯手術を受けた彼女の声は、ヘリウムガスを吸ったような人工的な高さだったが、その口調にはかつてのエリート職員としての尊大さが残っていた。


「小林……さん?」 「百合子ちゃん、でしょ? まったく、気が利かないんだから」 彼女は車椅子のレバーを操作して佐藤に近づくと、値踏みするように見上げた。 「私が地方転勤を断ってこれになった理由、わかる? 私の方が優秀だからよ。この社会で1番賢い生き方は、責任を捨てて権利だけを行使すること。それが『進化』なの」


彼女は誇らしげに、自分の削られた細い腕を見せつけた。 「私は貴方より優秀だから、貴方の上司になったの。でも、私は貴方より生物的に弱いから、貴方は私を全力で支える義務がある。……完璧な論理だと思わない?」



その日から、佐藤のマンションは密室の牢獄と化した。 かつてシンプルだったリビングは、百合子の指示でピンク色のクッションマットが敷き詰められ、彼女が転ばないように家具の角はすべて緩衝材で覆われた。


百合子は「在宅勤務」と称して、1日中リビングの特等席で過ごした。 仕事をするわけではない。巨大なモニターで、例の魔法少女アニメをエンドレスで流し続けるのだ。 「ピュアなハートで! 世界を救うの!」 画面の中の少女が叫ぶたびに、百合子はポテトチップスを咀嚼できない口でふやかしながら、「そうよ! 私を救いなさいよ!」と金切り声を上げて同調する。


佐藤が帰宅すると、地獄の時間が始まる。 「パパ(佐藤の呼称)、お風呂。温度は38.5度。1度でも違ったら泣くから」 「パパ、ご飯。今日の離乳食、味が薄い。私のこと嫌いなの?」 「パパ、マッサージして。足が痛いの。貴方のせいよ、貴方が五体満足で健康なせいで、相対的に私が惨めになるんだから」


佐藤は無言で従った。風呂に入れ、食事をスプーンで運び、彼女の浮腫んだ足を揉む。 1度だけ、佐藤が疲労で溜息をついたことがあった。 その瞬間、百合子の表情が1変した。 「……なに? その態度は」 彼女は首から下げたネックレス型のデバイスを握りしめた。それは『緊急通報ボタン(SOS)』。押せば即座に役所の監視局と警察に「虐待発生」が通知される、ホビットにとっての最強の武器だ。


「私がこんなに弱いのに。こんなに不自由なのに。貴方は健康な体を持て余して、私に溜息をつくの? ……それは『強者の暴力』よ、佐藤君」 「……申し訳、ありません。百合子ちゃん」 「謝る時は笑顔でしょ? 子供を不安にさせないで」


佐藤は頬の筋肉を引きつらせ、貼り付けたような笑顔を作った。 「ごめんね。大好きだよ、百合子ちゃん」 「うん、許してあげる。だって私はピュアだから」


百合子は満足げに笑い、またアニメの画面に向き直った。 大人の権力と子供の免罪符。その両方を手にした怪物が、佐藤の生活、プライバシー、そして尊厳のすべてを咀嚼し、飲み込んでいく。 佐藤はキッチンの換気扇の下で、震える手で水を飲んだ。ここが自分の家なのかどうかも、もう分からなくなっていた。



プラスチックチャイルド

ある夜、寝室のベビーモニター(百合子の世話用)が鳴った。佐藤が駆けつけると、百合子はピンク色のネグリジェを纏い、異様に張り詰めた表情でベッドに鎮座していた。 「パパ。私、赤ちゃんが欲しい」 それは愛情からくる言葉ではなかった。最新のブランドバッグをねだるような、あるいはSNS映えするペットを欲しがるような、軽薄で貪欲な響きだった。


「……何を言ってるんだ。君の体じゃ無理だ。それに、僕たちはそんな関係じゃ……」 「関係?」 百合子は小首を傾げ、冷徹な目で佐藤を射抜いた。 「夫婦(パートナー)でしょ? 生殖は義務よ。それにね、ホビットの間で今、本物の赤ちゃんを持つのがステータスなの。『小さな私が、もっと小さな命を育む』……最高にエモいでしょ?」


佐藤は拒絶しようとした。しかし、百合子の手はすでに『緊急通報ボタン』にかかっていた。 「拒否するの? じゃあ、こう通報するわ。『非ホビットのパートナーに、性的奉仕を拒否され、女性としての尊厳を傷つけられた。これは精神的な性的虐待(セクシャル・ネグレクト)だ』って」 「なっ……!」 「逆に、私がその気じゃない時に手を出したら『強姦』。私がその気な時にしなかったら『ネグレクト』。……分かるわよね? 貴方に拒否権なんてないの」


佐藤は絶望した。目の前にいるのは、かつての想い人ではない。シリコンとプラスチックで補強され、骨を削り、子供の服を着たグロテスクなキメラだ。その体に欲情することなど、生物として不可能だった。 佐藤は震える手で、オンライン診療アプリを開き、ED治療薬(バイアグラ)を処方した。 薬が届いた夜、佐藤は感情を殺し、薬の力だけで生理機能を維持し、行為に及んだ。 百合子の体は、アンチエイジングの副作用で薬品の臭いがし、抱きしめると削られた骨が軋む音がした。彼女は行為の間中、「痛い、痛い、優しくして、壊れちゃう」と呪文のように繰り返し、佐藤は自分が死体を犯しているような錯覚に陥り、何度か嘔吐しかけた。



奇跡的にも、そして不幸なことに、子供は授かった。 帝王切開で生まれた男の子は、五体満足な「人間」だった。 しかし、地獄はそこから加速した。


「重い。無理。腕が折れちゃう」 退院初日、百合子は赤ん坊を1度抱こうとしただけで、すぐにベッドに放り出した。 「あーあ、産むまでは楽しかったのに。なんで泣くの? うるさいなぁ」 彼女にとって、赤ん坊は「撮影用の小道具」でしかなかった。泣き止まない小道具に、彼女はすぐに飽き、敵意すら向け始めた。


佐藤の生活は崩壊した。 早朝に起きて赤ん坊のミルクを作り、オムツを替え、百合子の朝食(流動食)を作り、彼女の着替えを手伝う。 日中は役所でホビットたちの理不尽なクレーム処理と、百合子が育休中に溜め込んだ仕事の尻拭い。 定時ダッシュで帰宅し、保育園のお迎えに行き、スーパーで買い出しをし、帰宅後は赤ん坊の沐浴と百合子の入浴介助。


睡眠時間は1日2時間を切っていた。佐藤の顔色は土気色になり、目は落ち窪んだ。 ある夜、佐藤が疲れ果てて、洗濯物を畳む手が止まってしまった時だ。 ソファでスマホをいじっていた百合子が、その背中を冷ややかに見下ろしていた。


「……ねえ、パパ。ミルク、冷めてるんだけど」 「ごめん、今すぐ……」 「遅い。貴方、最近たるんでるんじゃない? 私が産後の肥立ちが悪くてこんなに辛いのに、貴方は家事ひとつ満足にできないの?」


百合子は泣き出した赤ん坊をあやすこともせず、スマホのカメラを佐藤に向けた。 散らかった部屋、泣き叫ぶ赤ん坊、そして床に座り込んで動けない、無精髭を生やした佐藤の背中。 彼女はその写真をSNSに投稿した。


『#ワンオペ育児 #ホビットママ #旦那が役立たず また赤ちゃんが泣いてるのに、パパは無視してボケーっとしてる……😢 私は体が弱いから抱っこできないのに、それを知ってて育児を押し付けてくるの。虐待だよね? 誰か助けて……』


その投稿は、瞬く間に拡散された。 『最低な旦那!』『ホビットちゃんに無理させるな!』『特定班、動きます』『奥さんの体が壊れたらどう責任取るんだ』 画面の中では、必死に生きる佐藤が「邪悪な加害者」として断罪され、寝転がってスマホを弄る百合子が「健気な悲劇のヒロイン」として崇められていた。


通知音が鳴り止まない百合子のスマホを見ながら、佐藤は思った。 (ああ、この世には神も仏もいない。いるのは、無垢な顔をした悪魔だけだ) その夜、佐藤は初めて、赤ん坊の泣き声が遠くに聞こえた。限界が近づいていた。



競合する「弱者」

限界は、唐突に訪れた。 木曜日の午後3時。役所のデスクで、佐藤は意識を消失した。 山積みの書類──ホビットたちの「お散歩代行申請書」や「離乳食グルメ補助金請求」──に顔を埋めるようにして、ブレーカーが落ちるように深い闇へと沈んだのだ。 周囲の同僚たちは、彼を起こさなかった。「また佐藤がサボっている」「家庭のことで疲れているアピールか」と冷ややかに見過ごした。 彼が目を覚ましたのは、日が暮れて庁舎が薄暗くなった午後7時過ぎだった。


「……ッ!?」 佐藤は飛び起きた。保育園のお迎えはとっくに過ぎている。いや、今日は百合子が「たまには私がやるから、パパは稼いできて」と珍しく言った日だったか? 意識が混濁している。 不吉な動悸が胸を叩く。佐藤は鞄をひったくり、タクシーに飛び乗った。



マンションのドアを開けると、異様な光景が広がっていた。 リビングは静まり返っている。いつもなら耳をつんざくような赤ん坊の夜泣きが聞こえない。 聞こえるのは、大音量で流れる魔法少女アニメのBGMと、百合子がポテトチップスをふやかしながら啜る音だけだ。


「……百合子? 翔太(子供の名前)は?」 佐藤がリビングに入ると、百合子はソファの定位置から動かずに、チラリとこちらを見た。 「あ、パパ。おかえり。遅かったね」 彼女の機嫌は良かった。ここ数ヶ月で見たことがないほど、スッキリとした表情をしている。 「翔太なら、もう寝たよ。……永遠にね」


「え?」 佐藤の視線が、部屋の隅へ吸い寄せられる。 指定ゴミ袋の束が置かれている場所。そこに、1つだけ膨らんだ半透明のポリ袋があった。 中には、見覚えのあるベビー服の柄と、青白くなった小さな手足が、無造作に押し込まれていた。


「あ……、あ……」 佐藤は膝から崩れ落ちた。這うように近づき、震える手で袋に触れる。冷たい。もう、動かない。


「うるさかったの」 百合子はテレビ画面を見つめたまま、壊れたオモチャの話をするように淡々と言った。 「私がアニメ見てるのに、ギャーギャー泣いて。私が『静かにして』って言っても無視して。……ねえパパ、あの子、わざとやってたんだよ」


百合子はスナック菓子を指で摘みながら、恐るべき理屈を語り始めた。 「あの子、自分が『本物の子供』だからって、私にマウント取ってたのよ。私のほうが立場が弱いのに。私のほうが可愛いのに。あの子は泣くだけでパパにも、世間にもチヤホヤされる」 彼女の瞳に宿っていたのは、母性などではない。ライバルを蹴落とすための、ドロドロとした嫉妬と敵対心だった。 「私から『守られるべき弱者』のポジションを奪おうとするなんて、生意気じゃない? だから、ちょっと教育してあげたの。クッションで、お口をチャックしてあげただけ」


「き、みは……自分の子供を……!」 佐藤が叫ぼうとしたその時、百合子はスマートフォンの画面を佐藤に突きつけた。


「見て、パパ。みんな私の味方だよ」


画面には、投稿したばかりのSNSが表示されている。 写真には、ゴミ袋の横で顔を覆って嘘泣きをする百合子の自撮り。 『#ごめんなさい #育児ノイローゼ #もう限界 ワンオペがつらすぎて、気づいたら手が……。旦那は仕事って嘘ついて帰ってこないし、赤ちゃんは私を虐めるみたいに泣き止まないし……。私、どうしたらよかったの? 誰か、こんなダメな私を叱って……😢』


コメント欄は、秒単位で更新され、爆発的な勢いで埋まっていった。 『百合子ちゃんは悪くない!』 『悪いのは放置した旦那だ! 殺人未遂の共犯だろ!』 『辛かったね、よしよし。赤ちゃんも天国でママの幸せを祈ってるよ』 『これは正当防衛だ。魂の叫びだ』


数万件の「いいね」と、同情の嵐。 そこには、殺された赤ん坊への哀悼は1つもなかった。あるのは、「可哀想な加害者」であるホビットへの狂信的な擁護と、佐藤への殺害予告だけだった。


「ほらね」 百合子はニッコリと笑った。ビニールのような肌が引きつり、人工的な笑みを形作る。 「私が悪いんじゃない。社会が、パパが、私を追い詰めたの。……私は被害者なのよ」


佐藤の中で、何かが完全に砕け散った。 目の前にあるのは、妻ではない。人間ですらない。 社会が生み出した、無垢という皮を被った「捕食者」だ。 佐藤は、冷たくなった息子が入ったゴミ袋を抱きしめ、声を押し殺して慟哭した。その背中で、百合子は「あーあ、パパってば暗いなぁ。早く警察呼んでよ、私が自首してあげるから」と、飽き飽きしたようにあくびをした。



司法の茶番と、魔法のステッキ

裁判は、正義を裁く場ではなく、ホビットという「聖域」を守るための演劇だった。


法廷に現れた小林百合子の姿は、傍聴席の涙を誘うように完璧に計算されていた。 特注の純白の車椅子。喪服ではなく、淡いピンク色の「懺悔服(ベビーウェア調のデザイン)」。口にはおしゃぶりを咥え、膝には殺した我が子の遺影ではなく、彼女自身が愛用しているウサギのぬいぐるみを抱いている。


弁護士(ホビット人権派の第1人者)が、朗々と陳述を行った。 「被告人・百合子氏は、被害者です! 脆弱な身体で命懸けの出産をしたにも関わらず、夫である佐藤健氏は育児を放棄し、彼女を精神的に追い詰めました。これは『産後うつ』と、夫のモラハラによる『解離性障害』が生んだ悲劇であり、彼女に責任能力はありません! 悪いのは、彼女にナイフを持たせた社会と、夫なのです!」


証言台に立った佐藤は、反論する気力さえ奪われていた。 何を言っても「加害者の言い訳」として処理される。裁判官(事なかれ主義の極みのような初老の男性)は、法廷の外でデモを行っているホビット支援団体の方ばかりを気にしていた。


【判決】 被告人、小林百合子を懲役3年、執行猶予5年に処する。 ただし、被告人は著しい精神耗弱状態にあるため、保護観察処分とする。 なお、夫・佐藤健には「監督責任不行き届き」として、被告人の更生プログラム費用および慰謝料の全額負担を命じる。また、今後も引き続き被告人の保護者(パートナー)として、その生活を支える義務を負うものとする。


(子供を殺した女が被害者となり、子供を殺された男が、その女を1生養う奴隷となる。それが、この国の「正義」だった)



判決の夜。 佐藤は百合子を車椅子に乗せ、タクシーでマンションに戻った。 ドアを開けると、そこは数日前の「事件現場」のままだった。ただ、警察の現場検証で家具が少し動かされている以外は、何事もなかったかのように静まり返っている。


車椅子からソファへと、百合子を抱き上げて移す。彼女の体は羽のように軽く、そしてプラスチックのように無機質だった。 百合子はおしゃぶりを吐き出すと、大きく伸びをした。


「あー、怖かった。裁判官のおじさん、顔が怖くて泣いちゃったよ」 彼女はケロリとしていた。反省の色など微塵もない。それどころか、「大変なイベントを乗り越えた私」に酔いしれているようだった。 彼女はテーブルの上のリモコンを手に取り、いつものように魔法少女アニメの録画を再生し始めた。


「ねえパパ。お腹すいた」 百合子は画面を見ながら、背後の佐藤に声をかけた。 「刑務所のご飯なんて食べられないもんね。……離乳食、作って。あ、今回はカボチャのペーストにしてね。甘いやつ」


佐藤はキッチンの前に立ち尽くしていた。 「……」 佐藤の中で、何かが切れる音はしなかった。 怒りも、悲しみも、絶望さえも、音を立てずに蒸発し、あとには「完全なる静寂」だけが残った。 世界が急にシンプルになった。 (ああ、そうか。もう、いいんだ)


「パパ? 聞いてるの?」 返事がないことに苛立った百合子が振り返る。 すると、そこには優しく微笑む佐藤が立っていた。 作り笑いではない。憑き物が落ちたような、仏のような穏やかな笑顔だった。


「わかったよ、百合子ちゃん。お腹すいたね」 「! ……ふふ、やっと反省したのね」 百合子は機嫌を良くし、佐藤に背を向けてアニメに没頭した。 「早くしてね。私、これから再スタートしなきゃいけないんだから。忙しくなるわよ、悲劇を乗り越えたアイドルとして」


佐藤はキッチンには向かわなかった。 彼はリビングの飾り棚へと歩み寄った。そこに飾られていたのは、アニメの主人公が使う武器、『プリズム・ハート・ロッド(1/1スケール・超合金製レプリカ)』だ。 ズシリと重い、鈍器としての質量を持つ「愛と正義のステッキ」。


佐藤はそれを両手でしっかりと握りしめた。 テレビの中では、魔法少女が決め台詞を叫んでいる。 『悪い心は、私が浄化してあげる!』


佐藤は音もなく百合子の背後に立った。 彼女の小さな頭部。まだ骨を削った跡が残る、脆くて柔らかい頭蓋。 佐藤はステッキを高く振り上げた。


「……パパ?」 気配を感じたのか、百合子がゆっくりと振り返ろうとする。


「ピュアなハートで」 佐藤は呟いた。


「世界を救う」


豪快な風切り音と共に、魔法のステッキが振り下ろされた。



檻の中の揺りかご

それから1年が過ぎた。


刑務所の食堂には、薄味の味噌汁の匂いと、食器がぶつかる乾いた音だけが響いていた。 佐藤健は、プラスチックの箸で黙々と麦飯を口に運んでいた。 壁に設置されたテレビでは、相変わらず世界の崩壊が娯楽として垂れ流されている。


『ニュースです。本日、政府は「超・少子化対策」として、ホビットへの支給額をさらに増額する法案を可決しました。財源確保のため、非ホビットの労働者の所得税率は65%に引き上げられます』 画面には、崩落した高速道路の映像が映し出されている。予算不足でメンテナンスが放置された結果だが、コメンテーターのホビットは「道路なんて直すより、僕たちの心のケアにお金を使ってよ!」と喚いている。 かつての佐藤なら、怒りで拳を震わせていただろう。 しかし今、佐藤は箸を止めることすらなかった。


『速報です。1部の非ホビットによる過激派組織「大人の尊厳を守る会」が摘発されました。彼らは「ホビット優遇の撤回」を訴えていましたが、これはヘイトスピーチにあたると……』


食堂の囚人たちがざわめく。「そうだ! もっとやれ!」「俺たちの社会を取り戻せ!」と小声で気炎を上げる者もいる。 だが、佐藤の心は凪いだ水面のようだった。 (馬鹿だなあ) 佐藤はぼんやりと思う。 (まだ、この社会に期待しているのか。まだ、何かを守ろうとしているのか) 佐藤の中には、社会に対する愛も、憎しみも、1欠片も残っていなかった。愛の反対は憎しみではなく、無関心だ。彼は完全に世界を見限っていた。



作業の時間が終わり、独房に戻る。 コンクリートの壁に囲まれた、わずか3畳の空間。 しかし、ここには佐藤を責め立てる妻もいない。泣き叫ぶ子供もいない。理不尽なクレーマーもいない。 「大人になれ」「責任を取れ」「我慢しろ」と強要する社会もない。


ここでは、時間は管理されている。 食事は勝手に出てくる。 服は支給される。 考える必要はない。選ぶ必要もない。責任を負う必要もない。 ただ、言われた通りに息をしていれば、明日は勝手にやってくる。


佐藤は簡易ベッドに横たわり、天井のシミを見つめた。 かつて、彼は「大人」であろうとした。 痛みに耐え、歯を食いしばり、理不尽を飲み込み、社会というシステムを維持するために心身を捧げることが「大人」だと信じていた。 だが、その結果がこれだ。 社会は、その「大人」の自己犠牲を燃料にして、さらに巨大な幼児性(ホビット)を肥大化させるだけの怪物だった。 ならば、「責任を持って社会を維持する」という行為こそが、実は「社会の崩壊に加担する」という最大の罪だったのではないか?


(……皮肉なもんだ)


佐藤は身体を丸め、胎児のような姿勢を取った。 刑務所の中こそが、今の日本で唯1、搾取されずに守られている場所だ。 ここでは誰も彼に「強者としての義務」を求めない。彼はここで、社会から切り離された「無力な存在」として、ただ生かされている。


ふと、佐藤は気づく。 泣いて喚いて権利を主張し、他人に世話をさせて生きていた百合子やホビットたち。 そして今、法と塀に守られ、税金で養われ、思考停止して微睡んでいる自分。 ──行き着いた先は、同じじゃないか。


「……なんだ。僕もなれたんじゃないか」


佐藤の口元に、微かな笑みが浮かぶ。 それは解脱した聖人のようでもあり、完全に狂ってしまった廃人のようでもあった。


「ホビットに」


消灯のブザーが鳴る。世界が闇に包まれる。 佐藤健は目を閉じた。 彼は幸福ではなかった。しかし、不幸ではなかった。 ただ、巨大なシステムの羊水に抱かれ、永遠に目覚めない子供のような安らかな眠りへと落ちていった。

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