第五話 いつもと違うママ
大学の講義というものは、ただノートを取っているだけならそれほど苦ではない。問題は、その合間に訪れる「休み時間」という魔の時間だ。
教室のあちこちで形成されるグループの喧騒。その中で独り、スマホをいじるふりをしてやり過ごす自分を想像してみる。
(……このままじゃ、六年どころか半年で心が折れる!)
里香は戦略を練った。まずは、どこでもいいからサークルに入る。活動内容なんて二の次だ。女子が多く、大人数で、誰が誰だか分からないようなガサツな集まりが望ましい。そこで同じ学部の「友だち」という名の盾を作り、授業を一緒に受ける。これしかない。
ニートの本領を発揮し、ソファーでジョセフとダラダラ過ごしながらスマホを操作する。自分の大学のサークル一覧を適当にスクロールしていると、一つの名前が目に止まった。
『忍者サークル☆ニンニンで御座る』
「……もう、これでいいや」
探すのが面倒になった里香は、中身も確認せずに「新歓コンパ参加」のボタンをポチッと押し、スマホを放り投げた。
「よし。これで第一段階クリアだね、ジョセフ」
里香はジョセフの黄金色の毛の中に顔を埋め、体を左右に揺らした。あふれ出す愛情を抑えきれず、濡れた鼻先や耳のあたりにキスの嵐を見舞う。
「なーんにもしなくても、一緒にいるだけで幸せだね……」
ジョセフも里香の首元におでこをぐいと押し付け、愛と喜びを表現した。
幼い頃、里香が学校でのいじめに苦しんでいた時。ジョセフはソファーで一人、声を殺して泣く里香のそばを、片時も離れなかった。
里香はジョセフから教わったのだ。本当の「守る」とはどういうことかを。
暴漢を倒す力や、贅沢をさせる経済力。それらは緊急時には必要かもしれない。けれど、もっと日常的に、細心の注意を払って守らなければならないのは、目に見えない「心」だ。
人の心は脆く、壊れやすい。だからこそ、常に気を配り、守らなければならない。どうやって?
「ずっとそばにいるよ」というメッセージを、無言のまま送り続けること。それ以外に方法はないのだと、里香は確信していた。
だから、里香はジョセフが年老い、苦しい時、彼のそばにずっといたい。彼が自分にしてくれたのと同じように……
いつの間にか、里香は微かな幸福感の中で眠りに落ちていた。
目が覚めると、部屋には香ばしい出汁の匂いが漂い、テーブルには夕飯が並べられていた。キッチンには、ママの背中がある。
「ママ、おはよ……」
「里香ちゃん、おそよ〜」
里香は目をこすりながら、寝ぼけ眼で近況を報告した。
「来週ね、コンパ行く。サークルの」
「えっ、大学の?」
「うん。友だちいないから、そこで誰か捕まえてから単位取りに行く」
「ふふ、うんうん。それがいいね」
玲弥がいない時のママは、いつもと少し空気が違う。弟の世話に追われる母親の顔ではなく、里香にだけ向けてくれる、柔らかくて優しい、甘えさせてくれるママだ。
「おかず、一品作ってみたんだけど。食べてみて」
「すぐ分かったよ。ほうれん草の胡麻和えでしょ」
里香が冷蔵庫から取り出した小皿を見て、ママは嬉しそうに目を細めた。
ジョセフの食器スタンドにも、カリカリのドッグフードが盛り付けられる。彼はそれを、待ってましたと言わんばかりにペロッと平らげた。
窓の外からは、燃えるような夕陽が射し込んでいた。ママは「暗くなるわね」と部屋の灯りをつけてカーテンを閉めたけれど、里香はあの残光の中にいても良かったと思った。
パパが仕事(あるいはギャンブル)で遅く、玲弥も部活や塾でいない午後。ママとジョセフは、いつもこうして二人きりで早めの夕飯をとっていたのだろうか。
三人だけの、少し早めの夕食。
それはちょっぴり切なくて、けれど胸が締め付けられるほど温かい、不思議な時間だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます