第ニ話 ニート宣言
佐藤家のリビングには、里香の卒業を祝う出前のオードブルが所狭しと並んでいた。揚げ物の匂いと、どこか気の抜けたお祝いムード。
「姉ちゃん、卒業おめでと〜……」
二階から、寝癖のついた頭をボリボリと掻きながら弟の玲弥が降りてきた。
「ありがと。卒プレ買ってくれたん?」
「ごめん、買ってない」
かつては天使のように可愛かった玲弥も、来年は中学二年生。いつの間にか里香の身長を追い越し、声も低くなった。ふとした瞬間に漂う「男」の気配に、里香は月日の流れを感じずにはいられない。
「さっ、玲ちゃん、『いただきます』しましょ」
母の手招きで玲弥が席につく。二人が手を合わせたところで、父が遅れて居住まいを正して音頭を取った。
「里香、卒業おめでとう! 里香の門出を祝して……かんぱーい!」
「ふんほーいっ!」
母と玲弥はすでに口に料理を詰め込みながら、適当な返事で乾杯に応える。
なんてちぐはぐな家族だろう。だが、この締まりのなさが佐藤家の日常だ。
一人静かに「いただきます」をした里香だったが、その箸はどこか重い。考え事をしながらエビフライの衣を突く娘の様子を、父は見逃さなかった。
「どうした里香。箸が進んでないぞ……食欲ないのか?」
「うん……ちょっと、考え事してて」
その言葉に、母がパッと顔を輝かせた。
「あら! 里香ちゃん、もしかして恋の悩み?」
「姉ちゃん、そういうのは俺に相談するのが一番いいぜ」
「相変わらず自信過剰ね、我が弟……。でも恋の悩みじゃない」
里香は箸を置くと、椅子からずり落ちるようにして床に座り込んだ。そして、足元で寝そべっていたゴールデンレトリバーのジョセフに、後ろから覆いかぶさるように抱きついた。ジョセフは「ふんっ」と鼻を鳴らし、ちぎれんばかりに尻尾を振ってそれに応える。
「ねえ、ママ……大学の入学金って、もう払った?」
「え? 来週振り込む予定だけど……?」
里香はジョセフの毛並みに顔を埋めたまま、意を決して口を開いた。
「パパ、ママ、ごめん! せっかくここまで育ててくれたのに……っ!」
突然の謝罪に、両親は面食らって動きを止めた。
「……急に何を謝るんだ里香。里香はパパの自慢の娘だぞ」
「そうよ、ママにとっても自慢の娘よ。何があったの?」
里香は顔を上げ、二人を真っ直ぐに見据えて言い放った。
「私……私、わたしっ、ニートになりたいっ!」
リビングに、凍りついたような沈黙が流れた。
「……いや、なんでだよ。国立大受かったじゃん」
玲弥の至極真っ当なツッコミが静寂を切り裂く。
「それはそうなんだけど! でも、ジョセフはもう老犬じゃん。いつ体が悪くなって、介護が必要になるかわからない。だから、ジョセフが幸せな気持ちで天国に行くまでは、私が一日中そばにいて面倒見たいの!」
玲弥がムシャムシャと唐揚げを咀嚼する音だけが響く。母は困ったように眉を下げた。
「もう、里香ちゃんったら……。ジョセフのことはママがちゃんと面倒見るから大丈夫よ」
「いや、それではダメだ。ジョセフは里香のことが一番好きなんだ」
父が、残酷なまでに真実を突いた。
「どうするの、あなた……」
母が不安げに父を覗き込む。父は腕を組み、目を閉じて深く考え込んでいた。
数分の沈黙の後、父が目を開いた。
「……仕方がない」
(通った! 意外にも通った!)
里香の心に歓喜のファンファーレが鳴り響く。
「里香のニート志願を許そう。だが! パパは里香の将来が心配だ。ニートのままでは不幸一直線だ。だから、大学には通ってもらう」
「じゃあニートじゃねーじゃん」
玲弥のツッコミを、父は人差し指をチッチッチと振って制した。
「甘いな玲弥。……六年だ。普通は四年で卒業するところを、六年かけて卒業しなさい。 だから一年目も、単位は取れるだけ取っておくんだ。こんなこと本当は言いたくないが、大型犬の寿命は長くて十五年。あと六年は持たないだろう。……これなら里香の願いも、ジョセフの願いも、親の願いも叶えられる!」
父のメチャクチャな、しかし娘への愛に満ちた(?)提案に、母も呆れながら頷いた。
「学費はパパがギャンブルで何とかしよう。……任せろッ!」
「ありがとうパパ!」
里香は父の首にしがみつき、髭の剃り残しがジョリジョリする頬に、十年ぶりくらいのキスを贈った。佐藤家の食卓は、再びちぐはぐで、それでいて温かな熱気に包まれた。
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