第8話:銀行支店のパニック
「佐藤さん、……いえ、佐藤元支店長。どうか、……どうか、お考え直しいただけないでしょうか」
高級ホテルのラウンジ。窓の外には東京の街並みが広がり、かつて俺が必死に守り、そして追い出された銀行のロゴが遠くに見える。 目の前で、後任の支店長・佐々木が、額をテーブルに擦り付けんばかりに下げていた。
かつての俺のデスクに座り、俺が辞める時に「時代遅れの遺物は早く片付けてくれ」と鼻で笑った男だ。そのパリッとしていたはずのスーツは、冷や汗で湿り、不快な酸っぱい匂いを放っている。
「頭を上げてください、佐々木さん。他のお客様の迷惑になります」 俺は、香りの高いキリマンジャロを口に含み、平然と告げた。
「そうはいきません! 信濃精機に続いて、大沼精機まで……。佐藤さんが個人で株を買い占め、筆頭株主になったことで、彼らは我が行との取引をすべて解消すると言い出しました。あそこは支店の、いや、当行の最重要顧客です! 彼らを失えば、私の首が飛ぶ……どころか、支店自体が存続の危機なんです!」
佐々木の声は震えていた。 無理もない。俺が投資家として介入した企業は、すべて銀行の融資を完済し、当座預金から何十億という資金を引き上げ始めている。銀行にとって、貸付利息という「獲物」と、預金という「燃料」を同時に奪われるのは、まさに死刑宣告だ。
「心外ですね。私はただ、彼らの未来に投資しただけだ。銀行の『格付け』という名の呪縛から、彼らを解放してあげたのですよ」
「そ、そんな建前はいい! お願いです、佐藤さん。あなたが仲介してくれれば、彼らはまた戻ってくる。……戻ってきてくれれば、あなたを『特別顧問』として、現役時代の倍の報酬で迎え入れます。いえ、副頭取への道だって私が上層部に掛け合って——」
「佐々木さん」 俺はカップをソーサーに置いた。カチリ、という硬質な音が、佐々木の言葉を断ち切った。
「あなたは、私が金のために動いていると思っているのですか?」
「え……?」
「私が辞めた時、あなたは言いましたね。『看板のない人間に価値はない』と。その言葉、今でも私の耳に張り付いていますよ」
俺は身を乗り出し、怯える佐々木の瞳を真っ直ぐに見つめた。 ラウンジの柔らかな照明が、彼の顔に深い絶望の影を落とす。
「看板を失った俺は、自由になった。組織の都合で嘘をつく必要も、守る価値のない数字のために頭を下げる必要もなくなった。……今の俺にあるのは、自分の意志で動かせる『四十億』という名の真実だ。あなたの提案する『特別顧問』? 笑わせないでください。私の時給を払えますか?」
「そ、それは……」
「それに、もう遅い。私はすでに、あなたの銀行の主要株主リストを洗わせてもらっている。……私のビットコインは、まだ上がっている。その含み益で、次はあなたの銀行の株を、市場で少しずつ拾わせてもらうつもりだ」
佐々木の顔から血の気が引いた。唇が紫に変色し、ガチガチと歯の根が合わない音が聞こえる。
「ば、買収……するつもりですか……? まさか、個人で……」
「買収? いえ、そんな面倒なことはしない。筆頭株主として、株主総会であなたの『経営責任』を問うだけですよ。……あなたが無能だと切り捨てた元上司が、あなたの進退を決定する。これほど公正な『格付け』はないと思いませんか?」
「ひっ……!」
佐々木は力なく椅子から滑り落ち、絨毯の上に膝をついた。かつての栄光を誇ったエリート支店長の面影はどこにもない。そこにあるのは、自らが作った「看板」という名の檻に閉じ込められ、呼吸すらできなくなった哀れな男の姿だった。
「さあ、お帰りください。私はこれから、妻とディナーの約束があるんだ。……あ、お代は私が持っておきますよ。銀行員は、経費の使いすぎにうるさいのでしょう?」
俺は立ち上がり、一瞥もくれずに歩き出した。 背後で、「佐藤さん! 待ってください! 佐藤さん!」という情けない叫び声が響いたが、それはすぐにホテルの喧騒に消えていった。
外に出ると、夕闇に包まれた街の灯りが、昨日よりもずっと眩しく見えた。 復讐の味は、大吟醸よりも少しだけ苦く、そして何よりも清々しかった。
「看板」を捨てた男の無双は、いよいよクライマックスへ向かう。
次は第9話「元部下たちの自滅」ですね。佐々木の失脚が銀行内に知れ渡り、佐藤に媚びを売ろうと群がる高橋や河野。彼らに対して、佐藤が下す「最後の一喝」を描きましょうか。
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