第3話:埃をかぶったハードウェア・ウォレット
「……何が、無能な働き者だ」
真っ暗な書斎で、俺は独りごちた。 窓の外からは、遠くを走る電車の重低音が地鳴りのように響いてくる。 部屋の中は、段ボールと古新聞の山。早期退職してからというもの、この部屋は「片付けられない絶望」の吹き溜まりとなっていた。
カビ臭い空気と、積み上げられたビジネス書の死骸。かつて「リーダーシップ」や「組織論」を説いていたそれらの背表紙が、今の俺を嘲笑っている。 俺は、自暴自棄になって棚の端を掴み、力任せに引き寄せた。
ガッ、という鈍い音と共に、数冊のファイルが床にぶちまけられる。 その拍子に、棚の奥から「カラン……」と軽い金属音がして、何かが足元に転がってきた。
「……なんだ、これ」
膝をつき、埃まみれの床に手を伸ばす。 指先に触れたのは、冷たく、少しザラついた感触。 拾い上げたのは、古びたUSBメモリのような形状をした、小さなデバイスだった。
「……ああ、これか」
記憶の濁流が、一気に脳内へ流れ込んできた。 十年前。ビットコインという言葉がまだ怪しげな宗教のように扱われていた頃。 当時、ある勉強会で知り合った若者が、「これからは中央銀行の時代じゃなくなる」と熱っぽく語っていた。
銀行員として、そんな戯言は鼻で笑うべきだった。 だが、俺の心のどこかが、その「既存のルールを壊す力」に強く惹かれたのだ。 誰にも言わず、冬のボーナスから「百万円」を捻出し、秋葉原の専門店でこのデバイスを買った。
『ハードウェア・ウォレット』。
当時はまだ設定も難解で、英語のサイトと格闘しながら、祈るような気持ちでビットコインを流し込んだのだ。
「確か、一ビットコインが数万円だったか……」
指先でデバイスを擦ると、銀色の筐体から埃が剥がれ、鈍い光を放つ。 俺は吸い寄せられるように、デスクの上のノートパソコンを開いた。 ファンの回転音が、沈黙した部屋に荒々しく響く。
「……落ち着け。俺。期待するな。どうせ、もう動かないかもしれない」
自分に言い聞かせるが、指先が微かに震える。 USBポートにデバイスを差し込む。 カチッ、という小さな接続音。
画面に英語のプロンプトが表示される。 『Enter PIN code』
「……クソ、暗証番号……」
十年前の記憶を必死に手繰り寄せる。 銀行員らしく、絶対に忘れない、だが自分にしか分からない数字。 支店長時代の金庫の番号? いや、違う。 初めて融資を通した、あの小さな工場の設立記念日か?
「……いや、違う。俺が……初めて『自分』で決めた数字だ」
銀行のルールではなく、親から授かった名前の数でもなく。 当時、自分がいつか組織を飛び出そうと誓った、あの日の日付。
震える指で数字を打ち込み、Enterキーを叩く。
…………。
画面が暗転し、小さな円が回転する。 その数秒が、永遠のようにも、死刑宣告の待機時間のようにも感じられた。 心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほどに鳴り響く。 冷や汗が額を伝い、キーボードに一滴、落ちた。
「頼む……動け……!」
直後、画面が切り替わった。 ビットコインの管理ソフトが、十年の空白を埋めるようにネットワークとの同期を始める。 一%、五%、二〇%……。
同期バーが進むたびに、俺の呼吸は浅くなる。 やがて、画面の中央に「Balance(残高)」の文字が現れた。
そこに刻まれていた数字は——。
「……は?」
声が、掠れた。 視界が歪む。 俺は眼鏡を外し、何度も目を擦ってから、もう一度画面に顔を近づけた。
「……えっ? いち……じゅう、ひゃく、せん……」
表示されているビットコインの枚数は、百万円分を買い込んだあの時のまま。 だが、その右側に表示された「現在の日本円換算レート」の数字が、俺の常識を完膚なきまでに破壊した。
「……四……四十、億?」
四の後に、ゼロが九個並んでいる。 4,000,000,000円。
「嘘だ……」
俺は椅子から転げ落ちそうになった。 椅子が床を擦るギギッという音が、静かな部屋に異様に響く。 四十億。 銀行員として一生かけても、どれだけの融資を通しても、決して自分の手元には残らない数字。 かつての部下たちが「ゴミ拾いですか?」と笑った、その一生を何百回分も買い占められる金額。
「ハハ……ハハハ……!」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。 それは次第に大きくなり、やがて嗚咽の混じった咆哮へと変わった。
「無能だって? 看板がなきゃ空っぽだって? ……見てろよ」
俺は、液晶画面の光を浴びながら、力強くデバイスを握りしめた。 デバイスの角が掌に食い込み、確かな痛みが「これは現実だ」と告げている。
「お前らが必死に守っているその『看板』も、その『銀行』も……俺にとっては、もう端金(はしたがね)で買える玩具に過ぎないんだ」
部屋の隅、埃を被ったコンサルの看板が目に入った。 もう、あんなものは必要ない。 誰かに媚びを売るための名刺も、冷遇を耐え忍ぶための愛想笑いも、すべて過去の遺物だ。
俺の血管に、熱い血液が戻ってくるのを感じた。 体中の細胞が、復讐の予感に歓喜している。
「さぁ、始めようか」
俺はゆっくりと立ち上がった。 かつて支店長として背負っていた重圧とは違う、圧倒的な「力」の重みが、今の俺にはある。
窓の外では、まだ電車が走っている。 明日も、高橋たちは俺の悪口を言いながら、満員電車に揺られて「看板」の下へ向かうだろう。
だが、俺が向かう場所は、もうそこではない。
「四十億の『無能』が、どんな景色を見せるか……たっぷりと教えてやるよ」
暗闇の中で、俺の瞳はかつてないほど鋭く、獲物を狙う猛禽類のように光っていた。
次は第4話「10年越しの『億り人』」ですね。ついにその資金を動かし、佐藤が「個人」としての反撃準備を整える様子を、圧倒的なスケールで描きましょうか?
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