第2話:手のひら返しの屈辱

ハローワークの自動ドアが開くたびに、湿り気を帯びた埃っぽい風が鼻を突く。 整理券の番号が呼ばれるのを待つ間、俺はパイプ椅子の硬い感触を尻に感じながら、手元のクリアファイルを強く握りしめていた。


「——佐藤さん、厳しいですね。おっしゃる通り、支店長としての実績は素晴らしい。ですが、今の市場が求めているのは現場のDXを回せる若手か、あるいは……」


窓口の職員は、申し訳なさそうに視線を落とした。その視線の先にある俺の履歴書には、かつて誇りだった『〇〇銀行 支店長』の文字が、今では賞味期限の切れた特売品のラベルのように虚しく横たわっている。


「……そうですか。ありがとうございました」


椅子を引く音が、静まり返ったフロアに異様に大きく響いた。 外へ出ると、ビル風が容赦なくネクタイを跳ね上げる。もう、それを直してくれる部下も、鏡の前で身だしなみを整える理由もない。


腹の底が重い。空腹というよりは、内臓が泥で満たされているような不快感だ。 俺はふらふらと、かつての「縄張り」だったオフィス街を歩いていた。馴染みの喫茶店なら、少しは心が休まるかもしれない——そう思ったのが間違いだった。


「ルノアール」の奥まったボックス席。 タバコの煙と、深い焙煎の香りが立ち込める中、聞き覚えのある「笑い声」が耳に飛び込んできた。


「いやぁ、マジで傑作でしたよ。先週、佐藤さんが北村社長のところへ営業に行ったらしいっす」


心臓が跳ねた。 背の高いパーティションの向こう側。見なくてもわかる。かつての腹心、高橋だ。そしてその向こうには、いつも俺の隣で「勉強になります!」とメモを取っていた中堅の山下と、若手の河野がいる。


俺はとっさに近くの席の影に身を潜めた。逃げ出せばいいのに、足が動かない。まるで自虐的な本能が、彼らの言葉を聴けと命じているようだった。


「北村社長、なんて言ったと思う? 『あの置物、まだ動くのか』ってさ」


「ギャハハ! 置物って、言い得て妙ですね。あの人、支店長席に座ってハンコ押してる時が全盛期だったんですよ」


高橋の声は、かつての神妙な報告の声とは似ても似つかない、粘りつくような嘲笑に満ちていた。


「本当に、典型的な『無能な働き者』でしたよね。余計なコンサル提案して取引先を困らせるし、こっちはその尻拭いで残業っすよ」


山下がコーヒーをすする音を立て、吐き捨てるように続けた。 「銀行の看板背負ってるから相手にされてるだけなのに、自分の実力だと勘違いしちゃって。早期退職してFIRE? 片腹痛いっすよ。今頃、失業保険の列に並んでるんじゃないですか?」


「やめてくださいよ山下さん、可哀想じゃないですか」 河野の声が聞こえる。救いの手かと思ったが、その後に続いたのは、鋭いナイフのような一言だった。


「でも私、あの人の説教、一度も理解できたことないんです。言葉に中身がないっていうか……『真心』とか『信頼』とか、古いんですよ。今の時代、数字とロジックでしょ。あんな空っぽな人に指導されてたと思うと、私のキャリア、三年間ドブに捨てた気分です」


耳の奥で、ドクン、ドクンと嫌な脈動が打つ。 視界が急激に狭まり、冷や汗が背中を伝って腰のあたりで冷たく溜まる。 彼らにとって、俺の三十年は「ドブ」だったのか。 俺が夜通し考えた経営支援策も、部下の成長を願って掛けた言葉も、すべては「看板」という名のメッキが剥がれれば、見るに堪えないガラクタだったというのか。


「あ、そうだ。佐藤さん、最近ビットコインがどうこうって現役時代に言ってませんでしたっけ? 『これからは分散型だ』とか何とか。デジタル音痴のくせに、格好つけて」


「あったあった! 数年前に百万円分くらい買ったって自慢してましたよね。今頃、暴落して紙屑になってるんじゃないですか? それともパスワード忘れて詰んでるとか。マジでウケる」


高橋たちが声を上げて笑う。 その笑い声は、喫茶店の壁に反響し、俺の鼓膜をズタズタに切り裂いた。


俺は、逃げた。 会計もせず、ただ店の外へ。


眩しい午後の光が目に刺さる。 街ゆく人々が、全員俺を「無能」と笑っているように見えた。 ショーウインドウに映る俺は、肩が落ち、顔色が土色で、どこにでもいる「終わった老人」だった。


「……百万円……」


路地裏の電柱に手をつき、荒い息を吐きながら呟いた。 確かに買った。 十年前、まだ誰も見向きもしていなかった頃。 当時の部下たちには鼻で笑われながらも、自分なりの「銀行員としての勘」で、これからは通貨の概念が変わると信じて投じた、なけなしの百万円。


屈辱。 怒り。 そして、自分への絶望。


「俺は……本当に空っぽなのか……?」


喉の奥から、酸っぱい胃液がせり上がってくる。 だが、その時。 ポケットの中で、古びたスマートフォンの通知が震えた。 ニュースアプリのヘッドライン。


『ビットコイン、過去最高値を更新。1BTC=1,000万円突破』


一瞬、思考が停止した。 1,000万円? 俺が買った時は、確か——。


震える指でブラウザを開く。計算が合わない。いや、現実味がない。 かつての部下たちが「紙屑」と嘲笑ったあの百万円。 もし、一度も売らずに持っていたとしたら。


俺は、ふらつく足取りで自宅へと向かった。 あの時、パスワードをメモして、書斎の奥に放り込んだ「あのUSBメモリ」を探すために。


背後から、まだ高橋たちの嘲笑が聞こえてくる気がした。 だが、俺の心拍数は、先ほどとは違う理由で、激しく、熱く跳ね上がっていた。


「……見ていろ。お前たちがバカにした『無能な働き者』の、本当の価値を教えてやる」


涙で滲んだ視界の先に、傾きかけた夕日が、血のような赤さで輝いていた。


次は第3話「埃をかぶったハードウェア・ウォレット」をお書きしましょうか?いよいよ伝説の「残高」と対面する瞬間です。


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