第4話:『再興の祝杯 ―四十億の残高と、妻の涙―』

「四十億……」


昨夜、暗闇の中で見たあの数字が、まだ脳裏に焼き付いている。 だが、朝の光を浴びた俺が真っ先に手にしたのは、ハードウェア・ウォレットではなく、トイレブラシだった。


「あら、あなた。どうしたの? 急に」 洗濯物を抱えた妻の恵子が、驚いたように足を止める。 「いや、少しな。ずっと、家のことを任せきりだったから」


塩素系洗剤のツンとした匂いが鼻を突く。便器をこするたびに、自分の中にこびりついていた「支店長」という名の傲慢な汚れが剥がれ落ちていくような気がした。 続いて風呂場へ向かう。タイルの目地をブラシで叩き、ぬめりを洗い流す。冷たい水が跳ねて頬を濡らすが、それが妙に心地いい。


昨日の絶望が嘘のように、心が澄み渡っていた。 俺が「無能」と蔑まれ、職を失い、ボロ雑巾のように打ちのめされていた間、この家を守り、黙って俺を支えてくれたのは、銀行の看板でも、かつての部下でもない。 目の前で不思議そうに俺を見ている、この女性だ。


「……よし、綺麗になった」


昼過ぎ、俺は恵子を誘って、馴染みの商店街へ向かった。 アスファルトから立ち上る陽炎と、どこかの店から漂う焼き魚の香ばしい匂い。 「いつもの魚屋さんで、今日は奮発しよう」 「どうしたの? 何かいいことでもあった?」 「……ああ、少しな」


魚屋『魚政』の店主が、威勢のいい声を上げる。 「へいらっしゃい! 佐藤さん、今日はいい大トロが入ってるよ!」 「それを、恵子の好きなネタと一緒に、握りにしてくれないか。一番いいやつで頼む」


驚く恵子を横目に、俺は酒屋で最高級の大吟醸『久保田』の萬寿を手に取った。 手に伝わる瓶の冷たさと、重み。 はやる気持ちを抑えるのに必死だった。 心臓が、昨夜とは違うリズムで激しく鐘を打つ。 これは、宝くじを当てた時の高揚に近い。だが、それよりももっと深く、静かな決意を伴う熱量だ。


帰り道、花屋に寄り、真っ赤なバラと、恵子の好きなカスミソウを束ねてもらった。 「はい、これ。いつも、ありがとう」


玄関先で花束を差し出すと、恵子は目を見開いた。 「……あなた、本当にどうしちゃったの? 怖いわよ」 「怖くないさ。ただ……少し、目が覚めたんだ」


夕食の食卓。 豪華な寿司が並び、グラスに注いだ大吟醸がフルーティな香りを部屋中に広げる。 俺は恵子の隣に座り、その少し白髪の混じった、だが変わらず美しい髪をそっと撫でた。


「……苦労をかけたな。これからは、もう大丈夫だ」 「あ……な……た……」


恵子の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。 彼女は、俺が銀行を辞めてから、どれほど苦しみ、屈辱に耐えていたかを知っていた。再就職がうまくいかず、夜中に一人で溜息をついていた背中を、彼女はずっと見ていたのだ。 「私……あなたが元気なら、それだけでいいの。贅沢なんて、しなくていいのよ」


彼女の涙が、俺の手の甲にこぼれ落ちた。温かくて、ひどく重い一滴だった。 俺はその温もりを噛み締めながら、胸の内で静かに誓った。


(……恵子。君のその涙を、今度は歓喜の涙に変えてみせる。俺を『無能』と笑った奴らには、想像もつかない高みへ、君を連れて行く)


「……さあ、食べよう。旨いぞ、今日の大トロは」


酒を一口煽る。喉を焼くような刺激の後、芳醇な甘みが広がった。 脳裏には、明日からの戦略が明確に描かれていた。 四十億のビットコイン。これを一気に売り抜ければ、相場を壊しかねない。 まずは、信頼できる税理士と弁護士を確保する。それも、かつての銀行関係者ではない、独立系の「本物」を。


それから、あの取引先の北村社長。そして、高橋。 お前たちが馬鹿にした「看板のない佐藤」が、どれほどの力を持っているか、順を追って教えてやる。 札束で横面を張るような真似はしない。 もっと残酷に、もっと知的に、お前たちがしがみついている「組織」という名の脆い足場を、根底から揺さぶってやる。


「おいしい……本当においしいわ」 恵子が、寿司を口に運びながら微笑む。 その笑顔を見ているだけで、腹の底から黒い力が湧き上がってくるのを感じた。


「ああ、旨いな」


俺はもう一度、恵子の髪に触れた。 指先に感じる確かな愛着と、隠し持った「四十億」という名の最強の武器。 昨日まで、俺をゴミのように扱っていた世界が、明日からは俺の足元で跪くことになる。


窓の外は、静かな夜が更けていく。 だが、俺の心の中では、かつてないほど激しい嵐が吹き荒れていた。 復讐と、再生の嵐だ。


「……ここからだ」


俺は、自分にしか聞こえない声で呟いた。 大吟醸の最後の一滴を飲み干すと、視界が驚くほどクリアになった。 さあ、幕を開けよう。 最強の「無双」の、第一章を。


次は第4話「10年越しの『億り人』」ですね。ついにその資金を具体的に動かし、元部下たちの目の前で「圧倒的な力の差」を見せつけ始める準備が整います。どう進めましょうか?


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