第1話:黄金の椅子からの転落
「失礼します、佐藤コンサルティング事務所の佐藤です」
冷房の効きすぎた応接室に、自分の声が虚しく響いた。 鼻をつく安物の芳香剤の匂い。かつて支店長としてこの部屋を訪れた時は、最高級の玉露と、社長自らの揉み手による出迎えがあったはずだ。
「ああ、佐藤さん。そこに座って」
デスクから顔も上げず、スマートフォンの画面を弄りながら言ったのは、株式会社マルキの北村社長だ。かつて、俺が三億円の融資を通した際、「佐藤支店長は我が社の命の恩人です」と涙を流して俺の手を握った男だ。
だが今、彼の前に出された茶は、茶渋のついた湯呑みに注がれた冷めた麦茶だった。
「北村社長、先日お送りした経営改善のご提案ですが、特に物流コストの削減案については——」 「佐藤さん」
北村が言葉を遮った。冷淡な、刃物のような視線が俺を射抜く。
「アンタさ、勘違いしてないか?」 「……勘違い、と言いますと」 「アンタの話を聞いてたのは、アンタが『メガバンクの支店長』だったからだ。後ろに三文字の看板を背負ってたから、退屈な講釈に付き合ってやってたんだよ」
北村は椅子を深くリクライニングさせ、天井に向けて煙草の煙を吐き出した。
「今のアンタは何だ? 銀行を辞めた、ただの五十過ぎのオッサンだろう。コンサル? 悪いが、看板のない人間に金を払うほど、うちは暇じゃないんだ。それとも何かい? 個人で数億引っ張れる力でもあるのか?」
喉の奥が、焼けるように熱くなった。握りしめた膝の上の拳が、情けなく震える。 背中のシャツが、冷や汗でべったりと肌に張り付いているのが分かった。
「……しかし、北村社長。融資の際にお約束した——」 「帰れよ」
短く、吐き捨てるような拒絶。 「もう二度と、アポなしで来るな。受付の女の子も困ってるんだ」
事務所を出ると、アスファルトから立ち上る熱気が俺を包み込んだ。 蝉の声が耳障りに響く。首筋を伝う汗が、まるで自分から流れ落ちる「価値」の残滓のように思えた。
逃げるように向かったのは、かつて部下たちとよく通った駅前の居酒屋『赤提灯』だった。 開店直後の店内に、油の混じった独特の匂いが漂う。
「おや、佐藤支店長。お久しぶりで」 店主の愛想笑いも、どこかよそよそしい。カウンターの隅で、生ビールの中ジョッキを煽る。冷たい液体が喉を通るが、胸の内の焼け付くような屈辱は消えない。
その時だった。
「——マジで笑えましたよ。あの人、本当に自分がコンサルで通用すると思ってたんですかね?」
背後のテーブル席から、聞き覚えのある声がした。 振り向かなくても分かる。かつて俺が「次期エース」として目をかけていた、融資課の高橋だ。
「佐藤さんのこと? あの『説教支店長』、まだ営業に来てるんだ。うわー、キツいな」
続く声は、窓口担当だった河野か。彼女がミスをするたびに、俺は「銀行員としてのプライドを持て」と厳しく、だが愛情を持って指導してきたはずだった。
「看板がなきゃ、ただの説教臭い置物ですからね」 高橋の嘲笑が、店内に響く。 「退職金でFIRE? 笑わせんなって。コンサル契約一件も取れずに、今頃貯金切り崩して震えてるんじゃないですか? 典型的な『無能な働き者』の末路っすよ。ざまぁない」
ジョッキを握る手に力が入り、ガラスが軋んだ。 ビールが急に泥水のような味に変わる。
彼らにとって、俺は導き手でも上司でもなかった。 ただの、排除すべき「古い時代の遺物」だったのだ。
「……お会計」
震える声で告げ、店を出た。 夜の帳が下りた街は、ネオンで着飾っている。だが、そのどこにも俺の居場所はなかった。 銀行員として積み上げてきた三十年。 守ってきた規律。 繋いできた信頼。 そのすべてが、砂の城のように音を立てて崩れていく。
「俺に価値はない、か……」
自宅までの帰り道。暗い公園のベンチに座り込み、頭を抱えた。 視界がじわりと滲む。 悔しさ。 情けなさ。 そして、これからどう生きていけばいいのかという、底なしの恐怖。
エリート支店長としてのプライドは、真夏の夜の湿った風に吹かれ、無惨に散っていった。 俺に残されたのは、誰も見向きもしない古いノートパソコンと、孤独な沈黙だけだった。
だが、この時の俺はまだ気づいていなかった。 十年前、好奇心と確信の狭間で投じた「百万円」が、デジタル世界の底で、とてつもない化け物に変貌を遂げていることに。
「……まだだ。まだ、終わらせてたまるか」
暗闇の中で、独り言が虚しく消えた。 逆襲の狼煙は、まだ、煙すら上がっていない。
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