長く続いた雨から解放された動物たちは、まとわりついてくる空気に若干の嫌気を覚えながら、活動範囲を広げていく。

恋の時期でもある。

残念ながら、現代では野良猫たちは恋もできないのだが……なんとも歯がゆいものである。


あれから、あの鯖猫を見かけない。

(なんとも、あの時の表情が気になって仕方ない)


そんな、牙に肉が刺さって取れないような気持ち悪さを抱えながら、数日が過ぎた。


暑さの落ち着いた夕暮れ時、今日も満たされたお腹と睡眠で、ご機嫌に闊歩する。


ふと上を向くと、アパートの二階のベランダに、ちょこんと座っているあの鯖猫を見かけた。


(あっ、あの時の鯖猫!)


何をしているのか観察する。

鯖猫は、ただじっと、そこの部屋の中を見続けていた。


どれくらい、そうしていただろう。


鯖猫は、顔を下に向けて床をじっと見つめると、そのまま身体をこちらに向けた。


(っ!?)

視線が合う。


鯖猫は、今にも泣きそうな、そんな悲しそうな表情をしていた。


吾輩を見た鯖猫も驚いたようで、そこから飛び降り、そのまま吾輩の前から去っていった。


それからは、ルーティンであったルートを変え、そのアパートの前を一日に何度か通るようにした。

相変わらず、鯖猫は夕暮れ時になると、ベランダに座っている。


(あそこに、何があるんだ?)


またしても、吾輩の好奇心が疼き出した。

こうなってしまっては、物事がきちんとわからないと気が済まない。こういうところが、吾輩が clever な理由である。


人間の学生諸君よ、よく覚えておきたまえ。



(ふむ。夕暮れ時にはすでに鯖猫はここにいる。じゃぁ、その前はどこにいるのだ?)


ここで問題が発生する。今の時間より前の時間…。

吾輩は、3時の貢物を受けた後、大事な休息をとっている頃だ。

(あの木陰で爆睡している時間を削ることになる。身を切るような決断をしなければならない。)

好奇心 vs 静養…。


普通なら迷わず昼寝を選んだであろう。

(でも、あの表情…)

チュールを一つ食べ終わるくらいの時間、悩む。

(仕方ない、鯖猫調査といくか…)

そうして至福の時間を少し早めに取ることにした。


弱きものを見捨てない。さすが吾輩、大妖怪である。


次の日から、鯖猫の調査が始まった。

といっても、この町のワトソンズの情報提供により、あっという間に鯖猫の動向は把握できてしまったのだ。


教えてもらった時間と場所に行ってみると、大きな建物がある。人間はこれを『学校』と呼んでいる。

色とりどりの、同じような鞄を背負った人間の子供たちが、ぞろぞろと出てきた。

(なるほど、小学校か…)


鯖猫が動き出した。

人間に見つからないように、塀の上や民家の敷地を伝いながら、3、4人の子供の集団を追っているように見える。


吾輩もまた、鯖猫に気づかれぬよう、そっと後を追った。


「じゃな、また明日ー」

「ばいばーい」

と、少しずつ人数が減っていく。


その中の一人、黒いランドセルを背負った男の子を、鯖猫は追跡している。


(ここは…)

あのアパートにたどり着いた。

鯖猫はそのまま2階のベランダに飛び乗り、ちょこんと座った。


(あの子の家だったのか。でも、なぜ?)


そうして見ていると、ベランダの窓が開き、男の子が顔を出した。


「ソラ、ただいま。」

そう言って鯖猫の頭を撫でている。

「今日ね、学校でね…。」

男の子は、今日一日に起きたことを鯖猫に話し続けた。

まるで、帰宅した子供が母親に報告しているかのように。


しばらく、二匹(?)だけの穏やかな時間が流れた。


「じゃあね、ソラ。僕、宿題しないと。また明日ね。」

そう言うと、窓とカーテンが閉まった。


ソラと呼ばれた鯖猫は、そのままそこに座り続けている。


(良い関係じゃないか。楽しそうに。)


吾輩は、訳がわからなかった。


そんなことを二日続けた。

今日は土曜日、学校はお休みだ。

同じ時間、同じ場所で待っても仕方がない。

最初から、あのアパートに向かった。


今はまだ、陽が一番高いところまで登ろうとしている途中だ。

平日なら子供たちは学校で、家にはいない。


でも、今日は…。


アパートに着くと、階段の下で一人座っている男の子がいた。

(あの子だ)


近くには、ソラもいる。

男の子は黙ったまま、ただソラを撫でていた。


ソラは気持ちよさそうに目を閉じている。

ただ、男の子は…。

どこを見ているのかわからない、焦点の合わない目を地面に向け、手をソラの背に機械的に這わせているようだった。

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