第7話 触れられない距離のまま

 ある日、

 仕事終わりに、悠に食事へ誘われた。


 忙しい一日が終わって、

 人の少ない店に並んで座る。


 他愛のない話をして、

 笑って、少し黙って。

 いつもと変わらない時間だった。


 料理が運ばれてきて、

 箸を動かし始めた頃、

 悠がふと、何でもない調子で言った。


「そういえばさ、別れたんだよね」


 一瞬、手が止まった。


 理由も、経緯も、続かなかった。

 報告というより、

 事実を置いただけの声だった。


 私は、深く聞かなかった。

 踏み込まないと決めた距離を、

 ここでも守りたかった。


 少しして、悠が続ける。


「今、家どうしようか迷ってて」


 更新のタイミング。

 生活費のこと。

 一人で住むには、少し広い部屋。


 どれも現実的で、

 感情を含まない話だった。


 私は相槌を打ちながら、ただ聞いていた。


 しばらくして、

 悠は箸を置き、少しだけ言葉を選ぶように言った。


「……もしよかったら、なんだけど」


 空気が、ほんの一瞬、止まる。


「私と、一緒にシェアハウスしない?」


 思わず、息を止めた。


「彩といると、すごく心地いいんだ」

「変な意味じゃなくてさ」


 照れたように、

 慌てて付け足す。


「お互いに、いい人が見つかるまでの期間限定で」

「今まで通りの距離でさ。無理しない感じで」


 すぐには答えられなかった。


 恋人になるわけじゃない。

 期待もしない。

 約束もしない。


 それでも――

 一人でいるより、

 隣に人がいる方が、楽だと思った。


「……それなら」


 そう言うと、

 悠は、ほっとしたように笑った。


 引いたはずの境界線は、消えていない。

 ただ、その線のこちら側に、

 一緒に立つことを選んだだけだ。


 触れられない距離のまま。

 名前をつけない関係のまま。


 それでも私たちは、

 人生を、ほんの少しだけ

 隣に並べて歩き始めた。

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触れられない距離のまま Mらーそん @356mrrason

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