第6話 揺れる距離

 前より少しだけ、距離を置いた。


 日常は、何事もなかったように続いていた。


「今日も忙しそうですね」

「無理しないでくださいよ」


 元々優しい性格の悠が、

 何気なく気遣ってくれる。


 距離を保とうと決めたのは自分なのに、

 悠の存在を意識しないようにするほど、

 かえって、その気配に敏感になっていく。


 仕事終わり、

 同じ空間にいながら、

 少しだけ離れた位置に立つ。


 それは拒絶ではなく、

 守るための距離だった。


 ――これ以上、近づいてはいけない。


 そう思う一方で、

 同じシフトの日が重なると、

 どこか安心している自分がいた。


 あの夜のことは、

 二人の間で話題に上ることはなかった。


 それが、ありがたくもあり、

 少しだけ寂しくもあった。


 もしも、あの夜がなかったら。

 もしも、手を伸ばさなかったら。


 あんなメッセージを送らずに、

 今まで通りでいられたのだろうか。


 そんなことを考えてしまう自分に、

 彩は小さく息を吐いた。


 私は、

 何を期待しているのだろう。


 悠の隣に立ちたいのか。

 それとも、

 ただ、同じ空間で呼吸していたいだけなのか。


 恋人になりたい、とは思わなかった。

 誰かに取られたくない、

 という気持ちも、なかった。


 それなのに、

 悠が疲れていそうな日は、

 自分のことのように気になってしまう。


 笑っていると、安心して、

 少し元気がないと、理由を探してしまう。


 その感情に、

 まだ名前をつける勇気はなかった。


 でもこれは、

 ただの憧れだけでは、

 もう説明がつかない。


 彩は、

 踏み出さないまま、そこに立ち止まることを選んだ。


 触れられない距離で、

 それでも、隣にいるという選択。


 それは、

 逃げでも、諦めでもなく、

 今の自分にできる、

 ひとつの誠実さだった。

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