第5話 境界線
あの夜のことを、
私はまだ、うまく整理できずにいた。
手に残った温もりも、
暗闇の中で交わした言葉も、
何事もなかったように迎えた朝の空気も。
どれも現実だったはずなのに、
少し触れただけで壊れてしまいそうで、
心の奥に、そっとしまい込んでいた。
それなのに――
職場で顔を合わせるたび、
悠は以前よりも、感情を隠さなくなった気がした。
「今日も一緒で嬉しいです」
「会えると、安心します」
そんな言葉を、迷いなく口にする。
冗談の延長みたいに、
「今度、どこか一緒に出かけたいな」
「実家に帰るとき、タイミング合ったら一緒にどうですか」
そんな話題まで、自然に混ざるようになった。
そのたびに、胸がざわついた。
嬉しい。
でも、落ち着かない。
恋人がいるはずの人から向けられる言葉を、
私はどんな顔で受け取ればいいのか、わからなかった。
憧れている。尊敬している。
大切な存在だと思っている。
だからこそ、
その一言一言に、平常心でいられなくなっていく自分が、
少し怖くなった。
ある夜、
何度も文章を書いては消して、
ようやく短いメッセージを送った。
――悠さんのこと、人としても、コーチとしても尊敬しています。
憧れている存在です。
だからこそ、
嬉しい言葉をもらうたび、
自分の気持ちが追いつかなくなることがあります。
職場では、
ほんの少しだけ距離を置かせてください。
言葉を選びすぎて、
どこか他人行儀な文章になったかもしれない。
それでも、
これ以上曖昧なままでいる方が、
何かを壊してしまう気がしていた。
返事は、すぐに届いた。
「距離感、気をつけますね」
「これからも、よろしくお願いします」
淡々としていて、
大人で、
責める色はどこにもなかった。
返信を読んだあと、
画面を伏せたまま、しばらく動けなかった。
正しい選択だったはずだ。
そうしなければ、きっと私は、
何かを間違えてしまう気がしていたから。
それでも、
胸の奥に残った小さな痛みは、
どうしても無視できなかった。
私は、自分で線を引いた。
それが、守るためのものなのか、
それとも、遠ざけてしまうものなのか――
そのときの私は、
まだ知らなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます