雨上がりの約束

@raputarou

雨上がりの約束

第一章 再会


雨が降っていた。


東京の初夏の雨は、いつも突然やってくる。傘を持たずに出た私は、駅前のカフェに駆け込んだ。


「いらっしゃいませ」


店員の声が聞こえたが、私の目は別のものを捉えていた。


窓際の席に座る一人の男性。


心臓が、大きく跳ねた。


「......春樹?」


小さく呟いた声は、雨音に消えた。


彼が振り向く。そして、私の目と合う。


彼もまた、驚いた表情を浮かべた。


私の名前は桜井美咲。二十八歳、出版社で編集者として働いている。


そして、窓際にいるのは高橋春樹。私の、かつての恋人。


七年ぶりの再会だった。


「美咲......?」


春樹が立ち上がり、私の元に歩いてくる。


彼は、七年前と変わらない。いや、少し大人びた顔立ちになったかもしれない。黒いシャツに細身のパンツ。相変わらず、シンプルな服装が似合う。


「久しぶり」


私は、努めて平静を装って言った。


「本当に......久しぶりだね」


春樹も、同じように平静を装っている。だが、その目には動揺が隠せていなかった。


「座らない? 濡れてるでしょ」


春樹が、自分の席を勧めてくれた。


私は、躊躇したが、結局座った。


沈黙。


お互い、何を話せばいいか分からない。


七年前、私たちは別れた。


理由は――今でも、はっきりとは説明できない。


ただ、すれ違いが積み重なり、気づいたら元に戻れない距離になっていた。


「元気だった?」


春樹が、ありきたりな質問をした。


「まあ、それなりに。春樹は?」


「俺も、何とかやってるよ」


また沈黙。


雨は、まだ止まない。


「今、何してるの?」


私は、話題を変えようと尋ねた。


「建築家。小さな設計事務所で働いてる」


「そうなんだ。夢、叶えたんだね」


春樹は、学生時代から建築家を目指していた。


「君は? まだ、編集の仕事?」


「うん。同じ出版社で」


春樹は、少し微笑んだ。


「変わってないんだね」


その言葉が、胸に刺さった。


変わってない? いや、私は変わった。七年間で、たくさん変わった。


でも、春樹の前では、変わっていないふりをしてしまう自分がいた。


「ねえ、美咲」


春樹が、真剣な表情で言った。


「今度、ゆっくり話さない? 七年分の話を」


私は、答えに躊躇した。




第二章 揺れる心


「考えておく」


私は、曖昧な返事をした。


春樹は、少し残念そうな表情を浮かべたが、強要しなかった。


「そっか。じゃあ、連絡先だけでも交換しておこうか」


私たちは、スマートフォンの連絡先を交換した。


七年ぶりに、春樹の番号が私の電話帳に戻ってきた。


雨が弱まってきた。


「じゃあ、俺はこれで」


春樹が立ち上がった。


「うん。また......」


「また」


春樹は、微笑んで去っていった。


私は、一人カフェに残された。


コーヒーを飲みながら、考え込んだ。


春樹と、また会うべきなのか。


七年前、私たちは別れた。


それは、正しい選択だったと思っていた。


お互いのキャリアを優先し、恋愛よりも仕事を選んだ。


でも、本当にそれで良かったのか。


その夜、私は親友の麻美に電話した。


「春樹と再会した!?」


麻美は、驚きの声を上げた。


「うん。偶然、カフェで」


「で、どうだったの? まだ好きなの?」


「分からない......でも、心臓が跳ねたのは確か」


麻美は、少し黙ってから言った。


「美咲、あなた、まだ春樹のこと忘れてないでしょ」


「そんなこと......」


「嘘つかないで。この七年間、あなた誰とも真剣に付き合ってないじゃない。それって、まだ春樹を引きずってるからでしょ」


麻美の言葉は、的を射ていた。


確かに、この七年間、何人かの男性とデートはしたが、真剣な関係にはならなかった。


いつも、どこかで春樹と比べてしまっていた。


「でも、今さら......」


「今さらじゃないよ。むしろ、今がチャンスかもしれない」


「チャンス?」


「二人とも、七年間成長したんでしょ? 昔とは違う関係が築けるかもしれない」


麻美の言葉に、少し希望が湧いた。


でも、同時に恐怖もあった。


また、同じように別れることになったら?


その苦しみを、もう一度味わう勇気はあるのか?


翌日、会社で仕事をしていると、スマートフォンにメッセージが来た。


春樹からだった。


『昨日はありがとう。また会えて嬉しかった。今週末、時間ある?』


私は、スマホを見つめたまま固まった。


同僚の田中リカが、心配そうに声をかけてきた。


「美咲さん、大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」


「あ、うん。大丈夫」


リカは、二十四歳の後輩で、明るく天真爛漫な性格だ。


「何かあったんですか? 恋の悩みとか?」


「......そんなところ」


「えー! 美咲さんにも恋の悩みがあるんですね! いつもクールなのに!」


リカの言葉に、苦笑した。


クール? 私が?


違う。ただ、感情を表に出さないようにしてるだけだ。


春樹と別れてから、私は感情を抑えることを学んだ。


傷つかないために。


でも、それは本当に正しかったのか。


私は、春樹にメッセージを返した。


『今週末、空いてる。どこで会う?』


返信は、すぐに来た。


『美咲が好きだった場所。覚えてる?』


私の心臓が、また跳ねた。


あの場所——


私たちが、初めて出会った場所。




第三章 思い出の場所


週末、私は約束の場所に向かった。


代々木公園。


ここは、七年以上前、私と春樹が初めて出会った場所だ。


当時、私は大学三年生で、春樹は大学院生だった。


公園で開催されていたフリーマーケットで、偶然隣のブースになった。


春樹は、自分が設計した建築模型を展示していて、私は古本を売っていた。


最初は、ただの隣人だった。


でも、一日中隣にいるうちに、自然と会話が生まれた。


「その本、面白いの?」


春樹が、私が読んでいた小説を指差して尋ねた。


「うん、すごく。建築のことも出てくるよ」


「へえ、タイトルは?」


それが、私たちの最初の会話だった。


そして、フリーマーケットが終わった後、私たちは一緒にコーヒーを飲みに行った。


話は尽きなかった。


建築のこと、本のこと、夢のこと。


気づけば、夜になっていた。


そして、私たちは恋に落ちた。


あれから、七年——


「美咲」


春樹の声で、私は現実に戻った。


彼は、同じベンチに座っていた。


あの日と、同じベンチ。


「久しぶり、この場所」


私は、ベンチに座った。


「うん。覚えてた?」


「当然。忘れるわけない」


春樹は、優しく微笑んだ。


「美咲、この七年間、何してた?」


「仕事、主に。あと、麻美と旅行したり」


「恋人は?」


その質問に、私は少し躊躇した。


「いない。春樹は?」


「俺も、いない」


お互い、少し驚いた表情を浮かべた。


「なんで?」


私が尋ねると、春樹は少し考えてから答えた。


「多分......君を忘れられなかったから」


心臓が、激しく鼓動した。


「春樹......」


「美咲、俺、ずっと後悔してた。あの時、別れるべきじゃなかった」


「でも、私たちは——」


「すれ違ってた。分かってる。でも、それは乗り越えられたはずだ」


春樹の言葉は、私の心を揺さぶった。


「もう一度、やり直せないかな」


春樹が、私の手を取った。


温かい。


七年ぶりに感じる、この温もり。


私は、涙が溢れそうになった。


でも、同時に、恐怖もあった。


「待って、春樹。私、怖いの」


「何が?」


「また、同じように別れることになるのが」


春樹は、私の手を強く握った。


「今度は、違う。俺たち、七年間成長した。同じ過ちは繰り返さない」


「でも......」


その時、背後から声がした。


「春樹!」


振り向くと、一人の女性が立っていた。


二十代半ば、綺麗な顔立ちの女性。


「あれ、春樹じゃない! こんなところで何してるの?」


女性は、親しげに春樹に話しかけた。


春樹は、少し困惑した表情を浮かべた。


「あ、ああ。久しぶり、沙織」


「紹介して」


女性——沙織——が、私を見た。


「こちらは、美咲。昔の......友人」


春樹の言葉に、私の胸が痛んだ。


友人?


そして、沙織が言った。


「私、春樹の婚約者なんです」




第四章 崩れる世界


時間が、止まったように感じた。


「婚約者......?」


私は、春樹を見た。


春樹は、青ざめた顔で沙織を見ていた。


「沙織、それは——」


「え? 違うの?」沙織が、不思議そうに首を傾げた。「だって、両親には婚約者として紹介されたけど」


春樹は、頭を抱えた。


「それは、誤解だ。俺は、まだそんなこと——」


「じゃあ、私は何なの?」


沙織の声が、少し怒気を帯びた。


私は、立ち上がった。


「ごめん、私、行くね」


「美咲、待って!」


春樹が、私の腕を掴んだ。


「説明させて。これは誤解なんだ」


「いいの。春樹には、春樹の人生がある」


私は、腕を振りほどいた。


「美咲!」


春樹の声を背に、私は公園を後にした。


涙が、止まらなかった。


何が誤解だって?


婚約者として紹介された女性がいるのに?


私は、馬鹿だった。


春樹が、七年間誰とも付き合っていないなんて、信じた自分が。


電車に乗り、家に帰った。


そして、ベッドに倒れ込んだ。


なぜ、こんなに苦しいのか。


七年も経ったのに、まだ春樹のことで苦しんでいる。


翌日、春樹から何度も電話とメッセージが来た。


でも、私は無視した。


会社でも、仕事に集中できなかった。


リカが、心配そうに声をかけてきた。


「美咲さん、大丈夫ですか? 元気ないですよ」


「ちょっと、疲れてるだけ」


「恋の悩み、続いてるんですか?」


私は、何も答えられなかった。


その夜、麻美が私の家を訪ねてきた。


「美咲、開けて。心配してるの」


私は、ドアを開けた。


麻美は、私の顔を見て、すぐに抱きしめてくれた。


「何があったの?」


私は、全てを話した。


春樹との再会、やり直そうという言葉、そして婚約者の登場。


麻美は、静かに聞いていた。


「それで、春樹は何て?」


「誤解だって。でも、信じられない」


「美咲、春樹の話、ちゃんと聞いた?」


「聞く必要ない。婚約者がいるなら、それで終わりよ」


麻美は、少し厳しい表情で言った。


「美咲、あなた、逃げてるだけじゃない?」


「え?」


「七年前も、そうだった。問題から逃げて、別れを選んだ」


麻美の言葉が、胸に刺さった。


「今回も、同じことしてる。春樹の説明を聞かずに、勝手に諦めてる」


「でも......」


「怖いのは分かる。また傷つくのが怖いんでしょ。でも、それじゃ何も変わらない」


麻美は、私の肩を掴んだ。


「美咲、本当は春樹とやり直したいんでしょ? なら、ちゃんと向き合いなさい」


私は、涙が溢れた。


「怖いの......また、同じように別れるのが......」


「その恐怖を乗り越えなきゃ、幸せにはなれないよ」


麻美の言葉に、私は深く頷いた。


そして、決意した。春樹と、ちゃんと話をしよう。




第五章 雨上がりの約束


翌日、私は春樹に連絡した。


『話したい。会える?』


返信は、すぐに来た。


『今すぐにでも。どこで?』


私たちは、最初に再会したカフェで会うことにした。


雨が降っていた。


また、あの日と同じように。


カフェに入ると、春樹がすでに待っていた。


「美咲......」


春樹が立ち上がった。


「座って」


私は、向かいの席に座った。


「説明させて」


春樹が、真剣な表情で言った。


「沙織は、俺の婚約者じゃない」


「でも、彼女は——」


「誤解なんだ。沙織は、俺の両親の知り合いの娘で、何度か食事に行ったことがある。でも、俺は彼女のことを恋愛対象として見たことは一度もない」


「じゃあ、なぜ婚約者だと?」


「両親が、勝手にそう思い込んでるんだ。俺と沙織が結婚すればいいって。でも、俺は断ってる」


春樹は、私の目をまっすぐ見た。


「美咲、俺が好きなのは、ずっと君だけだった」


私の心臓が、激しく鼓動した。


「でも、七年前、私たちは別れた。それは、お互いのためだったんじゃ......」


「違う」春樹は首を振った。「あれは、俺が臆病だったからだ」


「臆病?」


「美咲、俺、あの時怖かったんだ。君を幸せにできるか、自信がなくて。だから、別れを選んだ」


春樹の目に、涙が浮かんでいた。


「でも、この七年間、ずっと後悔してた。君と一緒にいる未来を、自分で壊してしまったって」


私も、涙が溢れた。


「私も......同じ。怖くて、逃げた。でも、ずっと後悔してた」


春樹が、私の手を取った。


「美咲、もう一度チャンスをくれないか。今度こそ、君を幸せにする」


「春樹......」


「俺、沙織のこと、両親にちゃんと説明する。そして、君のことを紹介したい」


私は、春樹の手を握り返した。


「私も、怖い。でも、もう逃げたくない」


春樹が、微笑んだ。


「じゃあ、もう一度、一緒に歩いていこう」


「うん」


私たちは、抱き合った。


七年ぶりの、温もり。


そして、雨が止んだ。


窓の外を見ると、虹が出ていた。


「見て、虹」


私が指差すと、春樹も窓の外を見た。


「綺麗だね」


「うん」


私たちは、手を繋いだまま、カフェを出た。


雨上がりの街は、清々しい空気に包まれていた。


「ねえ、美咲」


「何?」


「今度の週末、デートしない?」


「どこ行くの?」


「代々木公園。あの場所で、もう一度始めよう」


私は、微笑んだ。


「いいよ」


私たちは、新しい物語を歩み始めた。




エピローグ


それから一年が経った。


春樹と私は、順調に交際を続けていた。


もちろん、全てが完璧だったわけではない。


時には喧嘩もしたし、すれ違いもあった。


でも、今度は違った。


問題から逃げずに、ちゃんと向き合った。


お互いの気持ちを、言葉にした。


そして、理解し合うことを学んだ。


ある日、春樹が私をあの場所——代々木公園——に連れて行った。


「何? また思い出に浸りたいの?」


私が冗談めかして言うと、春樹は真剣な表情で答えた。


「いや、今日は特別な日だから」


「特別?」


春樹は、ベンチの前で膝をついた。


「え......まさか......」


春樹が、小さな箱を取り出した。


「桜井美咲、俺と結婚してくれないか」


箱の中には、シンプルで美しい指輪が輝いていた。


私の目から、涙が溢れた。


「春樹......」


「君と出会って、十年以上が経った。別れて、七年が経った。そして、もう一度一緒になって、一年が経った」


春樹の目にも、涙が浮かんでいた。


「俺、これからもずっと、君と一緒にいたい。君を幸せにしたい」


私は、頷いた。


「うん。私も、春樹と一緒にいたい」


春樹が、指輪を私の指にはめてくれた。


そして、私たちは抱き合った。


周りにいた人々が、拍手をしてくれた。


「おめでとう!」


知らない人たちが、祝福の言葉をかけてくれた。


「ありがとうございます」


私は、涙と笑顔で答えた。


春樹が、私の耳元で囁いた。


「美咲、愛してる」


「私も、愛してる」


空を見上げると、晴れ渡っていた。


もう、雨は降っていない。


これからは、ずっと晴れの日が続く——


そんな気がした。


雨上がりの約束は、こうして叶った。

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