第3話 訣別
朝、名前を呼ばれて、返事ができなかった。
「……玲奈?」
同僚の声だった。
すぐ近くで、確かに私を呼んでいる。
でも、それは私の名前、だったっけ……?
そう、これは、私の名前。
声を出そうとして、
どんな音を出せばいいのか、一瞬、分からなくなる。
「……あ、ごめん。聞こえてなかった。」
少し遅れて、ようやく言葉が出た。
自分の声が、少し高く聞こえる。
「大丈夫?」
同僚は不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
私は曖昧に笑って、デスクに向き直る。
胸の奥が、じんと冷たい。
――今、私は
名前を呼ばれても、すぐに“私”に戻れなかった。
午前中の仕事は、ほとんど覚えていない。
キーボードを叩く指の感触だけが残っている。
昼休み、同僚がコーヒーを片手に近づいてきた。
「ねえ」
軽い調子で、けれど少しだけ探るように。
「昨日さ。
公園で、なんで一人で話してたの?」
一瞬、世界が止まった。
「……え?」
「たまたま通ったんだよ。
花壇の前で立ち止まって、誰かと話してるみたいだった」
喉の奥が、ひゅっと縮む。
「誰かいたの?
誰かの名前、呼んでた気がする」
私は、何も言えなかった。
否定の言葉も、説明の言葉も浮かばない。
昨日の光景が、頭の中で再生される。
確かに、そこには彼がいた。
銀色の髪で、赤い瞳で、穏やかな声で。
――でも。どんな表情してたっけ。どんな顔、してたんだっけ。
「……疲れてたのかも」
やっと、それだけ言った。
「そっか」
同僚は深く追及しなかった。
それが、余計に怖かった。
誰も、彼を見ていなかった。
私だけが、
“誰かと話していた”。
その日の帰り道、私は自然に足を公園へ向けていた。
夜の公園は静かだった。
街灯の下、花壇の土は昼よりも黒く見える。
銀色は、確かにそこにあった。
会った瞬間、私は安心してしまった。
彼の顔は、はっきりと分かった。
昨日と同じ輪郭。
昨日と同じ、静かな表情。
昨日見た顔と同じだと、確信できる。
だから余計に、怖かった。
「……今日も、来たんだな。」
彼はそう言った。
名前は呼ばない。
私は頷いた。
もう、「違います」と言う気力はなかった。
「違います」と言えなかった。違うのか、わからなかった。
「前にも、君と話したな」
彼は、庭――いや、違う、庭じゃない。ここはただの公園ーー公園を見渡す。
「生まれ変わったら、何になりたい?」
胸の奥が、静かに軋む。
私は答えを知っている。
でも、それは“私の答え”だ。
「……なんだろう」
少し間を置いて、私は言った。
「私は、もう一回、人間でいいかなって思う」
言い切った瞬間、
彼の中で何かが終わったのが分かった。
一瞬だけ、彼の表情が揺れた。
それが何だったのかは、分からない。
――君は、ベルタじゃないんだな。
そう言っているように見えた。
彼は、ただ小さく息を吐いた。
「……そうか」
言ったのは、それだけだった。
私は、一歩、後ろに下がる。
今度は、立ち止まらなかった。
翌日から、彼は現れなくなった。
公園の前を通っても、
銀色の髪は見えない。
歌も、聞こえない。
顔も思い出せない。
同僚に名前を呼ばれれば、
今度はすぐに返事ができる。
私は、私に戻っていた。
夜、ベッドに横になり、目を閉じる。
もう、歌は聞こえない。
喉も、熱くならない。
それでも、ときどき思う。
あの顔を、
私は思い出せるだろうか。
きっと、思い出せない。
それでいい。
私は、何もわからないまま朝を迎える。
それで、いい。
とある国。
銀色の髪を風に揺らし、
男は墓石の前に立っている。
墓地を管理する老人に頭を下げると老人は
「恋人に会う決心がついたんだな。」
とだけ返した。
花を供え、
一度だけ名前を呼ぶ。
「ベルタ」
深く息を吸って、吐く。
「もう、探さない」
少しだけ間を置いて、
彼は墓石に向かって、静かに言った。
「……いつか君の元へ会いに行くまで、
待っていてくれるか。」
返事はない。
それでいい。
風が吹き、
花が揺れる。
鳥の影が空を横切る。
彼は、それを見上げず、
背を向けて歩き出した。
恋人を追い求めた男はもう、そこにはいなかった。
彼岸に咲いた花 綴葉紀 琉奈 @TuduhagiLuna
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