第2話 侵食
翌朝、目が覚めたとき、夢を見ていた気がした。
内容は思い出せない。
ただ、胸の奥に、かすかな余韻だけが残っている。
言葉にならない音――歌の切れ端みたいなもの。
カーテンの隙間から差し込む光はいつも通りで、目覚ましも鳴らなかった。
私はベッドの上でしばらく天井を見つめてから、ゆっくり起き上がる。
洗面台に立ち、歯ブラシを口に入れて泡立てる。
鏡の中の顔は、昨日と変わらない。
――本当に?
そんな考えが浮かんで、自分で自分を叱った。
疲れているだけだ。名前を間違えられただけで、ここまで引きずる方がおかしい。
駅へ向かう道は何事もなく過ぎた。
人の声、車の音、コンビニの自動ドアが開く音。いつも通りの朝。
銀色の髪は、見えなかった。
それに、少しだけ安堵している自分に気づいて、胸の奥がざわついた。
会わなくてよかった、と思うのは自然だ。
なのに、「今日は来なかったのか」と確認してしまったのも事実だった。
会社でも、昼休みでも、私は笑った。
同僚の話に相槌を打ち、くだらないことで一緒に笑う。
自分の声が、少し遠くに聞こえた。
――こんな声だっただろうか。
違和感は小さく、だからこそ気味が悪い。
私はスマホで天気予報を見て、ごまかすように頷いた。雨が降りそうだというだけの画面。
*
夕方、会社を出ると、空が低かった。
雨の匂いがする。濡れる前に帰ろうと決めた――はずだった。
気づいたら、帰り道を外れていた。
大通りの明るさが少しずつ遠のいて、街灯の間隔が広くなる。
夜の入口みたいな道。
公園の前で足が止まった。
ここを通る理由なんて、普段はない。
近道でもないし、用事もない。
それなのに、私は当然のようにここにいる。
――どうして?
考える前に、視界の端に人影があった。
木々の影の向こう。花壇のそば。
男が立っている。
銀色の髪。
赤い瞳。
それだけで、分かってしまった。
「ベルタ」
呼ばれた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
私の名前じゃないのに、反射で背筋が伸びる。
「……違います」
返事は、少し遅れた。
男の顔は、はっきりと見えていた。
整った輪郭、静かな表情。
美しい、と素直に思ってしまう顔。
なのに、どこか現実味が薄い。
写真に撮ったら、
きっと写らない。
そんな確信だけがあった。
男は、公園の奥を見渡すように視線を動かした。
「……静かだ」
独り言みたいに言う。
次いで、花壇に目を落とす。
今は緑が多く、花はほとんど咲いていない。
それでも、湿った土の匂いが濃かった。
「夜になると、花の匂いが強くなる」
私は息を呑んだ。
この公園で、そんなことを考えたことはない。
なのに、言われた瞬間、鼻の奥がむずがゆくなる。
確かに、懐かしい匂いがした。
男は、ぽつりと続ける。
「……君の好きだった、私の庭は、いつもそうだった」
庭。
その言葉だけが、夜の空気に浮いた。
ここは公園だ。庭じゃない。
そう思うのに、訂正の言葉が出てこない。
「……ここは、公園です」
やっと言う。
男は、ゆっくり瞬きをした。
「そうか」
否定もしない。
訂正もしない。
まるで、
“今はそう見えている”
と言いたげな沈黙だった。
私は一歩、後ろに下がった。
彼は、近づかなかった。
距離は変わらないのに、
私だけが、こちら側へ戻ろうとしている気がした。
男は、ふっと息を吐く。
それから唐突に――歌い始めた。
小さな声。
低く澄んだ旋律が、夜の公園に溶けていく。
言葉は分からない。
日本語じゃない。
それでも、意味だけが胸に触れる。
綺麗だ、と思った。
思ってしまったことが、怖かった。
歌が終わると、男は何事もなかったように口を閉じた。
「……その歌」
気づいたら、私の方が先に言っていた。
男は、わずかに微笑む。
「君は、これが好きだった」
胸の奥が、ひくりと痛んだ。
記憶はない。
でも、否定できない。
「……私は、玲奈です」
言い直す。
男は頷いた。
「そうか」
それだけだった。
私は、その場を離れた。
背後に足音はない。追ってこない。
角を曲がってから、
私は無意識に立ち止まった。
――さっきの人。
顔を、思い出そうとする。
できなかった。
銀色の髪と、赤い瞳。
それ以外が、どうしても浮かばない。
さっきまで、確かに見ていたはずなのに。
背中に、冷たいものが走る。
家に帰ると、靴を脱いだまま立ち尽くした。
耳の奥に、歌が残っている。
口ずさめるほどではない。
でも、消えない。
洗面台の前に立ち、鏡を見る。
見慣れた顔。
それでも、どこか輪郭が不安定に見えた。
「……玲奈」
声に出す。
ちゃんと出た。
それなのに、胸の奥がざわつく。
玲奈って誰だっけ。玲奈は私。あれ。本当?
ベルタ、私は、ベルタ。違う違う。私はベルタじゃない。
私は…………だれ?
ベッドに入って灯りを消す。
闇の中で目を閉じると、あの旋律が、また耳の奥で鳴った。
口は動かしていない。
息も乱れていない。
それでも、喉の奥が、ほんの少しだけ熱い。
――歌った覚えは、ない。
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