第2話 侵食

翌朝、目が覚めたとき、夢を見ていた気がした。


 内容は思い出せない。

 ただ、胸の奥に、かすかな余韻だけが残っている。

 言葉にならない音――歌の切れ端みたいなもの。


 カーテンの隙間から差し込む光はいつも通りで、目覚ましも鳴らなかった。

 私はベッドの上でしばらく天井を見つめてから、ゆっくり起き上がる。


 洗面台に立ち、歯ブラシを口に入れて泡立てる。

 鏡の中の顔は、昨日と変わらない。


 ――本当に?


 そんな考えが浮かんで、自分で自分を叱った。

 疲れているだけだ。名前を間違えられただけで、ここまで引きずる方がおかしい。


 駅へ向かう道は何事もなく過ぎた。

 人の声、車の音、コンビニの自動ドアが開く音。いつも通りの朝。


 銀色の髪は、見えなかった。


 それに、少しだけ安堵している自分に気づいて、胸の奥がざわついた。

 会わなくてよかった、と思うのは自然だ。

 なのに、「今日は来なかったのか」と確認してしまったのも事実だった。


 会社でも、昼休みでも、私は笑った。

 同僚の話に相槌を打ち、くだらないことで一緒に笑う。


 自分の声が、少し遠くに聞こえた。


 ――こんな声だっただろうか。


 違和感は小さく、だからこそ気味が悪い。

 私はスマホで天気予報を見て、ごまかすように頷いた。雨が降りそうだというだけの画面。



 夕方、会社を出ると、空が低かった。

 雨の匂いがする。濡れる前に帰ろうと決めた――はずだった。


 気づいたら、帰り道を外れていた。


 大通りの明るさが少しずつ遠のいて、街灯の間隔が広くなる。

 夜の入口みたいな道。


 公園の前で足が止まった。


 ここを通る理由なんて、普段はない。

 近道でもないし、用事もない。

 それなのに、私は当然のようにここにいる。


 ――どうして?


 考える前に、視界の端に人影があった。


 木々の影の向こう。花壇のそば。

 男が立っている。


 銀色の髪。

 赤い瞳。


 それだけで、分かってしまった。


「ベルタ」


 呼ばれた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。

 私の名前じゃないのに、反射で背筋が伸びる。


「……違います」


 返事は、少し遅れた。


 男の顔は、はっきりと見えていた。

 整った輪郭、静かな表情。

 美しい、と素直に思ってしまう顔。


 なのに、どこか現実味が薄い。


 写真に撮ったら、

 きっと写らない。

 そんな確信だけがあった。


 男は、公園の奥を見渡すように視線を動かした。


「……静かだ」


 独り言みたいに言う。


 次いで、花壇に目を落とす。

 今は緑が多く、花はほとんど咲いていない。

 それでも、湿った土の匂いが濃かった。


「夜になると、花の匂いが強くなる」


 私は息を呑んだ。


 この公園で、そんなことを考えたことはない。

 なのに、言われた瞬間、鼻の奥がむずがゆくなる。

 確かに、懐かしい匂いがした。


 男は、ぽつりと続ける。


「……君の好きだった、私の庭は、いつもそうだった」


 庭。


 その言葉だけが、夜の空気に浮いた。

 ここは公園だ。庭じゃない。

 そう思うのに、訂正の言葉が出てこない。


「……ここは、公園です」


 やっと言う。


 男は、ゆっくり瞬きをした。


「そうか」


 否定もしない。

 訂正もしない。


 まるで、

 “今はそう見えている”

 と言いたげな沈黙だった。


 私は一歩、後ろに下がった。

 彼は、近づかなかった。


 距離は変わらないのに、

 私だけが、こちら側へ戻ろうとしている気がした。


 男は、ふっと息を吐く。

 それから唐突に――歌い始めた。


 小さな声。

 低く澄んだ旋律が、夜の公園に溶けていく。


 言葉は分からない。

 日本語じゃない。

 それでも、意味だけが胸に触れる。


 綺麗だ、と思った。


 思ってしまったことが、怖かった。


 歌が終わると、男は何事もなかったように口を閉じた。


「……その歌」


 気づいたら、私の方が先に言っていた。


 男は、わずかに微笑む。


「君は、これが好きだった」


 胸の奥が、ひくりと痛んだ。


 記憶はない。

 でも、否定できない。


「……私は、玲奈です」


 言い直す。


 男は頷いた。


「そうか」


 それだけだった。


 私は、その場を離れた。

 背後に足音はない。追ってこない。


 角を曲がってから、

 私は無意識に立ち止まった。


 ――さっきの人。


 顔を、思い出そうとする。


 できなかった。


 銀色の髪と、赤い瞳。

 それ以外が、どうしても浮かばない。


 さっきまで、確かに見ていたはずなのに。


 背中に、冷たいものが走る。


 家に帰ると、靴を脱いだまま立ち尽くした。


 耳の奥に、歌が残っている。

 口ずさめるほどではない。

 でも、消えない。


 洗面台の前に立ち、鏡を見る。


 見慣れた顔。

 それでも、どこか輪郭が不安定に見えた。


「……玲奈」


 声に出す。

 ちゃんと出た。


 それなのに、胸の奥がざわつく。


 玲奈って誰だっけ。玲奈は私。あれ。本当?

 ベルタ、私は、ベルタ。違う違う。私はベルタじゃない。

 私は…………だれ?


 ベッドに入って灯りを消す。

 

 闇の中で目を閉じると、あの旋律が、また耳の奥で鳴った。


 口は動かしていない。

 息も乱れていない。


 それでも、喉の奥が、ほんの少しだけ熱い。


 ――歌った覚えは、ない。

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