彼岸に咲いた花
綴葉紀 琉奈
第1話 邂逅
夕方の駅前は、いつもと同じ匂いがした。
揚げ物の甘い油と、排気ガスと、湿ったコンクリート。人の声が層になって、聞こえているようで何も聞こえない。
改札を抜けて、横断歩道の前で足を止めたときだった。
「……ベルタ?」
耳のすぐ後ろから、柔らかい声がした。
知らない名前だった。
振り返るより先に、背筋がひくりと動く。呼ばれた、と感じたのは確かだったのに、私の名前はそんな響きじゃない。
振り返る。
人混みの中で、そこだけ空気が違って見えた。
腰まである銀色の髪。
夕方の光を跳ね返して、ありえないほど静かに揺れている。綺麗に編まれて、暗い色のリボンで束ねられていた。
顔立ちは整いすぎて、見慣れた街の風景に馴染まない。視線を合わせたくないのに、勝手に目が吸い寄せられる。
――瞳が、赤い。
錯覚だと思った。そう思いたかった。
でも赤は、夕焼けの反射には見えなかった。
男は、まるで間違いに気づいていないみたいに、少しだけ笑った。
「ベルタ。……ああ、ベルタ。二度と会えないと思ってた」
距離はある。腕一本分以上、きっちり空いている。
声も荒くないし、近づこうともしていない。
それなのに、逃げたくなる。理由が分からないまま。
「違います」
私は言った。思ったより声が小さかった。
男は一瞬だけまばたきをして、それから視線を落とす。
「……そうか」
謝罪の形だけが綺麗に整う。
「すまない」
それで終わりだった。
男は、するりと人波に紛れていった。銀色の髪が一瞬、標識の陰に消えて、次の瞬間にはもう見つけられなくなる。
横断歩道の信号が青に変わる。
私は遅れて歩き出した。
――妙だ。
恐ろしかったはずなのに、怖さの正体が掴めない。
声をかけられただけ。触られてもいない。追われてもいない。
なのに、名前が耳に残る。
ベルタ。
ベルタ。
帰宅しても、靴を脱いでも、冷蔵庫を開けても、その響きだけが、薄い紙片みたいに指先にまとわりついて離れなかった。
それから三日後、コンビニの前でまた会った。
いや、会ったというより――気づいたら、視界にいた。
レジを出て、袋を持ち替えたとき、入口のガラスに反射して銀色が見えた。
とっさに目を逸らすべきだったのに、私は振り返ってしまった。
男は、コンビニの看板の下に立っていた。
夜の蛍光灯が肌を冷たく見せる。あの赤い瞳が、今度ははっきり赤かった。光の加減ではない。
男の表情は穏やかだった。穏やかすぎて、逆に怖い。
「ベルタ」
まるで挨拶みたいに言う。
「……違います」
また、同じ言葉。
私が言うたびに、同じやり取りをする。なのに男は、困ったように眉を寄せるだけで、何も訂正しない。
「そうか」
それだけ言って、男は一歩も近づかない。
その距離が、妙に気持ち悪い。
追い詰められている感じがしないから、逃げる理由が自分の中に作れない。
私は袋を握り直した。
「どうして……ベルタって呼ぶんですか。」
一拍置いて告げる。
「私は、玲奈です。」
言ってから、驚いた。
聞くつもりなんてなかった。
ましてや名前を告げるつもりなんて全くなかった。
関わってはいけないと、どこかで思っていたのに。
男は、少しだけ目を細めた。
「ベルタは、ベルタだろう?」
答えになっていない。
でも語気に迷いがない。疑いがない。
「……君は、私の顔を忘れたのか」
その言い方が、胸の奥をざらりと擦った。
忘れた? 何を? 私は何かを知らないまま、忘れてしまったの?
「違うって言ってるでしょう」
少し強く言う。
男は頷いた。
「そうか、分かった」
分かっていない声だった。
私はコンビニの明かりから離れる。歩き出す。
背後で足音はついてこない。振り返って確かめる必要もない。ついてこないことが、分かる。
なのに。
角を曲がったところで、私は一度だけ立ち止まった。
理由はない。袋が重かったからでも、スマホが鳴ったからでもない。
ただ――立ち止まった。
次の瞬間、自分で自分が気味悪くなって、慌てて歩き出した。
それから、何度も見かけた。
駅のホーム。
横断歩道。
会社帰りの商店街。
雨のバス停。
いつも銀色の髪が、どこかで揺れている。
いつも赤い瞳が、こちらを見る。
いつも同じ距離で、同じ声で言う。
「ベルタ、ああ、ベルタ。二度と会えないと思ってた」
私はその度に、同じ返事をする。
「違います」
なのに、ある日ふと思った。
――毎回、言っているのに。
どうしてこの人は、私のことを私の名前で呼ばないのだろう。
考えた瞬間、背筋が冷たくなった。
違う。
おかしいのは、男じゃない。
私の中に「私の名前」が出てこない。
思い出せないわけじゃない。
分かっている。もちろん分かっている。
でも――言葉が、喉の奥にひっかかる。わざわざ口にして相手に渡すほどの確かさが、どこかに落ちている気がした。
その夜、洗面台の鏡を見て、私は眉を寄せた。
私の顔は、私の顔だ。
見慣れている。いつも通りだ。
なのに、ほんの一瞬だけ、知らない顔が混ざった気がした。
誰かの記憶が、こちらを向いているみたいな。
息を吸う。
胸の奥が、少しだけざわつく。
私は鏡に向かって、声に出してみようとした。
自分の名前を。
――舌が動く前に、スマホが震えた。
通知。
どうでもいい動画のおすすめ。
それなのに私は救われたみたいにそれを開いてしまう。
画面の光が目に刺さる。
画面からは昔見ていたYouTuberの声が流れる。
あれ?本当に昔見ていたんだっけ……。
その間に、耳の奥で、あの声がもう一度だけ響いた気がした。
「ベルタ」
違う。
違うのに。
私は、反射的に、小さく返事をしてしまった。
「……はい」
返事をしたことに気づいたのは、返事が部屋の空気に溶けたあとだった。
心臓が、一拍遅れて強く打つ。
私は口元を押さえた。
誰にでもなく、誰かに見られたくないみたいに。
ベルタ。
その名前が、今夜は少しだけ近かった。
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