第3話 結末

海は、相変わらず静かだった。


 波が船体を叩く音だけが、昼と夜の境目を教えてくれる。

 陸にいた頃のような、時間を区切る合図は何もない。


 俺たちは、小さな船で暮らしていた。


 漁港に置き去りにされていた古い船で、

 床板は軋み、錆びた匂いが染みついている。


 足りないものは、時々陸へ戻って買った。

 人の少ない時間帯を選び、必要最低限だけ。


 それ以上、長くは滞在しない。


 誰かに見られる気がするだけで、胸の奥がざわついた。


 彼女の咳は、完全には止まらなかった。


 血を吐くことは減ったが、

 夜になると、胸を押さえて背を丸める。


 俺も同じだった。


 深く息を吸うと、肺の奥がひくりと痛む。

 それでも、陸で感じていた恐怖よりは、ずっとましだった。


 日が昇り、日が沈む。


 同じような一日が、何日も続いた。


 彼女は、時々、髪を整えた。

 船の上では意味のない仕草なのに。


 それを見るたび、

 この生活が「仮のもの」なのだと思い知らされる。


 慣れ始めた頃だった。


 霧の濃い朝、船のすぐそばに、人影が立っていた。


 女が一人、赤子を抱いている。


 足元には、無数のハエが群がっていた。

 羽音が、湿った空気の中で不快に響く。


 彼女の呼吸が、目に見えて乱れた。


「……あ」


 声にならない声。


 彼女は、無意識に一歩、後ずさる。


 女は、その様子を見て、はっきりと眉をひそめた。


「……お前か」


 低く、粘つく声。


 女の視線が、彼女の腕に向けられる。


「この子を、落としたな」


 その言葉と同時に、記憶が引きずり出される。


 ――霧の日。

 突然、背後から声をかけられて。

 驚いて、腕から力が抜けた。


 赤子は、思ったよりも重く、

 思ったよりも簡単に、腕から滑り落ちた。


 落ちるまでの一瞬が、異様に長い。


 掴み直そうと伸ばした手は、空を掴む。

 鈍い音。


 赤子が、地面に転がった。


 泣き声が上がった。


 鋭く、短く、胸を裂くような声。


 彼女は、その場に座り込み、

 何度も「ごめんなさい」と繰り返した。


 抱き上げる勇気も、

 もう一度触れる勇気も、なかった。


 ――だから、覚えている。


 あの泣き声を。

 母の、歪んだ顔を。


「違……あのときは……」


 彼女の声は、震えていた。


「泣いた」


 女は、遮るように言った。


「この子は、あのとき、泣いた」


 赤子は、今は泣いていない。

 それでも、その言葉だけで、彼女の顔から血の気が引いた。


 女は、赤子を差し出した。


「もう一度、抱け」


 彼女は、震えながら手を伸ばす。


 指先が、赤子に触れた、その瞬間。


「――やめろ」


 鋭い声が、霧を裂いた。


 女は、赤子を引き寄せる。


「お前には、抱く資格がない」


 憎しみが、はっきりと宿った視線。


「お前の腕では、また落ちる」


 彼女は、その場に崩れ落ちた。


 声も出ず、ただ首を振る。


 女の視線が、ゆっくりと俺に移る。


 値踏みするような沈黙。


「……お前だ」


 低く、凄む声。


「落とすな」


 言葉が、刃のように突き刺さる。


「二度目は、ない」


 俺は、一歩前に出た。


「俺が抱きます」


 赤子を受け取る。


 ずしりと、重かった。


 生きているはずなのに、体温がない。

 腕の中で、異様な存在感だけがある。


 落とすな。


 その言葉だけが、頭の中で反響する。


 けれど、不思議と、恐怖はなかった。


 ただ、この子は――

 誰かに、きちんと抱かれたかったのだと、分かった。


 次の瞬間。


 風が止んだ。


 ハエが、一斉に消えた。


 女の姿が、輪郭から崩れていく。


 遅れて、赤子が泣いた。


 短く、切ない声。


 腕の中で、赤子は光の粒になり、

 静かに溶けていった。


 女は、最後に一度だけ、

 泣くような顔をした。


 それから、何も残らなかった。


 胸の奥で、何かがほどける。


 息を吸う。


 痛みが、ない。


 彼女が、咳をしなかった。


 血も、出なかった。


 しばらく、二人とも動けなかった。


 それから、陸へ戻った。


 逃げたことを責める声はあった。

 それでも、殺されることはなかった。


 病は、いつの間にか「収束した」ことになっていた。


 原因は不明。

 対処は適切だったと、誰かが言った。


 船を返しに来たのは、それから数日が経った昼過ぎだった。


 書類を書いて、鍵を渡して、それで終わりのはずだった。


「……少し、いいですか」


 背後から声をかけられ、振り返る。


 女が立っていた。


 年を取っているようにも、そうでないようにも見えない。

 ただ、ひどく疲れた目をしていた。


「あなたが……あのときの」


 俺は、否定しなかった。


 女は、しばらく言葉を探すように俯き、それから、ぽつりと言った。


「ごめんなさい」


 それだけだった。


「私は、抱いてほしかっただけなのです」

「失ったものを、もう一度だけ」


 言い訳のようで、言い訳ではない声。


「本当は……もっと穏やかなやり方があった」

「でも、私は待てなかった。あの子が死んで。

それを悔いた私の旦那は後を追って死にました。

私は一度でいいからあの人に子どもを抱かせてあげたかった。それだけなのです。」


 女は、こちらを見なかった。


「だけど、許されないことをどうしても叶えたくて、叶えようとしたからあんな形になった」

「血を吐く人が出て、殺されかけて……」


 震える指先が、何度も組み直される。


「全部、私のせいです」


 許しを求める言葉は、なかった。


 俺も、何も言わなかった。


 何を言っても、違う気がした。


 女は、深く頭を下げると、それ以上何も言わずに去っていった。


 俺は、しばらくその場に立っていた。


 船は、もう俺のものではなかった。



 彼女は、元の職場には戻らなかった。

 俺も、仕事を変えた。


 街で顔を合わせることは、ほとんどない。


 たまに、駅のホームで見かける。


 視線が合えば、軽く会釈をする。


 それだけだ。


 彼女は、また人に囲まれている。

 俺は、少し離れた場所から、それを見る。


 高嶺の花だ。


 そう思って、息をついた。


 今日も、世界は何事もなかったように回っている。

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高嶺の花 綴葉紀 琉奈 @TuduhagiLuna

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