第2話 隔離
救急車のサイレンは、思ったよりも遠くで鳴っていた。
フロアには、人だけがいなかった。
倒れた椅子。
床に散った書類。
赤黒く乾き始めた血の跡。
さっきまで、あれほど人がいたとは思えない。
彼女は担架に乗せられ、白い布で口元を覆われて運ばれていった。
俺は、少し離れた場所に立ったまま、それを見送るしかなかった。
名前を呼ぶ勇気は、なかった。
救急隊員が、俺の手袋を見た。
「……触れましたね」
静かな声だった。
否定しようとして、できなかった。
指先に、まだ血の感触が残っている気がする。
「念のため、検査を受けてください」
それは、忠告というより、確認だった。
その日、俺は会社を早退させられた。
誰も、彼女の容体を教えてくれなかった。
翌日。
会社に行くと、彼女の席は空になっていた。
机は拭かれ、私物はすでに片づけられている。
まるで、最初から誰もいなかったように。
代わりに、空気だけが残っていた。
人は、俺を見ると一瞬だけ言葉を止める。
それから、何事もなかったように会話を再開する。
咳をした。
それだけで、視線が集まり、すぐに逸らされる。
昼休み、俺の席の周りには誰も来なかった。
弁当の蓋を開ける音が、やけに大きく響く。
噂は、すぐに形を持った。
血を吐く病が流行っているらしい。
感染するらしい。
原因は分からないらしい。
そして――隔離されるらしい。
その日の夕方、喉の奥がひくりと痛んだ。
息を吸うと、胸の内側が焼けるように重い。
嫌な予感が、はっきりと輪郭を持つ。
数日後、社内に通達が出た。
――感染の疑いがある者は、指定施設へ移送する。
文面は丁寧だった。
人を守るための措置だと、そう書いてあった。
けれど、どこにも「治療」という言葉はなかった。
街の外れで、白い車列を見たのは、その翌日だった。
窓のない車。
中が見えないよう、分厚いカーテンが引かれている。
周囲には、武装した人間が立っていた。
隔離施設へ向かう車だ、と誰かが囁いた。
俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
見なければいい。
知らなければ、まだ戻れる。
そう思ったのに、足は動いていた。
咳を抑えながら、車列の後を追う。
少し離れた高台から、施設が見えた。
高い塀。
有刺鉄線。
監視塔。
人を治す場所には、どう見ても見えなかった。
しばらくして、銃声が聞こえた。
一発。
それから、何発も。
短く、乾いた音。
車から降ろされた人影が、次々と倒れる。
その瞬間、胃の奥がひっくり返った。
隔離じゃない。
これは、処分だ。
息を吸おうとして、咳き込んだ。
血の味が、口の中に広がる。
――捕まったら、殺される。
その夜、俺は彼女に連絡を取った。
返事が来るまで、やけに時間が長く感じた。
「……生きてる?」
しばらくして、短い返事が返ってきた。
「なんとか」
それだけで、喉が詰まった。
人気のない場所で、距離を保って会った。
彼女は、ひどく痩せていた。
咳は止まらず、唇に血の気がない。
それでも、俺を見ると、かすかに笑った。
「逃げなきゃ」
彼女が、先に言った。
「ここにいたら、殺される」
俺は、頷くしかなかった。
感染を広げないためにも。
捕まらないためにも。
陸にいる限り、居場所はない。
「……海に出よう」
そう言ったのは、俺だった。
彼女は少し驚いた顔をして、それから、ゆっくり頷いた。
それが、残された唯一の選択だった。
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