高嶺の花
綴葉紀 琉奈
第1話 血の咳
彼女は、同じフロアにいるのに遠い人だった。
名前も、部署も知っている。
出社時間も、だいたい分かる。
エレベーターの扉が開く音と、ヒールが床を叩く音。
それが聞こえると、フロアの空気が一瞬だけ整う。
「おはようございます」
少し遅れて、彼女の声が重なる。
それだけで、誰かが顔を上げ、誰かが笑う。
仕事ができて、誰に対しても感じがいい。
昼休みになると、自然と人が集まる。
高嶺の花、という言葉があるなら、たぶんこういう人を指すのだと思う。
俺はいつも、少し離れた席からその様子を見ていた。
声をかける理由はいくらでもある。
業務の確認、資料の受け渡し、雑談の一つや二つ。
それでも結局、画面を見ているふりをして、何も言わないまま一日が終わる。
彼女が仕事をしている姿は、無駄がなかった。
書類を受け取るとき、指先を揃える癖。
電話を切ったあと、ほんの一瞬だけ息を整える仕草。
忙しいはずなのに、焦りを表に出さない。
だからこそ、余計に遠く感じた。
その日も、最初はいつもと同じだった。
会議の途中で、彼女は小さく咳をした。
喉を鳴らす程度の、短い咳。
誰も気に留めない。
彼女自身もすぐに口元を押さえ、何事もなかったように資料へ視線を戻した。
昼休み。
フロアはいつもより騒がしかった。
笑い声、椅子を引く音、紙コップの中で氷が鳴る。
彼女の周りにも、いつものように人が集まっている。
そのとき、また咳をした。
今度は少し長い。
ハンカチを口に当てて抑える。
すぐに畳んでしまったが、白い布の端が赤く染まっているのを、俺だけが見た。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
そして、昼休みの終わり際。
誰かが冗談めかして彼女の肩を叩いた、その瞬間だった。
彼女が、大きく咳き込んだ。
赤黒いものが床に散る。
一拍遅れて、それが血だと分かる。
彼女は、口元を押さえたまま、もう一度吐いた。
ごぽり、と湿った音。
「……え?」
誰かの声。
次の瞬間、悲鳴が上がった。
「いやっ!」
さっきまで隣にいた女が後ずさり、椅子にぶつかって逃げた。
「無理無理無理無理!」「近づくな!」
人の輪が、音を立てて崩れる。
椅子が倒れ、書類が散り、出口へ走る足音が重なる。
彼女は何か言おうとして、また血を吐いた。
そのまま、膝から崩れ落ちる。
「……だれか……」
返事はなかった。
俺は、動けなかった。
怖かった。
近づいたら、何かが終わる気がした。
――それでも。
このままじゃ、死ぬ。
気づいたときには、走り出していた。
床に手をついた瞬間、温かい血が指に絡む。
背後で、誰かが息を呑んだ。
「……触った」
その一言で、空気が完全に変わった。
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