第2章 孤独と、歌

「ねえ……」


膝を抱えるように座り、枝の上の苔を指先で確かめる。湿り気を含んだ苔は、思ったよりも温かい。世界樹が生きている証のようだった。


「あなたたち……いつからここにいるの?」


精霊たちは一斉に静まった。光が消えたのではなく、芯が深くなった。


――世界樹が芽吹いたときから。

――世界が名を持つ前から。


「……そんなに、長く?」


――長い。

――でも、あなたがいない時間は、もっと長かった。


胸の奥が、わずかに痛んだ。

世界樹も精霊もあるのに、自分だけが存在していなかった時間。その当然の事実が、なぜかひどく寂しかった。


「……わたし、遅かったの?」


金色の精霊が、額の前まで近づく。


――遅くない。

――必要なときに、目覚めた。

――あなたは、世界樹が選んだ。


選んだ。


救いのようでいて、同時に逃げ場のない言葉だった。

セラは目を伏せる。まつ毛の影が、膝の上に落ちた。


「……必要って、なに?」


精霊は答えなかった。

答えられないのか、まだ答えるべきではないのか。

代わりに、小さな緑の精霊がきゅるりと光り、セラの指先の上に止まった。


――お腹、すいてる?


あまりにも幼い問いに、セラは思わず笑った。

笑うと胸が少しだけ痛い。それでも、久しぶりに感情をつかんだような気がした。


「……うん。少し」


次の瞬間、精霊たちが一斉に散った。

光が枝の先へ流れ、葉陰へ潜り、世界樹の表面へ溶けていく。


やがて、甘い匂いが漂った。


花に似た香り。

蜂蜜のようで、熟した果実のようで。


目の前に、小さな果実が浮かび上がる。

透明な雫の中に閉じ込められた、金色の実。光を受け、内側から淡く輝いていた。


「……これ、食べられるの?」


――世界樹の恵み。

――精霊が、あなたのために集めた。


恐る恐る手に取ると、指先がじんわりと温かくなる。

迷っていると、精霊が「大丈夫」と言うように揺れた。


セラは、小さく齧った。


甘い。

ただの甘さではない。身体の隅々まで澄んでいくような、やわらかな甘さだった。


胸の奥が、わずかに温まる。

涙が滲みそうになったのは、空腹が満たされたからではなかった。


「……おいしい」


精霊たちは誇らしげに光った。


食べ終えると、胸の奥の空洞がほんの少しだけ小さくなった気がした。

息が、軽い。


――次は、教える。


金色の精霊が告げる。


――精霊魔法。

――あなたの力の使い方。

――そして、この世界の理。


セラは自然と背筋を伸ばしていた。教わる、という言葉に、身体だけが先に反応したようだった。


「……お願い。教えて」


精霊たちが輪を作る。

セラを中心に、世界が一度、静かに閉じたような感覚。


――まず、呼びなさい。


金色の精霊が言う。


――精霊は、“呼ばれて”応える。

――あなたの意志が、鍵。


「呼ぶ……?」


――“お願い”ではない。

――“命令”でもない。

――“招く”こと。


その意味は、言葉よりも感覚で理解できた。

扉を開け、手のひらを差し出すような感覚。


セラは目を閉じる。

自分の呼吸が、世界樹の呼吸と重なる場所。

歌を歌ったときに触れた、内側の水面。


そこに、そっと言葉を置く。


「……来て」


たったそれだけだった。


空気が、一瞬だけ冷えた。


光が集まり、セラの掌へと流れ込む。

やがて、小さな火が生まれた。


燃えているのに、熱くない。

透明な光の炎。


セラは目を見開いた。


「……え……」


――それが、精霊魔法の最初。


精霊の声には、誇らしさがあった。


――火の精霊が応えた。

――あなたが招いたから。


掌の中の光には、確かな意思があった。

小さな命が「ここにいる」と伝えてくる。


「……すごい……」


――次は、しまう。


金色の精霊が言う。


――精霊は、出し入れできる。

――あなたの力は、流れ。

――無理に押さえつけず、戻す。


セラは掌を開き、心の中で“ありがとう”と囁いた。

光はふわりとほどけ、空気へと溶ける。


消えたのではない。

戻ったのだ。


その感覚が、妙に寂しかった。


「……寂しい」


ぽつりとこぼすと、精霊たちはやさしく揺れた。


――慣れる。

――あなたは、たくさん招ける。

――たくさん返せる。


たくさん。


その言葉は、胸をわずかに軽くした。

ひとりではない。

応えてくれる存在がいる。


それは、孤独に慣れきった心にとって、あまりにも甘い救いだった。それからの日々は、ゆっくりと積み重なっていった。


__________


世界樹の上の時間は、地上とは違う。

朝と夜の境目は木漏れ日の角度でしか分からず、雲の影が枝を撫でるときに、ようやく時間が動く。雨が降れば、世界樹全体が深く呼吸した。


セラは精霊たちに教わりながら、世界樹の上で暮らし始めた。


まず、歩き方。

枝は広いが、苔が滑る場所もある。足を取られそうになるたび、風の精霊がそっと支え、葉の精霊が足元を柔らかくしてくれた。


次に、水。

幹の割れ目から滲む“光の水”は、触れると冷たいのに甘い。飲めば喉が潤い、身体の奥が澄んでいく。


次に、眠り。

夜になると精霊たちは光を弱め、枝の上に薄い膜のような結界を張った。風が肌を刺さないように。雨に濡れないように。鳥のような影が近づかないように。


セラは苔の上に横たわり、星を見た。


世界樹の上の星は、地上より近い。手を伸ばせば届きそうで、どれだけ伸ばしても届かない。


精霊たちは、眠る間も傍にいた。光は弱くても消えない。呼吸に合わせるように、揺れ続ける。


それが――優しかった。

優しすぎて、怖かった。


いつかこの優しさに慣れてしまったら。

失ったとき、耐えられなくなるのではないか。


その恐れを、セラは誰にも言えなかった。



季節が巡った。


世界樹の上にも季節は来る。葉の色が微妙に変わり、風の匂いが変わり、空の高さが変わる。雨粒が冷たくなる日もあれば、陽がやわらかくなる日もある。


春。夏。秋。冬。

精霊が教えてくれた言葉は、口にするとどれも美しい音だった。知らないはずなのに、懐かしい。


セラはよく歌うようになった。


毎日ではない。

胸の空洞が大きくなりそうなとき、自然に声が出た。


歌は精霊を呼ぶ。

歌は世界樹を揺らす。

歌は、セラ自身を繋ぎ止める。


歌いながら、ふと考える。


――私は、ここでどれほど生きるのだろう。


寿命が定まっていない。終わりが分からない。

終わりがないかもしれない――ということは、いつか慣れてしまうということだ。孤独にも、優しさにも。


それが怖かった。

だから歌った。歌っている間だけは、慣れる前の痛みに戻れる気がした。胸が痛いまま、綺麗なまま息ができる。


ある日、セラは精霊に尋ねた。


「ねえ。世界樹の外には、何があるの?」


精霊たちは静まった。

答えに重みがあるときの静けさだった。


――森がある。

――国がある。

――海がある。

――空がある。


「人はいる?」


――いる。


胸の奥が小さく跳ねた。

言葉を持ち、名を持ち、関係を結ぶ存在が――そこにいる。


「……会える?」


精霊たちは小さく、悲しげに揺れた。


――会えない。

――あなたは世界樹から離れられない。


分かっていたのに、言葉になった瞬間、胸が痛んだ。切り離された事実が形を持って突き刺さる。


セラは口を閉じた。精霊たちも黙った。

風が葉を揺らす音だけが、空白を満たした。


笑おうとした。大丈夫だと、自分に言い聞かせた。

ここには精霊がいる。世界樹がいる。孤独ではない。


けれど――人がいると知った瞬間から、孤独は別の形になった。


孤独は、知らないから耐えられる。

知ってしまえば、欲しくなる。


知らなかった世界を、想像してしまう。


枝の上から遥か下の森を見下ろしながら、セラは思った。


――私は、誰かと話したいのかもしれない。


精霊たちは心に言葉を落としてくれる。けれどそれは、精霊の言葉だ。美しいのに、人の温度がない。


そのことに気づいてしまった自分が、怖かった。


______


夜が深いある日、セラはひとりで歌っていた。


精霊たちは周りに集まり、静かに揺れている。星の光が羽の形を思い出させるようにきらめき、幹の内側の光が淡く脈打つ。


セラの歌は、いつもより少し低かった。

悲しみが混ざっていたからだ。


歌いながら、背中が熱くなる。


羽の感覚。


途切れさせないまま、意識だけを背へ向ける。

羽が、出たがっている。光を受けたがっている。風を切りたがっている。


――飛べる?


思いが浮かんだ。


飛べたら、地上へ行けるだろうか。


その瞬間、精霊たちが強く揺れた。“だめ”と告げるように。


金色の精霊が静かに言う。


――飛べても、行けない。

――世界樹は、あなたを離さない。

――それは、守りでもある。


守り。

世界樹はセラを守っている。外へ触れて壊れてしまわないように。


そう思うと救われる。

けれど同時に、鎖だとも思った。


歌を終え、セラは膝を抱えた。

精霊たちの光が近づき、肩に触れ、髪を撫でる。


――セラ。

――あなたの歌は、届く。

――外へも。


「……届くの?」


精霊は頷くように揺れた。


――世界樹は、世界の中心。

――あなたの歌は、風に乗る。

――だから、いつか。


いつか。


その言葉が、胸の奥で小さな灯になった。誰かが歌を聞く。誰かがここへ来る。

たった一筋でも可能性があるなら。


セラは目を閉じ、その灯を抱いた。


そして、また歌った。

今度は呼びかけるように。


――ここにいる。

――私はここにいる。

――もし、聞こえるなら。


歌が夜の森へ落ちていく。葉を抜け、霧を抜け、遠い地上へ。


その夜、風が少しだけ変わった気がした。


ほんのわずかに、知らない匂いが混じる。木の匂いでもない。精霊の匂いでもない。


胸の奥がざわついた。

精霊たちもまた、同じ方向を見つめている。


――来る。


金色の精霊が、震えるように言った。


――歌に、惹かれて。

――世界樹の結界を越えられる者が。


セラは息を止めた。


結界を越えられる者。

悪意のない者。

そして――この世界で、セラ以外の“誰か”。


怖い。嬉しい。信じられない。逃げたい。見たい。

相反するものが胸の中で絡まり合う。


夜の空の向こうで、何かが光った。

星とは違う光が、近づいてくる。


風が鳴り、枝がわずかに揺れた。


セラは立ち上がり、葉の隙間から空を見上げた。


暗闇の中、白い影が滑るように降りてくる。


大きい。

空を裂くように静かで、圧倒的だった。


心臓が強く打つ。


――白い。


精霊が囁く。


――白き竜。


その名を聞いた瞬間、世界が一拍遅れた。葉擦れも、風も、遠い森の音も。すべてが静まる。


白い影は月光を受け、雪の刃のように輝いた。


セラは息を呑み、動けないまま見つめた。


世界樹の夜に、初めて“他者”が降り立とうとしていた。


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2026年1月15日 19:00
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白き竜が遺した、たったひとつの愛 ランナウェイ @waon25

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