第1章

世界樹を守る。

その言葉は、すでに失う可能性を含んでいる。


壊されるものがあるから、守らなければならない。

世界樹は、こんなにも大きく、静かで、永遠に見えるのに。


「……世界樹は、危ないの?」


セラの問いに、精霊たちは一斉に静まった。光が弱まったわけではない。ただ、芯が深くなった。熱が内側へ沈むような静けさ。


――危ない。

――だから、あなたがいる。

――あなたが目覚めた。


自分の知らないところで、何かが動いている。

その流れの中に、セラはすでに組み込まれている。


抗えない流れに、手を取られたような感覚。


「……わたしに、できるの……?」


――できる。

――あなたは、精霊たちを束ねる存在。

――あなたが呼べば、精霊は応える。

――あなたが歌えば、世界樹は息をする。


歌。


胸の奥が、わずかに震えた。

空洞だった場所に、音が反響するような感覚。

歌という言葉が、記憶の縁をかすめている気がした。


セラは喉に手を当てる。

声がある。息がある。

なら、歌えるはずだ。


けれど――


「……でも、わたし、何も知らない。魔法も、世界のことも……」


――だから、私たちがいる。


精霊たちの光が、一斉に明るく瞬いた。

「任せて」と言われているようだった。


――セラ。

――怖がらなくていい。

――あなたは一人ではない。


その言葉は、胸の奥に静かに沈んだ。

怖さは消えなかった。けれど、肩の力が、わずかに抜けた。


気がつくと、周囲の風がやわらいでいた。

止んだのではない。

セラの周囲だけ、空気が編まれるように穏やかになっている。


「……あなたたちは、ずっとここにいたの?」


――ずっと。

――世界樹と共に。

――あなたを待っていた。


待っていた。


その言葉が、胸の奥を強く揺らした。

覚えはないのに、なぜか分かる。

待たれていたことだけは、涙が出そうになるほど確かだった。


セラは目を伏せた。

光がまつ毛の先でやわらかく滲む。眩しいのに、痛くない。


「……わたし、ここで生きるの?」


――そう。

――世界樹を守り、精霊と共に生きる。

――あなたは、世界樹から離れられない。


離れられない。


優しい言葉の中に、ひとつだけ鋭い刃が混じっていた。

世界樹から離れられない――それは、この世界から離れているということでもある。


森の下に、もし人がいたとしても。

町や国が、どこかにあったとしても。

セラはそこへ行けない。


その事実が、今になって重さを持って迫ってきた。


「……ずっと……ここに?」


――長い時間。

――あなたの寿命は定まっていない。

――だから、世界樹を守れる。


定まっていない。


救いなのか、呪いなのか。

セラにはまだ分からなかった。

ただ「長い時間」という言葉の重さだけが、胸に残った。


精霊たちは、沈みゆくセラの気配を感じ取ったのだろう。

光が揺れ、額の近くをそっと撫でるように通り過ぎる。


――セラ。

――あなたの羽を、見せて。


「……羽……?」


背中の奥、肩甲骨の内側が、かすかに熱を帯びる。

普段は閉じた扉が、今は確かにそこにある。


――あなたの証。

――あなたの力の入口。


セラは目を閉じ、背中に意識を向けた。


風の匂い。

葉の音。

精霊の光。


それらが内側へ、静かに溶け込んでくる。


背中が、ひらく。


痛みはない。ただ、冷たい水に触れたときのような透明な感触が広がった。


次の瞬間。


セラの背に、蝶のような羽が生えた。


薄く、透き通り、ガラスのように光を映す羽。

差し込む光を受けて、表面に虹色の筋が走る。

角度を変えるたび、色が生まれては消える。


息を、忘れるほどだった。


恐ろしいのに、どこか懐かしい。

ずっと探していたものを、ようやく見つけたような感覚。


精霊たちが歓声のように瞬いた。


――きれい。

――セラの羽。

――世界樹の光を映す羽。


セラは肩越しに、そっと羽を見る。

羽は彼女の感情に応じて、かすかに揺れていた。


怖いときは小さく震え、

安心すると、ゆるやかに伸びる。


「……これが……わたし……?」


遠くで、世界樹の光がひときわ強く明滅した気がした。

まるで、喜んでいるように。


セラは、ゆっくりと羽を引っ込めた。

霧のように薄れ、背中へ溶ける。


消えた途端、不安が胸をかすめる。


すぐに精霊が応える。


――出せる。

――あなたの意志で。

――私たちが、教える。


教える。


セラは小さく頷いた。

何も分からない。何も覚えていない。

それでも、ひとりではない。


精霊たちがいる。

世界樹がある。


ふと、気づく。


高く、孤独で、静かな場所なのに。

なぜか、この場所を嫌いではないことに。


怖いのに、胸が落ち着いている。

まるで、帰るべき場所に戻ってきたように。


「……わたし、覚えていない。前のこと、何も……」


言葉にした瞬間、喪失の形が胸に押し寄せた。

過去がない。始まりがない。

自分という存在の輪郭が、ひどく曖昧だった。


けれど、精霊は優しかった。


――忘れていてもいい。

――あなたは、今ここにいる。

――それが、すべての始まり。


始まり。


セラは空を見上げた。

雲が流れ、光が揺れ、風が髪を撫でる。


世界が、彼女を拒んでいない。


「……ねえ」


自分でも驚くほど、かすかな笑みがこぼれた。


「わたし、歌ってもいい?」


精霊たちは、一斉に輝いた。


――歌って。

――セラの歌は、世界樹の息。

――あなたの歌は、私たちの灯。


セラは胸に手を当て、息を吸う。

空気は澄み、肺の奥まで冷たい。

けれど、その中に、甘い匂いが混じっている。


まだ知らないはずの歌が、胸の奥で形を持つ。

言葉より先に、旋律が満ちてくる。


そして、セラは歌った。


細い声だった。

それでも、葉が震え、風がやわらぎ、幹の奥の光が脈打つ。

精霊たちは喜びに舞う。


歌うほどに、胸の空洞が、わずかずつ埋まっていく。


――ここにいる。


記憶がなくても。

過去がなくても。

彼女は確かに、ここにいる。


歌が終わると、精霊たちは輪をつくり、静かに光った。

誓いの輪のようだった。


中心の金色の精霊が、最後に告げる。


――セラ。

――あなたの物語は、ここから始まる。

――世界樹を守るための、長い時間が。


長い時間。


まだ怖い。

けれど、セラはもう逃げなかった。


分からないなら、知ればいい。

できるか分からないなら、教わればいい。

ひとりではないのだから。


セラは世界樹の幹にそっと手を当てた。

冷たいはずの木肌の奥に、確かな温もりがある。


「……守るよ」


呟くと、世界樹の内側の光が、一度だけ強く瞬いた。


その瞬間、背中の奥で、羽の感覚がふわりと震えた。

まるで、言葉を覚えたみたいに。


精霊たちの光の中で、セラは初めて、未来を思った。


まだ誰も知らない未来。

けれど確かに、誰かへ続いていく未来。


――この歌が、いつか誰かを呼ぶ日が来る。


その予感だけが、胸の奥で、静かに灯っていた。

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