白き竜が遺した、たったひとつの愛
ランナウェイ
第1章 世界樹の上で目覚めた少女
目を開けた瞬間、空が近すぎて、息の仕方を忘れた。
雲の裏側のように淡い青が、指先ほどの距離で揺れている。視界の端では、陽の光が葉の縁を白く燃やし、きらきらと細かな破片のように散っていた。
――高い。
声にはならなかった。ただ、肌で分かる。風は薄く、匂いは澄みきっていて、世界が遠い。
セラは、仰向けのまま目だけを動かした。
自分が横たわっているのは、枝だった。人間が腕を伸ばしても抱えきれないほど太い、苔と木肌が混ざった巨大な枝。その上に、まるで最初からそうすることが決まっていたかのように、彼女の身体は静かに置かれていた。
衣服も、髪も乱れていない。
眠っていただけだと言い聞かせたいのに、最後に眠った場所も、眠った理由も、何ひとつ思い出せなかった。
頭の奥に、空洞があるような感覚がした。記憶という部屋の扉を探しても、鍵穴が見つからない。そもそも扉があるのかすら、曖昧だった。
「……ここは、どこ……?」
ようやく声が出た。思ったよりも幼く、透き通った声だった。風に溶けて、葉の間をすり抜け、そのまま下へ落ちていくような気がした。
起き上がろうとして、セラは息を止めた。
枝の向こうに、幹がある。
――いや、これは幹という言葉では足りなかった。
山だった。大地そのものだった。
樹皮は岩のように硬く、影は深い。ところどころに走る割れ目から、淡い光が脈のように滲み出ている。樹の内側に流れる命が、呼吸するように明滅していた。
世界樹。
その言葉が、教えられた覚えもないのに胸の奥から浮かび上がった。知っているはずなのに、どこか他人事のようで、同時に、恐ろしいほど空っぽだった。
セラは枝の縁へそろりと近づき、下を覗いた。
眩暈がした。
地上は遥か遠い。森の上に森が重なり、木々のてっぺんが緑の海のように揺れている。ところどころに漂う白い霧が、光を含んで淡く発光していた。
人影はない。家もない。道もない。
あるのは、風と葉の音だけだった。
セラは胸の前で両手を握りしめた。指先は白く、小さい。それでも確かに温度はあるのに、自分が本当にここに存在しているのか、どこか曖昧だった。
どうすればいいのか分からない。
降りる? この高さから?
助けを呼ぶ? 誰に?
そもそも、自分は何者なのか。
考えようとするほど、胸の内側が冷えていった。
そのときだった。
視界の端で、ひとつ、小さな光が弾けた。
蛍火のように淡い。けれど蛍より澄んでいて、心臓の鼓動に似たリズムでふわりと浮かび上がる。光は葉陰を縫い、セラの周囲をくるくると舞った。
次いで、もうひとつ。
さらに、もうひとつ。
瞬く間に、十も二十も、細かな光が現れ、セラを取り囲む。銀に近い白、若葉の緑、夜明けの青、夕焼けの金。どれも強くはない。それでも見ているだけで、胸の奥がわずかに温かくなる。
セラは思わず息を呑んだ。
「……きれい……」
光が、嬉しそうに揺れた。
言葉ではない。けれど確かに、返事だった。セラの声に応じて、光の粒がぱちぱちと弾む。頬の近くをかすめたとき、花の蜜のような匂いがした。
「……あなたたちは……?」
問いかけると、光たちはわずかに距離を取り、輪をつくった。そして、その中心に、一際明るい光が現れる。
ほかより大きく、芯のある淡い金色。昼の陽だまりを小さく丸めたような、やわらかな温もりを帯びていた。
その光が、セラの前でふっと瞬く。
――ようこそ。
声ではなかった。耳ではなく、胸の奥に直接落ちてくる音だった。
驚くほど自然で、セラは涙が出そうになった。長い間ひとりでいた者が、初めて名を呼ばれたときのように。
「……いま、しゃべった……?」
――しゃべっているのは、あなたの中の水面。
――私たちは、精霊。
精霊。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。知らないはずなのに、どこかで知っている。怖いはずなのに、なぜか安心が先に来る。
「精霊……じゃあ、ここは……」
――世界樹の上。
――世界の中心。
――そして、あなたの場所。
あなたの場所。
セラは小さく首を振った。否定したかったわけではない。ただ、理解が追いつかなかった。
「……わたしは……だれ? どうしてここに……」
精霊たちの光が、いっせいに柔らかく揺れた。慰めるように、守るように。
中心の金色の精霊が、ほんの少しだけ近づく。
――あなたは、セラ。
――この世界でただ一人の、精霊人。
精霊人。
その言葉を口の中で転がす。音は甘く、同時に背筋を冷やした。唯一。たった一人。取り替えがきかない。
「……精霊人って……」
――精霊の声が届く者。
――精霊の力を扱う者。
――この世界で、あなたしかいない。
無意識に、セラは胸元を押さえていた。心臓が速い。怖い。けれどどこかで――ずっと昔から決まっていたことを、今さら受け取っているような感覚があった。
「……どうして、わたしだけ……?」
光の群れがふわりと集まり、肩や髪に触れる。触れた部分が、やさしく温かい。風がやわらぎ、葉の音が、子守唄のように響いた。
――あなたは、世界樹を守るために生まれた。
その言葉に、セラは言葉を失った。
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