第十四話 溢れるほどの

それは、霖が委員会で少しだけ遅れて図書室にやってきた日のことだった。

いつもなら尋が一人で静かに待っているはずのカウンターに、見慣れない男子生徒の背中があった。

「――へえ、河井さん、この時代の幻想文学も詳しいんだ。これ、図書室の在庫にないと思ってたから嬉しいよ」

「あ、はい…。その、目立たない棚の奥に一冊だけあったんです。三上くんも、こういうの、好きなんですか?」

尋の声が、いつもより少しだけ弾んでいる。

相手は、物静かで眼鏡をかけた、いかにも「本好き」といった雰囲気の少年・三上だった。二人の間には、同じ趣味を持つ者同士にしか分からない、穏やかで知的な空気が流れている。

図書室の入り口で、霖の足が止まった。

胸の奥を、ドロリとした熱い何かがかき乱す。

(何よ、あれ。私の知らない顔で笑っちゃって、気に入らないわね。尋は私のためにここにいるのに…)


「あら、河井さん。お客様?」

霖は、自分でも驚くほど冷たく、けれど完璧に「高嶺霖」としての笑みを張り付けて、二人の間に割り込んだ。

「あ、高嶺さん。こちらは一組の三上くんで今『ドグラ・マグラ』という本の話をしてて……」

「へえ。三上くん、だっけ? 悪いけど、河井さん、これから私と『大事な大事な用』があるの。推薦入試の資料整理。ね、河井さん?」

霖の瞳は、笑っていなかった。

三上は、高嶺霖という学校一のヒロインの放つ、刺すような威圧感に気圧され、「あ、うん。わかった、じゃあ河井さん、また今度これ返しに来るよ」と早口で告げ、逃げるように去っていった。

図書室に静寂が戻る。けれど、それはいつもの心地よい沈黙ではなかった。


「霖、さん?」

「………………」

霖は無言のまま、三上が座っていた椅子を乱暴に引き、そこにどっかりと座り込んだ。

「何よ、さっきの。楽しそうだったわね。幻想文学? 何それ、私には伝わんない話題で盛り上がって1人だけ置いてけぼりにするつもり?」

「え、いえ、そんなんじゃ……。ただ、三上くんも本が好きみたいで--「『三上くん』なんて呼ばないで! 怖気がするわ!」

霖は机を叩き、身を乗り出して尋のネクタイをぐいっと引き寄せた。至近距離。霖の瞳は、嫉妬と独占欲で、獣のようにぎらついていた。

「いい、尋。あんたのその『滅多に見せない笑顔』も、引くほど広い本の知識も、全部私が買い取ったのよ。他の奴に、かけらだって見せないで。一秒だって分けないで」

「霖……苦しい、です……」

「苦しめばいいわよ! 私はもっと苦しいんだから! あんたが、私の知らない世界の誰かと、楽しそうにしてるのを見るだけで…胸が、張り裂けそうなのよ」

霖の声が、最後には微かに震えていた。

完璧なヒロインが、醜い嫉妬に身を焦がして、なりふり構わず尋に縋り付いている。

尋は、驚きながらも、そっと霖の震える背中に手を回した。

「すみません。……でも、三上くんと話してても、私は霖と話してる時みたいに、鼓動が早くなって、心臓が痛くなったりはしませんでしたよ」

「……………嘘よ」

「本当です。私は、霖にしか、こんなに振り回されたいとは思いません」

尋の言葉に、霖は真っ赤になって顔を伏せ、尋の肩に額を押し当てた。

「バカ尋。……明日、あいつが来ても、絶対に入り口で追い返してよね。……図書委員の特権、使いなさいよ」

「それは職権乱用ですよ…」

嫉妬に狂ったヒロインは、そのまま尋の首筋に、小さな、けれど消えないくらいの力で「しるし」を刻みつけるように、顔を埋め続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る