第十一話 尋の番

「ほら、もう一回。もっとはっきり」

図書室の奥、書架の影。

霖は棚に背を預け、目の前で真っ赤になっている尋を、楽しそうに覗き込んでいた。

「む、無理ですよ。さっきから何回言わせるんですか……」

「ダメ。今のは声が小さすぎて、本の神様にしか聞こえてないわ。ちゃんと私を見て、名前で呼びなさいよ。それまで今日の新刊、貸してあげないから」

霖は意地悪そうに、尋がずっと楽しみにしていた分厚いハードカバーを、ひらひらと頭上で振ってみせた。

尋は拳をぎゅっと握り、眼鏡を何度も押し上げる。

「り、霖……さん」

「『さん』はいらないって言ったでしょ」

「……霖」

蚊の鳴くような声だったけれど、確実に静寂を震わせた。

霖は一瞬だけ、勝ち誇ったように笑った。けれど次の瞬間、彼女の白い頬が、尋の顔色を追い越すくらいの勢いで、林檎のように染まっていく。

「ふん、まあ、合格よ。……はい、これ」

霖は乱暴に本を尋の胸に押し付け、ぷいっと顔を逸らした。

「あんた、意外と心臓強いわね。あんな真顔で人の名前呼ぶなんて」

「高嶺さんが言わせたんでしょう?」

尋は、胸に抱えた本の重みを感じながら、少しだけ反撃に出ることにした。

いつも翻弄されてばかりじゃ、この関係は対等じゃない。週末、彼女の部屋で「弱点」を知ったからこそ、尋の中には少しだけ、いたずら心が芽生えていた。

「霖。霖、こっち見てください」

「っ……! ちょっと、連呼しないでよ! 死ぬ、私が死ぬから!」

霖は耳まで真っ赤にして、逃げるようにソファへ向かった。

教室での「高嶺さん」なら、どんな称賛も涼しい顔で受け流すだろう。けれど、この図書室で「霖」と呼ばれることには、彼女自身の耐性が全く追いついていないようだった。

「……ふふっ」

「何よ、今笑ったでしょ。あんた、絶対性格変わったわよね。あーあ、あのおどおどしてた可愛い河井さんはどこに行ったのかしら」

霖は不満げにクッションに顔を埋めた。けれど、その指先は、尋が貸してあげた栞を、大切そうに、愛おしそうになぞっている。

「……尋」

クッションに埋もれたまま、高嶺が小さく呼んだ。

今度は、尋の心臓が大きく跳ねる番だった。

「私、あんたに名前を呼ばれるの、思ってた一万倍くらい心地いいわ」

顔を隠したまま、霖の消え入りそうな本音が漏れ出す。

図書室の空気は、これまで共有してきた「秘密」よりも、もっと甘くて、もっと壊れやすい何かに満たされようとしていた。


「ねえ。今度は、あんたの番」

図書室の窓から差し込む光が、少しずつ冬の気配を帯びてきた放課後。

霖は開いていた本をパタンと閉じ、尋の顔をじっと覗き込んだ。

「え? 番って、何のですか?」

「決まってるじゃない。私の家には来たんだから、次はあんたの部屋。私、尋がどんな環境であの性格に育ったのか、調査する義務があると思うの」

「ちょ、調査って。私の部屋なんて、本当に何もないですよ。霖さんの部屋みたいに立派な本棚も、美味しいパスタ(の材料)もないですし」

尋が冗談めかして言うと、霖は「うっ……」と呻きながらも、引く気配は見せなかった。

「いいのよ。あんたがいつも読んでる本の匂いが染み付いた部屋なら、それで。それとも何? 私を入れられないような、ヤバい秘密でもあるわけ?」

結局、霖の「強気なヒロイン」モードに押し切られる形で、週末、尋の家へ招くことになった。


当日。尋の家の前で待っていた霖は、学校の時とは違う、落ち着いたネイビーのコートに身を包んでいた。

「いらっしゃい、霖」

「お邪魔するわ。……ふーん、意外と普通ね。もっとこう、蜘蛛の巣とか張ってるかと思った」

失礼なことを言いながら、霖は尋の案内で二階の自室へ上がる。

六畳間の、こぢんまりとした部屋。けれど、そこには尋という人間を形作る全てが詰まっていた。

「わあ…」

霖が声を上げたのは、部屋の隅にある、古びた木製の机だった。

そこには、図書室の貸出カードの束や、何冊もの使い込まれたノート、そして小さなサボテンが並んでいる。

「これ、全部読書記録?」

「あ、見ないで! それは、その、ただの感想というか……」

尋が慌てて隠そうとするが、霖はその手をすり抜けて、一冊のノートを手に取った。

そこには、緻密な文字で物語の考察が書き連ねられていた。

「……すご。あんた、こんな風に物語を食べて生きてたんだ」

霖の瞳が、熱を帯びる。

「ねえ、これ。貸して。じゃなくて、今ここで、私に読んで聞かせなさいよ。尋が何を感じてたのか、全部知りたい」


尋は、自分のベッドの端に座った霖の隣で、恥ずかしさに耐えながらノートを開いた。

自分の内面を曝け出すのは、服を脱ぐよりも勇気がいる。けれど、隣にいる霖の真剣な横顔を見ていると、不思議と「この人なら、見せてもいい」と思えた。

「『この主人公は、沈黙の中に言葉を探している』……か。尋らしいわね」

霖が、尋の肩に自分の肩を預けてくる。

狭い部屋。霖の部屋のような開放感はないけれど、その分、二人の距離は物理的にも精神的にも、逃げ場がないほど近かった。

「……霖」

「なあに、尋」

「私…霖が来てくれて、嬉しいです。この部屋、自分以外誰も入れたことなかったから」

尋の独り言のような呟きに、霖は一瞬動きを止めた。

それから、少しだけ乱暴に尋の頭を自分の肩に乗せ、反対の手で尋のノートの端をぎゅっと握った。

「当たり前でしょ。あんたの『初めて』は、全部私がもらうんだから。図書室でも、家でもね」

西日が差し込む狭い六畳間。

二人は、どちらからともなく重なり合うようにして、一冊のノートを読み耽った。

そこにはもう、クラスのヒエラルキーも、完璧な仮面も存在しなかった。


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