第十話 優越感と名前呼び
一時間ほど経っただろうか。
窓の外はすっかり日が落ち、部屋の明かりだけが二人を照らしている。
尋は集中して文字を追っていたが、背中に伝わる重みが、少しずつ増していることに気づいた。
「……高嶺さん?」
返事はない。
代わりに聞こえてきたのは、小さく規則正しい寝息だった。
どうやら、お腹がいっぱいになったのと、一番安心できる場所で「本性」を出し切ったせいで、寝落ちしてしまったらしい。
高嶺の頭が、尋の肩にこてんと乗っかる。
眼鏡が少しズレて、無防備に開いた唇。教室で見せる隙のない「高嶺霖」は、そこにはどこにもいなかった。
(私、ズルいなぁ…)
尋はそっと、自分の肩に預けられたその重みを感じていた。
教室の他の誰も知らない、自分だけが知っている彼女の弱さ。自分だけが知っている彼女の料理の下手さ。そして、自分だけが許されている、この距離。
「おやすみなさい。霖さん」
初めて、名前で呼んでみた。
小さな、誰にも聞こえない声。
けれどその瞬間、尋の心の中にあった「壁」が、音を立てて崩れていくのが分かった。
月曜日の朝。
教室の重い扉を開けた瞬間、尋はいつもの「窒息しそうな空気」に全身を包まれた。
けれど、今日だけは少し違った。ポケットの奥で、週末に高嶺の部屋で拾った「本に挟まっていた付箋」をそっと握りしめる。
「おはよー、霖ちゃん! ね、週末何してたの? LINE送ったのに既読つかないんだもん!」
「あはは、ごめん! ずっと寝てたかもー」
教室の中心。完璧な笑顔で取り巻きに囲まれる高嶺。
尋は伏せ目がちに自分の席へ向かう。その途中、高嶺の横を通り過ぎる瞬間だった。
(あ…)
高嶺が、話の合間にふっと鼻を鳴らした。
そして、誰にも見えない速さで、自分の肩を指先でトントンと二回叩く。
『肩、貸してくれてありがと』
言葉にしなくても伝わってくる、確かな合図。
尋の頬が、カッと熱くなった。高嶺はそのまま何事もなかったように「ねえ、それでさー!」と女子たちの輪に戻っていく。
チャイムが鳴り響く。
尋は逃げるように図書室へ駆け込み、カウンターの奥で一人、大きく息を吐いた。
落ち着き始めた数分後。ガラガラと扉が開く、乱暴な音。
「死んだ。マジで死んだわ」
入ってくるなり、高嶺は鞄を床に放り投げ、いつものソファに倒れ込んだ。
「霖ちゃん霖ちゃんって……あいつら私のこと何だと思ってんの。打てば響くおもちゃか何か?」
「お疲れ様です、高嶺さん」
尋が苦笑いしながら歩み寄ると、高嶺はソファから顔だけをひょこっと覗かせた。
「ねえ、河井さん」
「はい」
「あんたさ、土曜日の帰り際。……なんて言った?」
心臓が、跳ねた。
寝ていたはずだ。絶対に、聞こえていなかったはずなのに。
「え、えっと……おやすみなさい、とか……?」
「そのあと。私のこと、なんて呼んだの?」
高嶺はソファに座り直し、じりじりと尋を追い詰めるように身を乗り出してくる。その瞳は、教室で見せる慈愛に満ちたものではなく、獲物を見つけた猫のような、意地悪で楽しげな光を宿していた。
「さあ、何のことでしょう」
「とぼけないでよ。私の耳、あんたが思ってる以上に地獄耳なんだから。『霖さん』、でしょ?」
尋は真っ赤になって俯いた。眼鏡の奥が熱い。恥ずかしさが目から溢れそうになる。
そんな尋の反応を見て、高嶺は満足そうに口角を上げた。
「いいわよ。許可してあげる」
「え……?」
「この図書室の中だけで、『霖』って呼ぶこと。その代わり」
高嶺は尋の制服のネクタイを指先で軽く引っ張り、耳元で低く、けれど柔らかな声で囁いた。
「私も、あんたのこと『尋』って呼ぶから。……分かった?」
夕暮れの図書室。
静寂を切り裂くのは、もう怯えた心臓の音だけじゃない。
二人の間に生まれた、甘く、鋭い共犯者の熱だった。
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