第1章 君はいま嬉しそうに景色を 3結

 神戸青祈こうべあおいはひとりでメイル北部の国境の岨に立ちはだかる城壁を見に来ていた。


 レヴェデーレの物理的な城壁。


 アルテミシアが示してきた作戦によると、これを超えなければならない青祈の役割は重要だった。


 周囲に人はおらず、レヴェデーレが制圧されたとは思えないほどの異様な静けさに、青祈は気味の悪さを感じて身震いした。


 東雲、白んだ空に朝焼けがみえたら作戦決行の合図である。青祈は森の茂みに隠れて周囲の様子を伺っている。


 アルテミシアが言うには、城壁に扉はひとつもなく、高いところに小さな窓がいくつかあるだけなのだそうだ。たしかに、扉らしきものは関所であるはずの接合部にもなく、正方形のこじんまりとした穴がぽつぽつと空いているのが見えるだけである。


 この城壁を超える、とはつまり上からではなく下からなのだ。


 作戦会議の場で、体力に自信はありますか?とアルテミシアは青祈に問うた。メイルとレヴェデーレの接合部に施された魔術刻印は、フェンリルやペガサスなどの幻想種を象っており複雑な形を成している。その彫刻の凹凸を足がかりにして地下から潜り込めというのだ。


 青祈は近くの立派な木の幹にロープをきつく巻き付け、自分の腹にも巻き付けた。魔術の使えない青祈は足を滑らせたらあとは真っ逆さまに落ちるしか道がないので、命綱は必須である。


 靴がすっぽ抜けないように靴紐もきつく結び直して、朝日の到来を待った。


 ほどなくして東の空に茜色の光が差す。作戦決行のときである。


 青祈はできるだけ足音をたてないように岨へ近づき、そこに腰掛けてみた。びりり、と足の裏から全身へ緊張が走る。無意識に生唾を飲み、体の向きを変えて足場を探した。


 幻想種の彫刻はかなり複雑で、青祈は足場に困ることなく順調にロッククライミングできた。しかし国土は空中をゆっくり動いている上に高度があるので、激しい風に打たれ、何度も体勢を崩してしまう。おそらくアリアの魔術の効果で寒さや風は本来よりも和らいでいるが、それでも高い空の上は過酷だ。


 しばらくして環境に慣れてきて、ふと眼下の美しい景色を眺める余裕ができた。ため息が漏れる。見渡す限りの雲海が、橙や紅、紫など思い思いの色彩に陽の光を反射している。青祈はこのような任務を任せられたことに感謝さえした。


 そうして青祈が思いの外楽しく、意欲的に岩壁を這ってすすんでいると、とうとうレヴェデーレの領域の真下に着いたようであった。といっても、魔力の気配を察知できない青祈にはダライアスの結界を超えた自覚はなく、岩肌の色や質感が変わったことでそう判断できたのである。


 アルテミシアの話では、城壁の真下に行けば城壁の地下室へ繋がる外階段があるらしい。大昔、空にある各国が地上に降り立つときに連絡するために使っていた階段なのだという。


 青祈は半ばぶら下がるような形で下から覗き込み、階段を模した岩がないかを探した。少し離れたところにそれを見つけ、なんとか腕が限界を迎える前にたどり着くことができた。


 階段を上り、重い金属の扉を体で押し開けると城壁に入れた。


 そこはしん、とした地下室だった。


 青祈はボディバッグに入れてきた蝋燭に火を灯し、視界を確保した。さらに折りたたみナイフで命綱のロープを切った。


 辺りを見渡すが誰もおらず、何もない。しばらく使われていないはずなのに埃っぽい臭いもしない。まるで宇宙空間にいるようだと青祈は思った。もちろん宇宙空間に行ったことはないのだが。


 あとは城壁を、魔法族のいる領域ではなくレヴェデーレの市民がいる方に出て、何食わぬ顔で街を歩き、レヴェデーレの城に忍び込むだけである。命の危険があるのは最初の崖登りだけかと思っていたが、よくよく考えたらダライアスの軍勢に占拠されている城に忍び込むほうが危険なのではないかと思えてきた。


 アルテミシアからもらったレヴェデーレの市民領域の地図を広げてみる。七つある地下階段のうち、今上ってきたものがどれか、メイルとの距離で分かるので、現在地が推測できる。


 青祈は勝手に魔法族の領域と市民の領域が城壁によって区切られているものだと思っていたが、どうやら魔法族の領域も同じ壁の中にあるらしかった。ますます魔法族に見つからずに市内を歩くのが難しそうである。


 しかし命綱はもう切ってしまったので行くしかない。青祈は城壁内を歩き始めた。


 ただ暗いだけで何もない壁の中を数十分歩くと、あまり苦労せずに市民の領域にでることができた。メイルから見た要塞のような外観とは打って変わって色鮮やかな美しい街並みが広がっている。


 青祈は目線の先に一際目立つ尖塔を見つけた。あれがアルテミシアの城だろう。


 もう朝日は登りきっているというのに、不自然なほど出歩いている人はおらず、青祈はジオラマの中を散策しているような気分になった。制圧されたと聞いていたが、街に破壊されたような痕跡もなく、戦争の気配は感じられない。ただただ美しい街並に心躍らせ、青祈の足取りは軽くなった。


 ロッククライミングに始まり、動き続けて六、七時間が経とうとしている。さすがに疲労感を覚えた青祈は、街に点々と造られた広場の大きな噴水のへりに腰掛けた。辺りの建物をよく観察してみると、店が営業している気配はないものの、ぽつぽつと中に人のいる部屋もあるようであった。


 ぼーっと辺りを見回して、街の静けさに張り詰めていた息をほっと吐いたその時、少し遠くの建物の後ろに人影を見つけた。ようやく外に出ている人を発見した。アルテミシアの城はずっと見えているのに、そこに続く道がどうも見つからなかったので、現地の人に道を聞こうと思っていたのだ。


「あのー、すみません……」


 よっと立ち上がって歩み寄り、そこにいる人に声をかけながら建物の後ろを覗き込んだ。


 その人の全身を視界に収めたその刹那、人は音もなく膝から崩れ落ちて地面にひれ伏した。


「あっ、だいじょ──」


 ふっと目線を下げて、走りよろうとして、それ以上近づけなかった。


「──っ!!」


 青祈にはその人の首から血が吹き出したように見えた。しかし、そうではない。首元に赤く閃光が走り、まるで光が肉体を燃やすかのように崩壊の波が伝播して、たちまちのうちに全てが灰と化したのだ。


 青祈がそれを正しく認識できた頃には灰は風に流され、きらきらと舞い散ってしまった。あとには何も残らなかった。


 ──消えた?


 そう認識はできても青祈の脳はそれを事実として受け入れることを拒んだ。先程まで目の前にいた人がなんの痕跡も残さずのだから。そんなことはありえない。


 ──死んだ、のか?


 これが人の死?焼いたって骨は残るのに、何も残らないなんてあるはずがない。


 青祈は知っている。人が死んでも肉体がそこに残ることを。その冷たさ、死してなお残る命の重量を。例えそれがになったとしても、風を前に全てが吹き流されるほど軽くはなかった。


 もっと重かった。


「せめて──」


 ──せめて、骨は残らなきゃだめだろう母さん…………父さん!


 青祈は自分でも気づかないうちに地面に膝を着いていた。無意識に喉元を抑えて、激しくなる動悸を押さえつけた。


 ──もしかして、鬼に殺されるとそうなるのか!?……でも彼らだって人なんじゃ…………そんな力はないはず──。


 ぐわんぐわん揺れる視界に、青祈は頭を起こして居られなくなって、上体を屈めた。腹の中から湧き上がってくるものを抑えもせずに全て吐き出した。やっと押さえつけられたのは涙だけだった。


「はぁ……はぁ……」


 そもそもあまり入っていたわけではないが、胃の中を空っぽにして少し楽になった。呼吸を整えるために屈めていた上体を起こし、ふと目線を正面に戻すと、青祈は仰天した。


「…………!!」


 いつの間にか目の前に人がたっている。


 先ほどの女性ではない。軍服のような黒い外套を羽織ったその人と目が合う。褐色の肌、色が混ざったように見える灰色の瞳、きつく結ばれた薄い唇と無造作に下ろされた金色の髪。見た目では性別がよく分からないが青祈よりも背が高く見えるので男性だろう。


 見開かれた万華鏡のような瞳に見下ろされ、青祈はあまりの威圧感に身動きがとれなくなった。


 ──あの人を殺したのはこの男だ!


 青祈は直感的にそう判断して、自分もまたあの赤い閃光に殺されるのだととっさに顔を伏せたが、なにもおきなかった。


「おまえ……」


 軍服の人はおもむろにそう呟くと、青祈の顔を覗き込んだ。再び目が合う。


「おまえは……」


 万華鏡のきらめきが、今度は青祈の首を絞めた。


「あ゛っ」


 青祈は自分の首を締めている何かを掴もうとしたが、その手は自身の首を引っ掻いただけだった。その最中にも、さっきよりも暗く視界が眩みはじめる。風の音と、苦しそうな自分の呻き声が遠のいていく──。


「なにをしている!!」


 もうダメだと思った時、青祈の体は宙に浮いた。青祈は知らない人に腕を掴まれて跳んでいた。


 その人と軍服の人は十メートルの位置で対峙した。軍服の人はその場から動かず、顔だけをこちらに向けて言う。


「ここは管轄外だろ」


「あんたのやってることが目に余ったんだ。じゃあね」


 その人はそう言うや否や、青祈の身体を担いで軽々と跳び去る。建物の屋根の上に跳び上がって、屋根伝いに城の方面に向かう。軍服の人は視界から消えるまで、青祈を黙って見ていた。


 その人は無言でしばらく跳んだ。そして城の正門へ続く並木道の端で青祈の腕を離した。


「驚かせてごめんね」


 青祈をベンチに座らせて、その人は正面に立った。


 小柄だがしっかりと引き締まった筋肉質な身体をもった、精悍な顔立ちの女性である。先ほどの軍服の人とは対象的な青白い頬の色で、琥珀色のきらきらとした瞳をしている。


「あの、助けてくれてありがとう……ございます」


 青祈は呼吸を整えながら小さい声で言った。


「うんうん。君、レヴェデーレの市民じゃないよね?どこからきたの?名前は?」


 女性は琥珀色の目を見開いて、青祈に問うた。感情の見えない目であったが口角が綺麗にあげられているので笑顔に見えなくもない。


「それは……」


 青祈は女性の追求するような目が怖くて、 下を向いた。気が動転していて一時的な人間不信に陥っているだけでなく、女性の声には挑発めいた響きがあってとても味方とは思えないのだ。


「大丈夫大丈夫、あたしは鬼でも人でもない、中立の立場なんだ。正直に教えて?」


 女性はこれまでずっと一度の瞬きもしないで、目を見開いたまま青祈を見つめている。


「……なら、先にあなたの名前を教えてください。なぜ助けてくれたのかも」


「あたし?あたしはゾーだよ。さっきの鬼が越権しようとしてたから止めたの。それに、無益な殺生は嫌いなんだ」


 そう言ってゾーは笑ってみせた。艶のない白髪がふわっとゆれた。


 黒いブラウスに黒いショートパンツ、白肌に白髪がよく映えるうら若い女性であった。


「俺は青祈といいます。メイルからきました」


「うんうんアオイくんね。メイルからね……もちろん目的は分かるとも」


 青祈が怪訝な顔をして黙っていると、ゾーは青祈の腕を掴もうとした。青祈が肩でそれを避けるとゾーは一瞬ムッとした表情を見せたが、すぐに先ほどと同じように口角をあげた。腰に手を当てて意気揚々とした声色で言う。


「じゃーもう立てる?城まで連れて行ってあげよう」


 青祈はずっと見開かれているゾーの目と自分の目を合わせないようにしながら、ゆっくりと立ち上がった。どうしてもこの女性を信用できないので、ついて行く気はなかった。すぐ目の前の道を行けば城にたどり着けるので一人で向かおうと一歩踏み出したその右足が地面に着くより前に、青祈の体は再び宙を舞った。


「はなせ!!俺はあなたの力は借りない!」


 女性にしてはしっかりとしたゾーの肩の上でじたばたしながら青祈は叫んだ。


「年長者の言うことは聞くもんだよ?」


 先程とは違い、屋根伝いに跳ぶのではなくほとんど飛翔するような高さまでゾーは跳んだ。


 この高さから落ちたら、青祈は死んでしまうだろう。それを理解したのでゾーの肩の上で暴れるのはやめた。先程の人がなくなった時の景色が何度も何度も脳裏を過ぎって、青祈の足を竦ませた。


 なにか別のことを考えなければ正気を保っていられなさそうだったので、青祈は必死に空からの景色を観察することにした。


 俯瞰してみるとレヴェデーレはその街全体がまるで大きな城のように見えた。すべてが人の手によってつくられた石造りの美しい城。広場、森、湖ですら、計画されたように整然と街に配置されている。その中央にある、いくつかの塔からなるひときわ大きな城がアルテミシアの城なのである。


 ゾーは一番高い塔の上部にある出窓から城内に侵入しようとして、その手前で空中浮揚した。


「……たぶん、城の中にはあたしは入れないんだ。アオイくん、ここから窓に飛び移って中に入れる?」


「あなたが入れないのならなぜ俺が入れるんです?」


 青祈はまた訝しむ表情をゾーに向けたが、彼女は何も気にしない様子で明るい笑顔を返した。


「いいからやってみなよー」


 青祈は頭上に疑問符を浮かべながら、ゾーの肩を押し出すようにして反動をつけ、かろうじて窓に飛び移ることができた。その際、青祈の足先が窓に触れ、窓は鍵がかかっていなかったようで僅かに開いた。


 窓の隙間から漏れた冷たい部屋の空気に青祈は身震いした。


「おどろいた!こんなに易々と城に入れるなんて!……そんなわけで、アオイくん、あとは頑張ってね」


 ゾーは興奮ぎみに早口でそう言って、青祈にウィンクしてみせると、滞空時間の限界を迎えたのか、落ちるようにして去っていった。


「なんて勝手な」


 青祈はひとりごちて、城へ侵入する。


 *


「アオイさんが城にはいりました」


 アルテミシアは購買部裏の廃材置き場の椅子の上で、ペンダント型の魔力結晶を握りしめて言った。となりの机に寄りかかって立つセインが答える。


「驚きました。こんなに早く到着できるなんて……あとは、青祈くんがアルテミシアさんのを見つけてくれればいいわけですね」


 そこにはアルテミシアとセインのふたりだけ。アルテミシアはときおりセインの横顔を見つめては、胸が高鳴り余計なことを言いそうになるが、上手く言えなそうなので思いとどまっていた。こんな不思議な心境になったのはあの夜、を飛び出してセインのあまりにも暖かく美しい微笑みを見たからだ。


「……翡翠の狼の結界が魔力を警戒するもので幸いでした。アオイさんはまったく魔力を帯びていないので、おそらく鬼側には感知されずに行動できているはずです。城に入ったらまずわたくしの部屋を目指すようにお願いしましたが、こんなに早く城にたどり着いたなんて素晴らしいことです」


「青祈くんに感謝ですね。そして、アルテミシアさんにも賞賛を。もそうですが、部屋全体を結晶化しておく備えには感服しました」


 セインはいつも通り穏やかな微笑をアルテミシアに向けた。


「お、王としては当然のことですよ……」


 その言葉に感じ入り、微笑に見蕩れていることが悟られないようにアルテミシアは取り繕った。


「ですが、こちらからわたくしの部屋に連絡をすると鬼に察知される恐れがあります。状況を伺うことしかできないのが歯がゆいですね」


「青祈くんの安否が分かるだけで僕は安心です。レヴェデーレのコアが隠されている点がすこし心配で……翡翠の狼と鉢合わせしないでしょうか」


「残念ながらその可能性は否定できません。ですがもしそうなったとしても、予定が早まるだけで問題はありません」


「……そうですね。翡翠の狼がどこにいようと無事に青祈くんを連れ戻すのは僕の仕事です。僕がいくまで青祈くんが無事であることを祈ります。アルテミシアさんは大丈夫ですか」


 セインの微笑みに心配の色が明確に滲んでいる。


 アルテミシアは彼が自分を気にかけてくれることをとても嬉しく思った。感謝の気持ちを伝えるために心から美しい微笑みを浮かべ、あの夜と同じようにセインの手をとり自身の胸にあてた。


「セインさん、あなたこそが、認めてくれなければなりません……白状すれば、あまりに怖くて逃げ出してしまいたいのですよ。あなたがとなりにいてくださることがどれだけ心強いか。ですが、ええ、わたくしがレヴェデーレの王であることを、誰よりもまずあなたが認めてくれたなら、わたくしはこれに立ち向かうことができるのです」


 それは、アルテミシアにとっては告白のようなものだった。


 セインはアルテミシアの両手に包まれた自分の右手に一瞬視線を落とした。そしてそのまま跪き、アルテミシアの右手をとりなおすと、その手の甲に軽くキスをした。


「はい、間違いなく。レヴェデーレの王はアルテミシアただひとりです」


 かあっ、とアルテミシアの顔が真っ赤に染め上がった。アルテミシアは左手で顔を隠したが、頬の薔薇色が耳にまで及んでいる。


 セインは悪い事をしたような気分になって、そっとアルテミシアの右手を離した。


「……ありがとう。セインさん」


 アルテミシアは顔を赤く染め上げたまま、セインの目をまっすぐと見た。上目遣いで自分を見つめるセインの心配そうな表情に新鮮さを覚えた。


「わたし、嬉しくて消えてしまいそう」


 とびきりの笑顔でそうつぶやくと、アルテミシアはセインの頭を両手で抱き寄せ、古い傷の残るセインの額にお返しのキスをした。


 不意に額に柔らかく冷たいものが触れて、その瞬間だけセインの時が止まった。胸が痛くなるほどの鼓動がどきっと跳ねて、だがセインにはそれが何を意味するのか分からなかった。


「さあ、そろそろ時間です。いきまょう、セインさん」


 照れ隠しにアルテミシアは勢いよく立ち上がって、先に歩き出した。セインはすぐに動けずに、一拍間を置いてからそれに続いた。


 *


 アルテミシア・アレクセイ・レヴェデーレとセインは連れ立って歩き、メイル王立学術院魔学部にあるいちばん大きな礼拝堂が所有する庭園、『花のパビリオン』の中央に立った。


 アルテミシアは宣戦布告の舞台として、花々が咲き誇る、人の手で維持された美しい庭園を選んだのだ。


 辺りにはピクニックやデートを楽しむ生徒が多く見られるが、各々の世界に夢中になっているのか、鎧を脱ぎ捨てて華美な青いドレスを着ているアルテミシアに気づく者は少なかった。


 アルテミシアの作戦の、青祈が担う部分はほぼ成功を納め、これからはアルテミシアの特訓の成果が現れる部分である。


 青祈がをアルテミシアの部屋に運び込めば、アルテミシアは魔力結晶ペンダントを通してレヴェデーレの先祖代々溜め込んだその膨大な魔力にアクセスすることができるようになる。翡翠の狼の結界を破壊し、城を取り返し、さらには鬼を撃退する。そのために瞬間的に必要となる莫大な魔力は、で全て賄える計算である。


 レヴェデーレ全域に張られた魔力結界を内側から破壊することができたら、コアに直接魔力を注ぐためにレヴェデーレへ瞬間転移する──瞬間転移は学内では禁止された魔術だが、かまっていられる状況ではない──。


 翡翠の狼がどこにいるのか分からないが、メイル王立学術院内への侵入は翡翠の狼であってもおそらく不可能だと考えられるので、対峙するとすればレヴェデーレに転移した後だろう。


 アルテミシアは翡翠の狼を目の前にしたときに自分が正気を保っていられる自信がなかったが、もし翡翠の狼に敗れ、果てることになっても諦めはつくと思う。となりには、尊敬し愛するセインがいる。それですでにアルテミシアは満たされている。


 この期に及んで、臆病で平和主義で温室育ちの十五歳の少女にとっては恋心を抱く青年からの親愛と微笑みこそが全てであり、戦争や統治とかいうものにはできれば関わりたくないのである。しかしこの身に、自己満足のまま終わることは許されない。なにより、セインが王としての自分を認めてくれたのだから、ここは踏ん張らなければならない。


 一度、大きな深呼吸をする。


 アルテミシアは首からさげた魔力結晶ペンダントを握りしめ、青祈が届けた膨大な魔力を体に取り込みはじめた。あまりの熱量にアルテミシアは身体が宙に浮いた心地がした。体の芯は熱く舞い上がるのに四肢は冷たく沈んでゆく。


 心拍数があがり、脳に血の巡る感覚が分かる。絶叫を堪えて、脳内にイメージを描く。王座と城、そして城壁に仕掛けられた翡翠の狼の結界をすべて破壊する──。


「──っ……」


 満天の星空のようにきらめく視界の中に、結界の解けたところからレヴェデーレの情報が流れ込んでくる。だが翡翠の狼本人の反応だけが見当たらない。レヴェデーレのどこかにいるはずの彼を領土の外に追い出さないことにはコアを取り返すことは叶わない。


 ──目が眩んできた。このままではレヴェデーレへの経路を維持できない……!


 咄嗟に、学内のみならずメイル全域にその声が届くように公共の魔力結晶をすべてジャックして、堂々たる姿で語り始めた。


「告げる。レヴェデーレの王に反旗を翻す者たちよ。わたくしはアルテミシア・アレクセイ・レヴェデーレ、レヴェデーレの王である。城はすでにわたくしの手中にある。翡翠の狼は投降し、これ以上わたくしたちレヴェデーレを脅かさないと誓え」


 わずかに声を震わせてはいたが、アルテミシアは凛としてその宣言を終えた。


 そして、瞬間転移でレヴェデーレの玉座へ──刹那、空間を切り裂くような音と衝撃波が奔り──。


「──アルテミシアさんっ!!」


 虚空からアルテミシアへ放たれた昇天魔法をセインがかろうじていなした。その衝撃で四肢が痺れて庭園の石畳に倒れ込んだ。


 転移の魔術が失敗したことによる激痛と、体を地面に打ち付けた鈍痛に耐えながら顔を上げる。


「翡翠の狼……!」


 アルテミシアとセインの対面、五メートルほど上空に現れ、アルテミシアを消し去らんとしたのは翡翠の狼ことダライアス・アイオガーツであった。


 ダライアスは浮遊したままつまらなそうな顔でまずセインを睨みつけ、そしてゆっくりと視線をアルテミシアに向けた。


「よォ、お嬢さま。お元気そうで結構なこった」


 それはアルテミシアと同じくらいの歳の少年であった。褐色の肌、燃えるような赤い長髪、少年らしい邪気のない顔立ちに不釣り合いなほどに鋭くぎらぎらと輝く翡翠色の瞳。肉感のない薄い身体に黒いボディスーツが映え、左肩には毛皮付きの黒い外套を羽織っている。細い指、腕、足首にはじゃらじゃらとつけられた無数のリングがちらちら夕日を反射して輝いていた。左胸にはそれら装飾品の輝きよりも一層強い存在感を放つ犬薔薇の紋章。これは彼が鬼の王であることを示していた。アルテミシアもセインも初めて見る翡翠の狼の姿である。


 逆光の中で太陽よりも強い光を放っていると錯覚するほどのするどい眼光に、アルテミシアは首を絞められたように息ができなくなった。


 翡翠の狼の登場により周囲にいた生徒たちが阿鼻叫喚しだした。騒がしい庭の中心で、ひゅっひゅっとか細い空気の抜ける自分の呼吸音だけがアルテミシアの脳内に響く。


「なぜ、学内に……」


 アルテミシアは、セインの手を借りて起き上がりながら呟いた。あがりきった息と、全身を脈打ち響く鼓動が苦しい。


「なぜって、おいおい、呼んだのはお嬢さまだぜ?オレの結界を破壊したとは成長した。それとも、どっからか入り込んだ鼠のおかげかな」


 メイル王立学術院中に貼られているはずのアリアの結界を超越してこの場に現れたダライアスは、アルテミシアを仕留め損ねたことは意に介さないようで、どこか楽しそうな笑みを浮かべた。


『花のパビリオン』を吹き抜ける乾いた風に、翡翠の狼の纏う黒い外套がはためき、その腕を飾る無数のブレスレットがぶつかり合ってがちゃがちゃと音を立てる。


「──セインさん、翡翠の狼はまだ君王結界を所持しています。解かなくては」


 アルテミシアは視界にダライアスをしっかりと捉えたまま、セインにしか聞こえない声量で言った。セインは驚いてアルテミシアの横顔を見た。


「──君王結界を?」


「あと三分……いや二分で仕留めなければなりません。力を貸してください」


 ──不死身の魔法族を殺すことはできない。ここでの課題は、いかに早くダライアスの君王結界を破壊してレヴェデーレに転移できるかである──。


 アルテミシアがダライアスを睨みつけて必死に突破口を模索していると、ダライアスはふてぶてしく首をかきながら失笑した。


「フ。わからんか。オレはいま君王結界を展開していない。竿で星だな、展開してない結界を破壊しようとするとは」


「……!」


 アルテミシアは錯乱していた。核に魔力を注ぐ神に認められずことでとも国を取り返す王であれるという考えから、君王結界を神に認められる奪い返す王でありたいという最初の目的へいつのまにか思考がすり変わってしまっていた。そしてそれを指摘された恥ずかしさで、自己嫌悪の思考に頭が支配された。


「悲しいよなァ、空の上ここでも星はまだ遠い」


 そう言って不敵に笑いながらダライアスは右手を空に掲げた。ダライアスの軽口などアルテミシアの耳には入っていないが、ダライアスはそれすらも愉快であるらしい。


「アルテミシアさん、ここはとにかく、レヴェデーレを優先しましょう」


 目を見開いて硬直してしまったアルテミシアを見かねて、セインは彼女の肩に手を置き瞬間転移を試みた。


「脆い」


 しかし、ダライアスによって瞬間的に術式が解かれてしまう。


「──っ!」


 セインとアルテミシアの体内を魔術失敗の衝撃波が駆け巡り、瞬間的に立っていられないほどの重力を感じる。


 その一瞬の隙にダライアスの目が見開かれ、万華鏡のような瞳でアルテミシアを見下す。


「!!」


 アルテミシアはそのきらめきから目が離せなくなった。


「もっと強固な転移術式を!アルテミシアさん!」


 身動きが取れないでいたアルテミシアは耳もとでセインにそう叫ばれてようやく我に返った。レヴェデーレの城に直接繋がる魔術結晶をもつアルテミシアの瞬間転移であれば、刹那のうちにダライアスに解かれることはないはずだ。


「転移します!セインさん、手を」


 アルテミシアはセインの手を握ろうとしたが、それよりも先にセインは痺れる手足に鞭打ってアルテミシアの前に躍り出た。ダライアスの眼から放たれた、灰がはじけるような魔法を全身で受けたセインはその場に崩れ落ちた──。


「やだ!セインさん──」


「──!」


 ──アルテミシアの絶叫は、見慣れた自室に痛いほど反響するだけだった。


 自分だけが、レヴェデーレに転移していた。


「……っ!!」


 アルテミシアは絶望するのも忘れて走り出した。城の玉座には、その上にレヴェデーレ全土を浮かせるコアがある。それに魔力を供給し、国を守らなければならない。


 魔力を無駄にできないのでこれ以上の瞬間転移は使わず、走りながら城に、街に、結界を塗り替えていく。


 幼少期からこれだけはと鍛錬を積んだ鬼に特化した特別製の魔術は──これほど大規模に展開するのは初めてであったが──街を跋扈していた鬼たちを全て、元いた彼らの領域に押しやることができる。


 走りながら、アルテミシアは全身が焼けるような痛みに耐えた。体内の魔力の許容量が限界を超え、視界が眩み何度も幻覚をみた。目や鼻、口からは血が流れ、肌はまだらに黒く変色し始めた。自慢の青い伝統衣装だけが、変わらぬ美しさで夕焼けの光をきらきらと反射している。


 ──ああ、城には誰もいない──。


 アルテミシアは、あの晩、セインの前で無様に泣いた日の幻覚をみた。セインが泣いているアルテミシアを見る目は、心配というよりも呵責の眼差しであった。


 もう二度とそんな目で見ないでほしい。アルテミシアは姿を隠していた七日の間、片時もその目を思い出さない瞬間はなかった。


 もっとも親しかった侍女のエミーリヤやほかの消えてしまったレヴェデーレの人々を想う。セインの妹も消えてしまったのだろうか。


 ──どうして消えるのが自分ではなく彼女らだったのだろう。なぜ自分は安全の確保された暖かい部屋でうずくまっていたのだろう。それでなぜあの青年から心配や、親愛の眼差しを向けてほしいなどと、思い上がれたのだろう。


 いまここに自分の体があるのなら、無気力なまま何も成し遂げずに消える未来よりも、セインからの信頼を得られる未来を選ぶこともできる──。


 自分が残されてしまったことに価値を生み出さなければならない。王としての自分がやるべきことをやり遂げなくてはならない。


 そしてアルテミシアは核にたどり着いた。



 晩秋の、少し高い、よく晴れ渡った暮れの空に、鈴を鳴らすような澄んだ声が響いた。


 青天の霹靂ともいえる隣国の王の宣誓を聞いた国王は、気の置けない友と連れ立って、『花のパビリオン』へ出向いた。


 花々の咲き誇る美しい庭。国王自らが有志を募って、魔術を使わず人の手で整備しているその広場は、困惑する生徒たちで騒然としていた。中央には人だかりができ、その輪の中心に色黒で長身の青年が倒れていた。


「セインくん!?」


 それを遠目でみてセインだと確信した飛鳥あすかが悲鳴に似た声をあげると、生徒たちは皆一斉にこちらをみた。飛鳥の隣にいるのが国王アリアだと気付いて、一瞬どよめき、アリアのために道をあけた。


 飛鳥が走りよってセインを覗きしゃがみこんだ。セインは気を失っていた。


「この生徒の知り合いですか」


 セインのいちばん近くにいる、医師らしい白衣を着た男性が飛鳥に声をかけた。


「ええ、そうです。他に、黒髪の男子生徒や背の低い金髪の女子生徒をみませんでしたか」


「いえ、私がここへ呼ばれたときに倒れていたのは彼だけでした」


「……誰か、ここで起きたことをみた人はいませんか」


 飛鳥はセインの額の傷を右手でなぞりながら顔を上げ、取り囲む生徒たちへ声を張り上げた。生徒たちはお互いに顔を見合わせるだけで声をあげない。


「レヴェデーレさんの声は皆が聞きました。ここで何かが起こっていたことは確かですが、詳細をだれも覚えていないのです」


 医師のその発言を聞いた飛鳥とアリアはその原因について思い当たった。ダライアスの君王結界だ。


 君王結界が未だにダライアスの手中にあるということは、今ここにいないアルテミシアはどうなったのだろう。飛鳥はじわりと滲んだ手汗を左手で握りしめた。


「皆、よくぞ無事で。じきに日が暮れます。寮に戻りなさい」


 アリアが凛とした声色でそう言うと、生徒たちは素直に散っていった。


 皆が十分に遠くに行って静かになったあとで、飛鳥はセインの額の傷に手を当て、傷口から魔力を供給した。


「っ……げほっげほ」


 目を覚ましたセインは瞬間的に大きく息を吸って軽くむせた。


「王さまはどうなったの?」


 飛鳥は緊張と焦りを誤魔化そうともしないでセインを覗き込んで言った。


「あ、アスカさん……」


 セインは苦しそうに目を瞑り大きく深呼吸をしてから、目を開くと同時に言葉を紡ぐ。


「アルテミシアさんはレヴェデーレへ転移して玉座へ……」


「青祈は一緒じゃないの?」


「……青祈くんはひとりでレヴェデーレにいるはずです」


「そんな!魔術も使えないのに」


 飛鳥は顔を歪めた。セインの身体を抱き抱え、上体を起こすのを手伝う。


 起き上がったセインはその視界の端に並々ならぬ存在感を感じて目を向けた。


「アリア国王陛下……!初めてお目に──」


「悪いけど挨拶は後!セインくん、青祈を迎えに行くからついてきて」


 セインの挨拶を遮って飛鳥は転移術式を開始した。アリアは困惑した表情を飛鳥に向けたが、君王結界のせいでセインにはよく見えなかった。


「私は同行しないよ、飛鳥。貴方はセインといいましたね、幸運を祈ります」


 飛鳥とセインは青白い光に包まれた。その眩しさから目を瞑ると、次に目を開ける時にはレヴェデーレに転移していた。


 そこはアルテミシアの城の前、延々と続く並木の木の下であった。


「王さまの強い結界が張られていて転移では城に侵入できなかったの。王さまは無事だね。わたしは先に青祈を探しに行くから、セインくんは王さまを頼むよ」


「おそらく青祈くんも城にいると思います。城の結界を突破することを考えると行動を共にしたほうがいいかと」


「……そうね」


 少し思案するような顔で飛鳥はセインを一瞬見つめた。いつもと何ら変わらない表情のセインと目が合って、それを合図にふたりは走り出した。


 各々が検知した、結界の魔力の層が薄くなっている部分は一致したようで、城の正面を少し西にそれたところにある水路を目指して走った。水に入ってしまえば、城壁を超えるのはそう難しくなかった。


 水路は何度か分岐して城の中央にある中庭の池に続いていた。それを何度か選び間違えながら中庭にたどり着き、城に入ることも難なかったが、青祈と玉座を探して石造りの廊下を途方もなく走り回るのは大変だった。


「──今言うことじゃないけど、青祈をひとりでレヴェデーレに送り込むなんてどんな神経してるの!──セインも王さまも、青祈が無事じゃなきゃ絶対許さないんだから!──青祈も青祈でなんでわたしに黙ってるのよ!」


 飛鳥は全力疾走しながら延々と文句を並び立てていたので、セインはその体力に感心さえした。


 駆け回ること半刻、青祈よりも先に玉座の間が見つかった。


 そこは天と見紛うほどに高く美しく、荘厳な空間であった。


 規則正しく立ち並ぶソロモン柱が天井へと伸び、その間から射し込む陽の光がシャンデリアに反射してきらきらと星雲のように輝く。


 空間を見下ろしている天井画は、原初の王アレクセイ・レヴェデーレがイフから土地と魔力の炎を受け取る神授の瞬間が描かれている。


 この広間はレヴェデーレの栄枯盛衰を全て見てきた。


 その最奥、床が数段高くなったところに玉座があり、真上にコアが浮遊している。鈴蘭が葉に隠れて咲くように、白く輝く魔力のプラズマが玉座から伸びる石柱に守られながら燃えている。


「アルテミシアさん!」


 扉を開け放ったセインが外から広間全体に響き渡るほど大きな声で叫ぶと、玉座の座面にうつ伏せにもたれて床に座り込んでいたアルテミシアは顔を上げて、そっとこちらを振り向く。


 光に溢れた広間で、美しい青いドレス姿のまま赤い血に汚れたアルテミシアがセインの戦慄と劣情を誘った。


「あ……」


 駆け寄ろうとして、セインはその部屋にさらに強固な結界が張られていることに気づいて、その瞬間足が鉛のように重くなり一歩も踏み出すことができなくなった。


「セインくんはそこにいて。わたしが連れてくる」


 その様子を横目で見た飛鳥は、顔色を変えず、へんに落ち着いた様子でそう言うと、広間へ足を踏み入れた。アルテミシアに駆け寄って、その華奢な腰に腕を添え、もう一方の腕をそっと脚の下に差し込んだ。アルテミシアを持ち上げて、瞬間転移でセインのすぐそばに戻ってきた。


 アルテミシアを抱えたまま飛鳥はゆっくりと腰を下ろした。セインもそれに続いてしゃがみこみ、アルテミシアに顔を近づけた。


「ああ、アルテミシアさん無理をして……」


 セインはアルテミシアの細い肩に手を当てて、そのまま腕をなぞって黒く滲んだ右手をそっと握った。


「セ……ィ……さ……」


 アルテミシアは顔に乾いた血がこびりついて上手く口を動かせないようであった。その上を大粒の涙が伝う。


 飛鳥はスカートのポケットからハンカチを取り出してアルテミシアの顔の涙と血を拭い始めた。


「魔力回路の過剰負荷による出血と変色……習ったことはあるけど、どうしよう、これはわたしじゃ治せない」


 飛鳥は今にも泣き出しそうな顔と声色で必死にアルテミシアの顔を拭く。


「コアの、魔力は……安定しました……」


 アルテミシアは虚空を見つめながらそっと呟いた。その顔は絶えず全身を駆け巡る痛みで歪んでいた。


「セインさん、来てくれたのですね……」


 アルテミシアはセインと目を合わせないままに呟いた。自分の顔がボロボロであろうことは分かっていたので、恥ずかしくてとてもセインの顔を直視できなかったのだ。


「ええ、翡翠の狼の攻撃を受けて、倒れていたところをアスカさんに助けられたのです」


「それは……ありがとうございますアスカさん」


「セインくんはただの魔力切れだったから助けられたけど、わたしはあなたを……」


 救えない、と言い切ることが許せなくて、飛鳥は代わりに血が滲むほど下唇を強く噛んだ。


「ご心配には及びませんよ、アスカさん……きっと、セインさんが治してくれますから。ね?そうでしょう?」


 アルテミシアはいたずらっぽく目を細めて可愛らしく囁いた。


 あの自主鍛錬の場でアルテミシアはすでに何度が魔力回路の許容量を超えて軽い出血や内出血を起こしていた。そのような症状がでたら特訓はすぐに中止していたのだが、そのときにセインが応急処置として飲ませた薬がある。それは一時的に痛みを脳に伝えにくくするという効能がある。


「後できちんと医務室で治療を受けてくださいね」


 そう言うとセインは懐から水薬を取り出して、アルテミシアに手渡す。アルテミシアは苦しそうな表情でその僅かな量の水薬を一気に口に含んだ。


「ありがとう」


 アルテミシアはそう言い、ゆっくりと息をはいた。


 しばらく沈黙が続いた。


 窓の外に茜色に輝いていた空はいつの間にかすっかり藍色に沈んでいた。星が煌めく静謐な夜空。


 ──ドゴォンッ。


 そこへ、広間を明るく照らす光とともに体を揺らす衝撃音が響いた。


「なにっ!?」


 ──ドドーン。


 衝撃波と光は不規則にしかし継続して城全体を揺らす。


 セインは瞬時に立ち上がり、光の射す方へ走った。薬が効き始めて少し痛みの和らいだアルテミシアの手を飛鳥が支えて、ふたりもその後に続く。


 少し先にある小さなバルコニーから三人で空をみた。


 ──ドゴォン……。


「なに?これは……どういうことなの……?」


 アルテミシアが震える声で呟いた。


 空へ打ち上がったのは大輪の花。アルテミシアの勝利を祝うレヴェデーレの民の喝采であった。


 城を超え庭を超えたその先、開けた並木通りには数千人が集まり、祝福に満ちた夜を分かちあっていた。


「なぜ民は集まっているの……?」


 アルテミシアは眉根を寄せて呟いた。飛鳥はアルテミシアがその理由を思い当たらないことに内心驚きを覚えながら言う。


「皆が魔術で花火を打ち上げているんだ……アルテミシア殿下、あなたを讃えているんですよ」


 そう言われて、アルテミシアはバルコニーの柵に体がぴったりと密着するほど近づいて、眼下を見下ろした。


「わたくしを……」


 目を潤ませて、アルテミシアはそれを見つめていた。


「こんなにも多くの民が集まっているのを見たのは初めてで……」


 アルテミシアははにかみながら必死に言葉を探していた。誰に指示されたわけでもないがセインと飛鳥に何か言わなければいけない気がした。


 そして──。


「……!」


 不意にアルテミシアを金色の光が包んだ。燃える砂にも似た光の粒。それは、アルテミシアの体内に取り込まれた。


 傷ついた身体に魔力が流れ込み、体が軽くなると同時に重い責任を感じる。脳の処理能力が向上し、意識を向けずとも周囲の情報が余すところなく鮮明に分かる。あまりの情報量に少し頭痛がするが、それをかき消すほどの自信と魔力が漲っていく。


「イフさまの魔法……もしかしたら、君王結界が使えるかも知れません」


 アルテミシアは思わず笑顔を浮かべて、飛鳥の顔を見た。


「わたしもいまの光をアリアのときに見たことがあります」


 飛鳥も笑顔を返す。


 そしてアルテミシアはおそるおそるセインの顔を見た。セインがこの城に来てから、目を合わせるのは初めてである。


「おめでとうございます。アルテミシアさん」


 セインの笑顔をみたアルテミシアは、その笑顔が自分に向けられているということだけではもう満足できなかった。セインという存在が空に在って今ここで自分に笑顔を見せるまでの彼の日々がどのようなもので、何を考えてきたのかを全て知りたいと思った。


 気がつくと花火は勢いを弱め、城下の人々は喜びをわかちあったり各々の時間を楽しんだりしているようであった。アルテミシアはその中にいくつもの幸せそうなふたり組をみた。


 体に満ち満ちている魔力に、頭の箍が外された。今ならなんでも言える気がした。


「わたくしがイフさまに認められたのは紛れもなくセインさんのおかげです。それで……その、よかったら、わたくしと婚約しませんか」


「!?こっ……こんやく?」


 セインは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。こんなに動揺するセインを見たのは初めてで、アルテミシアは少し得意気になった。それがあまりにも突拍子もないことだとアルテミシアには分からなかった。


「……」


 飛鳥は興味がなさそうな無表情で、言葉に詰まるセインをしばらく眺めたあと、普段と何ら変わらない声色で割って入った。


「殿下、ご無事でなによりです。わたしは青祈を探しに行きますので、あとはおふたりで。アリアに頼んで信頼できる医師を来させますので、それまではここでご安静にお願いしますね」


 そう言って飛鳥はアルテミシアだけに微笑を向けて、急ぐ様子もなく優雅にその場を離れた。


 ──城下の喧騒が遠く小さく響いている。


「……身に余る光栄です。しかし……アルテミシアさんと僕では身分にあまりにも差があります。この言葉が適切か分かりませんが、魂の尊さが違います」


 セインは申し訳なさそうに広い背中を丸め、困り顔にも見える微笑を浮かべている。


「魂の尊さ……。わたくしたちは同じイフ様の魔術をもっているではありませんか」


「──……アルテミシア殿下、僕に出来ることがあるとすれば、それはあなたに忠誠を誓うことだけです。レヴェデーレに栄光あれ」


 優しげに煌めくアルテミシアの青い瞳に、セインは恭しく頭を垂れた。


「……いいわ。わたし、セインさんが傍にいてくださればそれでいいんですもの。大好きよ」


 アルテミシアはにっこりと笑った。


 明るい花開く夜だった。星空の夜に祝杯をあげる人々は国土の重心に建つ大きな城の下に集まっている。


「……わたくしがレヴェデーレの王なのですね」


 城の大広間、その脇の小さなバルコニーから外を眺める少女と青年がいた。少女の自信に溢れた表情をみて青年は微笑んだ。


「神は貴女とともに」


「ありがとう。わたしの愛する人」


 天は少女の心と同じ、晴れ晴れとした色を浮かべている。

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9番目の天国 空飛泰造 @9_soratobi

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