第1章 君はいま嬉しそうに景色を 2
「レヴェデーレ歴史大全?」
その数日後、魔学部の魔術史研究棟の談話室で、
「青祈が勉強してるなんてめずらしいなと思ったら、歴史?趣味なの?」
机を挟んで青祈の対面にある椅子に飛鳥は腰をかけた。
「いや、歴史はあんまり好きじゃないんだけどね。レヴェデーレがどんな国なのか興味をもったんだ」
レヴェデーレの王と知り合ったことを無意識に伏せて青祈は答えた。
「そう。なにか面白い情報は得られた?」
飛鳥は興味があるのかないのか、掴みどころのない口調でたずねた。
「もう何冊かレヴェデーレの歴史と銘打っている本を読んだけど、王族の話ばかりで鬼に関することがでてこないんだ」
「鬼?」
飛鳥は怪訝な顔をした。
「まさか。飛鳥が知らないわけないだろう?」
セインが鬼について知っていたので、青祈は当然飛鳥も知っているものだと思っていた。飛鳥はメイル王立学術院のなかでいちばん優秀な生徒なのである。
「うーん。知らないことはないけど……青祈はそれについてどのくらい知っているの?」
気難しそうな顔をした飛鳥にそう聞かれたので、青祈はアルテミシアから聞いたままのことを言った。
「それでいうと、彼らが迫害されている理由は、能力が高い上に滅びることがなくて、人々にとって脅威になりうるからだと考えられるよね」
飛鳥は青祈の視線を捉えて離さないようにしながら話を続ける。飛鳥が制圧と統制を迫害と言い換えたことが頭に引っかかって、青祈は真剣に話を追った。
「もう少し掘り下げると、彼らが迫害されている理由はイフを信仰していないからなんだ」
「……イフって、魔力を集め魔術を展開する能力を人に与えたとされる神様のことだよね」
「そう。さすが、エルメ先生が補習をしているだけあって魔術の基礎知識はあるんだね」
飛鳥は無表情から一転、やんちゃな笑みを浮かべた。
「ばかにするなよ」
青祈がいつものように唇と尖らせると、飛鳥ははは、と笑った。一瞬置いて、また真剣に言葉を紡ぐ。
「基本的にはイフへの畏敬の念がないと、魔術は使えない。
「待って、言っていることは分かったけど何が言いたいのか分からない」
青祈は困惑した。アルテミシアの話と飛鳥の話で同じことについて語っているはずなのに出てくる単語がまるで違う。
「青祈。鬼って聞いて人を食べる怪物みたいなの想像してるでしょ。ちがうよ。わたしたちと彼らで違う点はそれくらいで、敵でも脅威でもない」
「あ、えと、じゃあ鬼は魔法族じゃなくて俺たちと同じ人間ということ?」
「魔法を扱える民族のことを魔法族というなら彼らは魔法族なのかもしれないけど、人間であることに間違いはないと思うよ。でもイフを信仰する人々は、彼らが人とは異なる存在だと考えたんだ。そして人とは異なる存在の中でもイフだけが上位存在で、彼らはそれを脅かす下等で邪悪な存在だと考えた。だから、イフを信仰しない人を鬼だといって迫害するようになった…………彼らが人でいられたのなんて、もう、昔の話」
飛鳥が神妙に話し終えると、青祈は呆然として黙り込んだ。
アルテミシアは、このことを知っていたのだろうか。あの純粋で優しい少女が、同じ人間であると知って鬼という表現を使うとは、到底思えないのである。アルテミシアが鬼について知っていることは、青祈に教えたことが全てで、ほんとうに脅威として鬼を捉えているのだと考えて青祈は自身を納得させた。
「青祈がどこでどんなふうに彼らのことを知ったかは知らないけど、学内をどんなに調べたって真相にはたどり着けない。あんまり深入りしないことをおすすめするよ──青祈が思うよりも遥かに、この問題は根深いんだ」
最後のひと言、それまでずっと青祈の目線を捉えていた緑色の瞳は虚空を見つめていた。
飛鳥のその伏せ目がちな横顔に、青祈は背筋が凍るような感覚を覚えた。
***
拝啓 盛夏の候、空の青は一層その色を深め、陽の光に向かって咲く向日葵が眩しい季節となりました。
君が健やかに日々を送っていると信じ、筆を執ります。
近頃、賑わう王都の景色に時折空白を見るようになりました。かつては人々の声に満ちていた我が邸宅も、もの言わぬ斜陽の隣国かのように静まり返っています。
翡翠の狼は我らの及ばぬ理への探求を深め、超えてはならぬ一線を踏み越えました。隣国の王にその恐ろしい蛮行を咎める術もなく、余波は静かにしかし確実に我が国にも及んでおります。国王アリア様もこの事態を憂い、御心を痛めていらっしゃいます。
わが娘は既に神の御許へ帰り、いまは静かなるゆらぎの中に抱かれております。
ゆえに君に憂うことはございません。むしろ、君が若き日々を確かに歩み、未来を築いてゆくことこそ、娘の何よりの願いでありましょう。
どうか強く、そして穏やかに在りなさい。神の御光は、必ずや君を導くはずです。
敬具
イフ歴××××年葉月
エドワード・スペリビウス
親愛なるクライド殿へ
***
青祈とセイン、アルテミシアは毎週水曜日の放課後に購買部裏の廃材置き場か空き教室で待ち合わせをして自主練習に励むようになった。
青祈を安堵させ、同時に悄気させた事実だが、アルテミシアには元々魔術の素養が十分にあったようだ。
セイン曰く、鬼のことがなければ王としての資質はある、らしい。問題は、体内に貯蔵しておける魔力量がその技術の割に少なく、ある一定以上の負荷がかかる魔術を同時に展開すると、すぐに魔力切れを起こして気絶してしまうことであった。そして、それはいつ鬼に侵略されるか分からないレヴェデーレの王を務めるにあたって致命的な弱点といえる。
空の国土を浮かせているのは、コアと呼ばれる浮遊炉──魔力結晶の一種で術者ではなく神たるイフが錬成したもの──であり、常時地上一万二千メートルもの高度に巨大な国土を浮かせておくことはもちろん、対流圏と成層圏の狭間の過酷な気候条件を人が生きられる環境にまで緩和する魔法を展開している。
これを保護し魔力を供給する人を空では王と呼ぶ。加えて、王自身や国土に張る防御結界などその他国の運営に必要な魔術はコアが担うものではないので、王はコアに魔力を供給しつつ、同時にいくつもの魔術を展開する必要がある。
つまり現状のアルテミシアの魔力貯蔵量では、国を運営することに魔力を費やすのが精一杯で、鬼に対抗できるほどの国防が満足にできない。もし鬼に侵略されるようなことがあれば魔力が足らず気絶してしまい、コアへの魔力供給が絶たれて国土諸共落下してしまうということだ。
さらに、青祈は全く気にしていなかったが、セインはアルテミシアを取り巻く人々の意見にも懸念を抱いていた。
アルテミシアの先代の王が鬼に敗れた時──あるいはさらにその前──からレヴェデーレの王族の支持率は国内外で低い数値を維持し、挙句の果て鬼に国を売った王族を処罰せよだの、掃蕩せよだのと言った声が聞かれるようになった。
それでも長い間、目立った行動を起こす市民は現れてこなかったのだが、ここメイル王立学術院学内では様子が違うようだ。
甲冑を着込んだアルテミシアがあまりにも目立っている上に、アリアという絶対的な力の庇護下にあるという生徒たちの認識が抑止力を弱め、言葉では済まないが大きな傷害にはならない、ささやかな悪意がアルテミシアの日常を徐々に蝕んでいた──。
「──九十八!……九十九!…………百!!はぁ、はぁ、セインさん、もう一セットいきますよ……!」
「アルテミシアさん、もうその辺りにしといたほうが……」
「いいえ!いいえ!!セインさん、この悔しさはスクワットをもう百回やろうとも収まりません……!」
水曜日、青祈がエルメとの補習のために遅れていつもの廃材置き場にやってくると、そこにはものすごい気迫でスクワットをする甲冑姿の少女がいた。
「……セインくん、これは、どういうこと?」
息を荒くしてせっせとスクワットをするアルテミシアに聞こえないように、セインに耳打ちした。
「手っ取り早く身体を強くする方法がないか訊かれたんです」
セインは若干気圧された様子で苦笑いを浮かべ、アルテミシアから目を逸らさずに、青祈の質問に答えた。
「なんだって急にスクワットなんか」
青祈も呆気にとられてアルテミシアを見守る。
「多方面に効果的で道具のいらない筋力鍛錬といえば膝関節の屈伸運動だと提案したらすぐに実践し始めて……」
アルテミシアの激しい鼻息のフンッフンッといい音と身体の動きに連動して鳴る金属甲冑のガチャッガチャッという音が静寂の森に響く。木々の隙間からみえる夕方の焼けた空以上に、アルテミシアの顔には真っ赤に血が昇っていることだろう。
「なんかあったのか」
「なんかあったのでしょうね」
青祈とセインはお互いに苦笑いの顔を見合った。
「あ、あの、
青祈がそう言ってアルテミシアの兜を覗き込むと、少女はすっと動きを止めた。
「……悔しい、わたくし、あまりにも無力です」
わなわなと震えながらか細い声でそう言ったと思えば、今度は勢いよく兜を脱ぎ捨ててはっきりと宣言する。
「あの下民に負けたままではレヴェデーレ末代までの恥です。彼を打ち負かすためにも己に打ち勝つためにも、必要なものは筋肉!そして強い心です」
アルテミシアはかつて見たことないほどに血走った目をして決意に燃えている。
「…………」
それを宥めるように、セインは無言でその背中に手を当てた。
金属に覆われたその背中にセインの手の温度が伝わったわけはないが、アルテミシアは久々に兜越しでなく直に友人の顔を見て、それが心配そうな表情をしていたので少し冷静さを取り戻した。
息を吸って吐く。
アルテミシアの大きな深呼吸が終わるのをまって、青祈はもう一度おずおずと尋ねる。
「具体的には、何があったの」
「ええ、今日ここに来るまでの道中、いつも通り廊下を歩いていました──」
*
──カンっ。
白銀の兜に硬いものがぶつかって、少し頭が揺れた。
「……」
アルテミシアはその石が飛んできたほうに目だけを向けた。
鎖帷子のその隙間から、アルテミシアよりも少し年上らしい大人しそうな顔立ちの青年が見える。この青年が石を投げてきたことは確実であるのに、彼はそっぽを向いて歩き出した。
何でもない水曜日の日暮れ前、大理石の廊下を歩いていたアルテミシアを見つけ、ただ投げつける為だけに廊下を降りて石を取ってくるとは、随分な暇人のようである。
しかし、アルテミシアにはそのような楽観的かつ冷静な感想はなかった。知らない人から向けられる悪意にただ恐怖していた。それでも黙って見逃がすほど誇りがないわけではない。
アルテミシアは、相手はただの生徒だと自分に言い聞かせ、恐怖を決して表に出さないように注意しながら、その青年を追いかけ眼前に回り込んだ。声が震えないように細心の注意を払って、アルテミシアは青年を睨みつける。
「無礼者。わたくしをレヴェデーレの王と知っての狼藉ですか」
彼はアルテミシアが反応をよこすとは想定外だったようで、驚いた表情でアルテミシアを見ている。が、兜を被ったアルテミシアの顔が兜に隠されて全く見えないためか、目は合わない。
アルテミシアの鎧には、重たい金属を貧弱かつ非力な体で全身に纏うための軽量化の魔術がかけられているのみで、君王結界のような正体を隠すための魔術は練り上げられていない。それでも、相手の顔を直接見なくてよい、そして相手からも顔を見られないで済むという状況はアルテミシアの臆病な精神状態には有効だった。現に、脚が震えることなくこの青年と対峙できている。
「王を名乗るな、無能」
青年は明らかな軽蔑の表情を浮かべて、そう吐き捨てた。
その言葉がアルテミシアの中にかつてないほどの激情を引き起こした。
レヴェデーレに残された唯一の跡継ぎだったというだけで考えることなしに戴冠し、自国を守ることもできず民からの信頼も得られず、石を投げられてさえ反撃すらできない自分こそが、いちばん王の名を辱めているのだと気づいたのだ。だが、他人にはそれを指摘されたくなかった。
──わたくしがレヴェデーレの王であることを批判していいのは王たるわたくしとレヴェデーレの民だけです。
アルテミシアの中に、この青年に対する明確な敵意が芽生えた。この青年がどんなに高貴な出自であろうとレヴェデーレの民でなければこれはあまりにも不遜な挑発である。
「……そういう貴方は、なんと名乗る」
アルテミシアの怒りが言葉遣いに表れた。決して逃がさないという強い意思がどこからが湧いてきて、恐怖が息を潜めているようだ。
強い意志はときに魔法となる。
婚約者をなくしたばかりで気分が晴れないこの青年は、ちょっと憂さ晴らしに惨めなレヴェデーレの王に石を投げただけですぐ逃げようと思っていたのだが、足が竦んで動けなくなってしまった。自然と口が動いて、メイルの下級貴族である出自をぺらぺらと明かす。
「ロイド家の三男で、魔学部初中級の四年生、クライドだ」
「そう。貴方のことは分かったわ。見ていなさい、わたくしは──」
だが、非情なことにこの魔法は一瞬の奇跡だ。アルテミシアが口上を言い終える前に、青年はもとの邪気を取り戻してしまった。彼の口元が動いて何かを詠唱したように見えた、その刹那。
「──っく!!」
アルテミシアは刹那の間に全身にのしかかってきた重みに耐えきれず、無様に臀を着いて地面に崩れ堕ちた。青年がアルテミシアに放った魔術は、鎧の軽量化の魔術の解呪だった。
「ああ、見ているさ。あんたが地に堕ちていく様を」
青年はそう捨て台詞を残して去っていった。
アルテミシアは下級貴族の挑発に乗って負けた。
*
「軽量化の魔術なんて小賢しいマネはやめて、わたくしは筋肉で!!鎧を着られるようにならなくては彼に勝ったことにはなりません」
アルテミシアは長い回想をそう締めくくった。
「そうですね、魔力リソースも他に充てられるようになりますしその方針に反対はしませんが……」
セインは未だ心配の色が滲んだ苦笑いをしている。
「今はまだ軽量化が必要ですが、鍛練を積んで、
セインは先程よりも幾分か元気そうになったアルテミシアに安堵しながらも、ずっと気圧されていた。アルテミシアがどんなに筋トレをしたところでムキムキボディになる想像は全くできないのである。
「うん。ムキムキボディに伝統衣装、すごく似合うと思うよ!筋トレなら俺も力になれるから、一緒に頑張ろうね」
対して、曇りなき笑顔をアルテミシアに向ける青祈は相変わらず楽観的であった。
「……話したら気持ちが落ち着きました。おふたりとも、ありがとうございます」
アルテミシアはそう言って大きく息を吐いた。
「いや、まあ、そんなことがあったなら悔しくて当然だよね」
「というか、そもそも、
アルテミシアは口を尖らせて言った。
「せんそうっ!?」
青祈は大きな声を上げて、アルテミシアから一歩引いた。
「ぜぜぜ、絶対やめてね!レヴェデーレとメイルの戦争なんて世界が終わっちゃうよ」
その大袈裟な反応が面白くて、アルテミシアとセインは少し青祈をからかってやりたくなった。
「そうですよ。アルテミシアさんが平和主義者だからまだ戦争になっていないだけで、この学校の、とくにメイル出身の生徒は到底許されざる不敬をはたらいています」
「ええ、みなわたくしの寛大な心に感謝するべきです」
ふたりがしたり顔でそう嘯くので、青祈はとうとう信じ込んでしまって、慌てて自らの行動を省みた。
「え?それってタメ口きいてる俺も相当不敬ってことになる!?あ、アルテミシア……さん、様?殿……で殿下!アルテミシア殿下!これまでの非礼を詫びますのでどうか命だけは……!このとおり!!」
目をぐるぐる回しながら青祈が土下座しようとしたのを、ふたりは慌てて止めた。
***
メイルの
魔術史研究棟の談話室で忠告された手前、青祈はアルテミシアとの交流や、鬼に対する防衛術を身につけようとしていることを、飛鳥に知らせるのがはばかられるようになってしまった。元々は飛鳥も先生役としてアルテミシアに紹介しようと考えていたが、セインが青祈の想像以上に適任であったため先生役を増やす必要のないこともあって、飛鳥を放課後の自主鍛錬の会に呼ぶことは結局一度もなかった。
「今日は遅いね」
魔学部魔術棟のいちばん奥まった空き教室で青祈がつぶやいた。空き教室に約束した時間通りに到着した青祈とセインがアルテミシアの到着を待って一時間が過ぎていた。
「何かあったのでしょうか」
セインも不安げに扉のほうを見つめる。
アルテミシアは入学式以降、トラブルや厄介事の耐えない日々を過ごしていた。これまでも何度かこの会に来られなくなったことがあったが、連絡もないのは初めてである。
アルテミシアが近くにいるときは、大理石の廊下を金属の甲冑で歩くがっちゃんがっちゃんという音が聞こえるのですぐ分かる。しかし、教室は静寂に包まれていた。
「アルテミシアさんのペンダントにメッセージを送ってみましたが反応がないんですよね」
「どうしよう。探しにいく?」
青祈は魔力結晶を介してメッセージや情報のやりとりをすることができないので、セインと離れることは得策ではない。ここからふたりとも離れたあとで、もしアルテミシアが遅れて到着したとしても、彼女のペンダントを通じて連絡はとれるだろう。
「セインもいこう。どこを探すのがいいかな」
「まず寮に帰っているかを確認するのが良いと思いますが」
ふたりは駆け足というには遅く、早歩きというには速いくらいの足取りで自習室を後にした。同じ速度で歩き続けて、魔学部女子寮棟の中庭に到着するまでの間、セインの額に埋め込まれた魔力結晶はアルテミシアからの反応を示さなかった。
女子寮棟の全ての出入口には男子禁制の結界が張られていて、青祈とセインは中庭を落ち着きなく歩き回ることしかできなかった。
「あれー?ふたりともこんなところで何してるの──」
そこへ中庭を縦断して疾走する飛鳥が、脚を止めることなく声をかけてきた。
「飛鳥!お願いがあるんだ──」
この機を逃すものかと、青祈は反射的に追いかける。セインもそれに続いた。
「無理無理ー!わたしちょっと今大事な用が──」
しかし魔術で援護されているのか、飛鳥の脚力に青祈は全く追いつけず、距離は広がっていく。
「アスカさん何か急いでますね」
「王の行方不明より大事な用なんてないだろ、セイン、頼んだ!」
青祈の声を受けて、セインもまた魔術で脚力を強化した。セインのほうが飛鳥よりも背が高いうえに、元々の筋力が大きいので差はどんどん縮まっていく。
セインは飛鳥と並走した。
「アルテミシアさんがどこにいるか、知りませんか?」
飛鳥はセインのほうには目もくれず、ただ進行方向を見据えながら答える。
「知らない!けど、レヴェデーレが彼らに制圧された!わたしはアリアに会いにいくけど、セインくんたちは何してるの」
「アルテミシアさんと連絡がとれません。彼女に何かあったのでは──」
「そうだとして、セインくんはともかく、青祈にできることは何もないの。後ろで息上がってくたばってる青祈を保護して帰りなさい」
そう聞いて、はっと後ろを振り返ってしまったセインは、遠くで倒れ込んでいる青祈を視界に捉えて思わず立ち止まった。
飛鳥は当然足を止めることなくそのまま森の中へ消えていった。
セインは踵を返して青祈に駆け寄り、上体を起こすのを支えた。セインが青祈の顔を見つめるので、青祈は平気なふうにはにかんでみせた。息切れしたまま、口を開く。
「魔術には、追いつけない、なあ。それで、なんで飛鳥は、あんなに急いでいたんだ?」
「レヴェデーレが制圧されたと……」
悔しそうな表情で下を向いたセインと、座り込んでいる青祈の目が合わない。セインは地面をみつめている。
「そんな!それじゃあ、アルテミシアは殺されたということ?」
「わかりません。アスカさんはアリアに会いに行くと言っていました」
「アリアって、国王陛下か?……ほんとうに知り合いだったのか」
青祈はそう呟くと、乳酸が溜まりきってがくがくする足に鞭打って立ち上がった。セインも青祈の背中に手を添えたままそれに合わせた。
ふと、セインの額の魔力結晶がきらきらと明滅した。
魔術師たちの連絡や情報閲覧手段となっている魔力結晶は、空気中の微細な魔力を用いて情報を伝達する術が練られた、宝石のようなものである。術を練り上げた本人が身につけると、公にされている情報を意識に直接取り込めるだけでなく、一度交信した魔力結晶間ではどんなに離れていても意思の疎通ができる。しかし、相手の意識が別のものに支配されているときや、そもそも寝ているときなど、意識に介入の余地がないときはただの飾りである。
「アスカさんからです。アルテミシアさんはアリア国王陛下によって保護されたそうです」
「よかった」
青祈は文字通り胸を撫で下ろした。
飛鳥が言っていたこともあるし、アルテミシアが無事ならレヴェデーレのことには首を突っ込まないほうがよさそうだと思った。帰ろうか、と声をかけようとすると、青祈の予想に反してセインが険しい顔をしていたので開きかけた口を咄嗟に閉じた。
セインは必死に何かを考えているような、葛藤しているような様子である。
「大丈夫か?どうした」
セインはまっすぐ青祈の目をみた。青祈は穏やかな感じの消えたセインの顔を初めてまんじりとみたので、落ち着いてきた心拍がまた激しくなったような気がした。黄みの強い琥珀色の瞳は吸い込まれそうなほど綺麗だった。
「妹が、レヴェデーレにいるんです……青祈くんに言ったことはありませんが……」
青祈とセインは同部屋になってからもうすぐで一年が経つが、お互いの身の上話というものはあまりしたことがなかった。意図的に避けていたというわけではなく、単にそのような話があがらなかっただけなのだが、青祈は少しの驚きと新鮮な気持ちを持ってセインの言葉を聞いた。
「きっと大丈夫でしょうが、ここ暫く会っていなかったので……」
そういってセインはまた目線を伏せた。
「俺、メイルとレヴェデーレが地続きになっている場所は知っているんだ」
青祈は飛鳥が見せてくれた場面を思い出して提案した。本当にその場所にたどり着けるかは自信がないが、だいたいの場所は覚えているつもりである。
セインは青祈の提案に対し、険しい表情を浮かべたまま首を横に振る。
「レヴェデーレに行くのは現実的ではありません。どんな結界が張られているか分かりませんし、もし仮に入れたとしても──」
「彼らがいるから、危ない?」
「彼ら……」
「鬼って言い方はよくないらしいよ。飛鳥から聞いたんだ」
きょとんとしたセインをみて、青祈は恥ずかしそうに笑って頬をかいた。セインは微笑み返さずに聞き返す。
「アスカさんとはどんな話を?」
「ただ、彼らも同じ人間だとしか……なんかまずいかな?」
青祈はアルテミシアと飛鳥からの話を聞いたのみだが、彼らまたは鬼に対する解釈は人によって随分違うような様子を察していたので、セインもまた別の考え方をしているのだと思い、不安げにその琥珀色の目を見つめた。
「いや、僕もアスカさんに賛成です。翡翠の狼の話は聞いていないですか?」
「狼?鬼だったり狼だったり、忙しいなあ」
話しながら、青祈の脚の震えが落ち着いてきたので、ふたりは自分たちの寮に向かって歩き出した。アルテミシアの寮棟と青祈たちの寮棟は魔学部のある島の対局の位置にあるのでかなり距離がある。
「翡翠の狼とは彼らの総称ではなく、今回レヴェデーレを制圧したと思われる首謀者の通り名です」
「見た目が狼に似てるのか?」
並んで歩いているとお互いの表情をしっかり見ることができないが、青祈がセインの声色から察するに、いつもの穏やかさは戻ってきていない。
「……名前も姿も僕は知りません。僕だけでなく、おそらく誰も。アルテミシアさんでさえも知らないと思います」
「どうして?」
「──君王結界が使えるんです」
*
「なぜ君王結界を使わないのですか?」
アルテミシアはメイル国内のはなれにある一室でアリアと対談していた。
はなれはメイルの王が余暇を過ごすために、空で最も安全で快適な場所に作られた空間であるが、その内装はあまりにも質素であった。
装飾の類は壁紙でさえもなく、廊下も部屋も全て構造物の素材がそのままむき出しになっている。数多ある開口部は大きくあらゆる方向にあって美しいメイルの景色が望め、陽が燦々と降り注ぐ室内には多彩な植物が植えられている。そのため、質素で無機質な室内だが工場や倉庫というよりは屋内型の植物園のような印象をうける。
アルテミシアは自身の城、そして部屋が豪華絢爛なバロック様式であったので、空で最も大きな国の王もさぞ豪華な部屋に住んでいることだろうと思っていただけに、この落差に目眩がした。
国王アリアは君王結界を展開していないにもかかわらず、感情のみえない凛とした声でアルテミシアに語りかける。
「殿下の姿や居場所が人々に知れ渡ることがひいてはレヴェデーレの危機となることを理解していますか」
「はい陛下」
アルテミシアはいつもの甲冑姿のまま、兜だけを脱いで大きな黒いソファに浅く腰かけている。
その対面には、黒いスラックスに質素なシャツを着たアリアが黒い皮のソファの背もたれに寄りかかって立っている。
「メイルと地続きにすることで、レヴェデーレを維持するための魔力供給は私が担えるようになりました。殿下は君王結界を展開できるはずです」
アリアもアルテミシアも金髪碧眼の端正な顔立ちの人物であるが、アルテミシアが可憐なプリンセスの風貌であるなら、アリアは威厳に満ちた美丈夫──美丈夫、とは言ってもアリアの性別はどこにも公にされていない──といった風貌である。
幼いアルテミシアが初めてアリアを見たときは、畏怖のあまり膝が震えてしまったほどだったが、今ではその鋭い眼光の中にわずかに優しさを見出すことができる。アルテミシアは大きく息を吸い込んで白状した。
「わたくしは君王結界を展開できません」
この一言で息を吐ききってしまって、少し頭痛がした。目の奥が痛烈に痛み、座っているだけなのに動悸がする。
「イフさまの応答がありません。おそらく、イフさまの認めるレヴェデーレの王はわたくしではなく……翡翠の狼、なのでしょう」
「ダライアス・アイオガーツがレヴェデーレの王……彼は
少しはアリアが驚くだろうと思って口にしたアルテミシアだったが、アリアは全く意に介していないような顔をしている。この感情の見えない言葉少なな王には君王結界など必要ないのではないかとさえ思った。
「……レヴェデーレの、わたくしの城が鬼に制圧されたというのは本当なのですか」
あの嵐の晩、アルテミシアは命をかけても守らなければならない城を後にすることを憂いていた。メイル王立学術院への留学と引き換えにアリアが提案してきたのはレヴェデーレをそのままメイルに委ねることであったのだ。これまでレヴェデーレの土地を浮かせることにその魔力リソースのほとんど全てを割いてきたアルテミシアは、自身を防衛する術の獲得ができていなかった。レヴェデーレの維持と防衛を同盟関係にある
メイルにレヴェデーレを接続してから、アルテミシアはアリアを介さないことにはレヴェデーレの情報が得られなくなった。城が危機に瀕しているのに彼女が察知できることはなにもなかったのである。
「はい。不覚でした」
アリアはわずかに眉をひそめて悲痛の表情を見せた。初めて見たアリアの感情表現にアルテミシアは内心動揺しながら、震える声で考えを述べる。
「翡翠の狼が君王結界を展開し、城に忍び込んで陛下とのパスを切ったのだと考えます。魔法ではなく君王結界なら人々に知られず、また陛下の結界にも検知されません」
「そうですね、私もそう考えます。現在レヴェデーレの領土にはダライアスによる結界が張られ、内部の状況は知り得ません。アルテミシア、貴女の身に危険があってはなりませんのではなれに同行していただきましたが、ダライアスをそのままにはしておけません。君王結界を取り返し、レヴェデーレを奪還しなくてはならないということを努々お忘れなきよう──」
凛とした声でそう告げられて、アルテミシアはただアリアの目を見つめることしか出来なかった。アリアはアルテミシアがそれを敢行できると考えているのだろうか。アルテミシアよりわずかに深いその青い瞳の中に考えを推察することはやはり叶わなかった。
突如。
「アリアー!ダライアスのやつ、レヴェデーレを切り離す準備してるよー?」
はなれの全ての扉をばぁんっと乱暴に開け放って、水兵の格好をした女子生徒が全力疾走で部屋に入ってきた。
「
アリアが、飛鳥と呼んだその闖入者に対して分かりやすく難色示したことに、アルテミシアは再三動揺しながらそれを見守った。
「初めてお目にかかります、アルテミシア殿下──」
飛鳥はそう言いながら、後ろ向きに魔術を用いてすべての扉をそっと閉めた。
「──わたし、メイル王立学術院魔学部首席の
美しい所作で礼をした少女はアルテミシアと同い年か少し歳上に見えた。
強気そうな緑色の瞳に灰色がかった茶髪、アルテミシアよりすこし高い背に、制服のない
「は、はい。どうぞよろしく……」
面食らったアルテミシアは、このやけに国王と親しい少女との接し方が全く分からなかった。
「レヴェデーレとメイルを接続しているのは魔術だけではない。ダライアスの手にかかろうともそう易々と切り離せるものではないよ、飛鳥」
アリアは喋りながら、ソファに寄りかかるのをやめてアルテミシアの対面に腰を下ろした。
「わたしが飛ぶ羽目にならなければいいの。緊急事態でないならよかった」
飛鳥もその隣へ座った。
「いや、事態はあまり良いとは言えない。殿下、ダライアスはいつから君王結界を使っているのですか?」
「ダライアス、それが翡翠の狼の名なのですね……わたくしはこれまでに城を攻めてくる彼の存在を何度も認識しているはずなのに、名前はおろか、その顔すらも正確に記憶していませんでした……少なくとも先代の時点で君王結界はレヴェデーレ家のものではなかったのではないでしょうか」
アルテミシアがそう言うと、アリアは思案するような顔で黙りこくった。飛鳥が登場してから、アリアは感情が分かりやすく表情に出るようになった。
黙っているアリアの代わりに飛鳥が会話をつなぐ。
「では鎧をお召しなのも、要塞のような街づくりをしているのも君王結界を展開できないからなんですね」
アルテミシアは目の奥でずっと頭痛がしているのを噛み締めるように下を向いて答えた。
「……はい。わたくしの気がついた時にはすでにレヴェデーレの美しい自然は破壊され、物理障壁に頼る国防がなされていたと思います」
「空の記録では唯一の単一王朝国家なのにな」
飛鳥が残念そうにつぶやくと、みんな黙った。少しの間続いた沈黙を破ったのはアリアだった。
「我々は少し若すぎるかな……歴史を知るレヴェデーレの年長者は皆身罷られたそうですが、メイルにいる方で心当たりがあります」
アリアはそう言って、自嘲するようにはにかみながら立ち上がった。
「レヴェデーレは空にとってもメイルにとっても貴重な存在です。真の意味での奪還とは、レヴェデーレの自然豊かな姿を取り戻すことかも知れませんね。私も精進します」
アリアは初めて微笑みを浮かべ、アルテミシアと目を合わせた。優しい口調で言う。
「殿下、今日ははなれで夜を明かすことをおすすめします」
そうして、飛鳥が寮に戻り、アリアがはなれの自室に戻ったあとでアルテミシアはようやく自分の時間を確保できた。
「うぐっ……」
アリアを前にしている時は緊張のほうが大きくて抑えられていたが、ひとりになった途端に国に残した人々を思う気持ちや今後に対する不安が溢れ出して、アルテミシアは崩れ落ちるように床にしゃがみ込んだ。
そのまま長い時間咽び泣いたが、どれほど泣こうとも涙が涸れることはなかった。
瞼が腫れ上がって前が上手く見えなくなり、鼻が詰まって息が上手く出来なくなってようやくアルテミシアは顔を洗うために立ち上がった。顔を洗って見上げた薄暗い洗面台の鏡に映る自分があまりにも不細工で、心配になるほど歪んでいたので少し冷静になった。
今日が水曜日だったと思い出して、セインの魔力結晶にメッセージを送る。
『今日の集まりに行けなくてごめんなさい。わたくしに何かあったわけではありませんので、ご安心ください。ご迷惑をおかけしました』
アルテミシアは彼らに自身が王であることを打ち明けはしたが、本来彼らはレヴェデーレの危険を知っていい人物ではない。何があって行けなかったのかは伏せておく。今すぐにでも不安をぶつけ、共有して、慰めて欲しい気持ちを抑えて気丈にふるまうことにした。それでアルテミシアの王としての矜恃が保てるような気がした。
しかし、すぐに返ってきたセインからの返事はアルテミシアのプライドを無意味なものにした。
『レヴェデーレが制圧されたと聞いて心配していました。無事で何よりです。青祈くんと僕にできることがあれば、なんでもおっしゃってくださいね』
セインはレヴェデーレが制圧されたことを知っている。ならば、この苦悩や失意を分かってくれるのではないか。絶望的な衝動にかられて泣いていることも仕方がないものだと受け止めてくれるのではないか。
アルテミシアは途端に心拍が早くなるのを感じた。鼓動に合わせて脳が揺れる感覚がする。
──会いたい。
アルテミシアのぐるぐる回る脳内でただ一つ言語化できたことであった。
気がつくと甲冑姿のままはなれを飛び出し、山を超え、湖を渡り、メイル王立学術院の広大な森の中を駆け抜けていた。
どれほど走り続けただろう。魔術によって援護された両足は疲れを感じることも、泥濘に足を取られることもない。
ようやく魔学部の棟が立ち並ぶ島にたどり着くと、購買部棟の中庭に人影が見えた。時刻は深夜零時、生徒は通常出歩くことのない星夜である。
「セインさん──!」
その長身痩躯の人影をセインだと確信してアルテミシアは呼びかけた。
自身に向かって疾走してくる甲冑の少女に少し驚きながらも、セインはにこやかな微笑みを浮かべてその到着を待った。
アルテミシアは緩やかに減速し、セインの手前で静止した。なんのために飛び出してきたのか自分でも理解できなくて口をぱくぱくさせながら、ただ目の前のセインの顔を見つめた。この間の抜けた不細工な顔を兜が隠してくれることに心底安心した。
「ああ、本当に無事でよかったです」
細いアーモンド型の目の目尻が垂れ、細められた琥珀色の瞳に瞼の影が落ちる。白いまつ毛が星の光にちらちらと光ってみえる。口角が緩やかに引き上げられて痩せこけた頬が膨らんでいる。大切なものを見るような慈愛に満ちた微笑みであった。
「あ……セインさん……急に呼び出してごめんなさい」
アルテミシアはようやくそれだけ言うと、目を見開いてその微笑みの全てを目に焼き付けようとした。今まで人から向けられたことがない、暖かな笑顔なのだ。
しかし一秒も見つめないうちに視界が曇り、セインの顔が歪んでみえる。
「あの……わたし、わたくし……!どうしたらいいのでしょうか……!」
アルテミシアはセインに慰めて欲しかった。この心の苦しみから救ってくれると思ったのだ。
故郷に残してきた人々の顔が脳裏に浮かび、守れなかった不甲斐なさと悲しみが際限なく湧き上がる。涙に変えていくら流し出そうともとめどなく溢れ続ける。
セインはその声からアルテミシアが泣いていることが分かった。可哀想だと思ったが、慰めることはできなかった。アルテミシアがレヴェデーレの国民を心配するように、セインもまたレヴェデーレにいるはずの妹を心配しているのである。アルテミシアはレヴェデーレについて責任を負わなければならない。
「アルテミシアさん……」
居心地が悪くなってセインはそっとアルテミシアの肩に手を添えた。アルテミシアはその右手を視線を落とすと両手で抱えて胸に寄せた。セインの骨ばった褐色の手を、冷たい金属の手が包み込んでいる。初めてセインに触れたのに、その暖かさがわからないことをアルテミシアは心の底から悔やんだ。
そのままアルテミシアはただ泣いた。
*
それからの一週間、アルテミシアは授業を全て欠席し人前に姿を表さなかった。
翡翠の狼に制圧されたとみられるレヴェデーレは動きを見せず、依然としてメイルと地続きのままであったが、アリアがパスを取り戻すことも叶わず内部の状況は窺い知れない。
表面上は制圧される前となにも変わっていないようにすら思える状況に、初めの数日は戦々恐々としていたメイルの学生たちも今ではレヴェデーレのことなど頭にない様子である。
セインは魔力結晶を介して学内の様子をアルテミシアに報告していたが、返信が返ってくることは一度もなかった。アリアの保護下にあるアルテミシアが最も恐れていたことは、もはや無害ではないメイルの学生たちから糾弾されメイルを追放されることであったが、人々の興味が薄れてきたと知って内心安堵していた。
打開するなら今だ──とはアリアの言葉であるが、アルテミシアはそろそろ重い腰を上げて汚名返上に向かわなくてはならない頃合いだった。
あの日からちょうど一週間、つまりまた秘密の特訓がある水曜日であった。
青祈とセインは今週も予定通り実施するのか、本人に確認しないままこの日を迎えてしまい、心配な気持ちから少し早く空き教室に到着した。
「さすがにまだいないか」
青祈がぼそっと呟いた。
「俺は国を守るなんて責任を生まれながらに押し付けられたことがないから、言えた口じゃないけど……このままでいるのがアルテミシアにとっていいことだと思えないな」
それはセインに聞こえるか聞こえないかくらいの声量だった。セインは自習室の入口の扉を見つめたまま、黙っている。
沈黙。
──約束の時間ちょうどになったとき、待ちかねていたかのようにセインが口を開く。
「アルテミシアさんは、この半年で自己防衛しつつ国の運営が賄えるほど体内魔術貯蔵量を増大させたのです。これは彼女の身体に相当な負担を強いるでしょうが、君王結界を用い、王として返り咲くための器はできあがっているはずです……悲しいことに魔術面での青祈くんの成長は全くと言っていいほどありませんでしたが」
「最後の一言いらなかったなあ」
お互い笑った。ここからアルテミシアをどれだけ待てるかの根性試しが始まると思いきや、その瞬間、音もなく自習室の扉は開かれた。
「遅れてごめんなさい」
細く震えた少女の声。
「アルテミシア……!」
現れたアルテミシアは青祈が初めて会った時と同じドレスを着ていた。がっしゃんがっしゃんと音をたてる鎧ではなく、青いスカートに身軽なバレエシューズ。セインは初めて見る姿であった。
「そ、それで外を歩いてきたの……?」
信じられないといった様子で青祈が尋ねると、アルテミシアは微笑みながら頷いた。
「わたくしは君王結界を展開できません」
アルテミシアは自信に満ちた表情を浮かべてふたりを真っ直ぐに見た。
「それはイフさまがわたくしを王として認めていないだけに過ぎません。伝統あるレヴェデーレの血の通った王はただひとり──イフ様のお墨付きがなくとも、わたくしはレヴェデーレの王なのです」
青祈もセインもアルテミシアの堂々たる振る舞いに圧倒されている。一瞬間が空いて、セインが口を開く。
「空では能力の高さにより民から選出され、さらにイフさまに認められた人物がすなわち王だとされてきましたが、その前提を転換するということですね。青祈くん、どういうことがわかりますか」
「つまりどういうこと?」
青祈はぽかんとした。
「革命です」
「かくめい」
「青祈くんも気が付いているはずです。アルテミシアさんの敵は、翡翠の狼率いる魔法族だけではありません。かつてのレヴェデーレが彼らに制服されたことで、鬼のような下等存在に制圧を許したレヴェデーレの王族を侮蔑する世論が一般的になりました。アルテミシアさんは君王結界を用いずとも民衆に自身が王だと知らしめるために鎧を脱いだのです」
青祈にはセインが心做しか興奮しているようにみえた。
アルテミシアはセインの言葉に満足そうな笑みを浮かべ、そして言う。
「ええ、これまでわたしくしは君王結界を奪還できれば全ての苦悩から解放されると考えていました。ですが、それは違うと気付いたのです。あの忌々しい鬼が君王結界を持ってしてもレヴェデーレの王にはなれないように、わたくしが王であるために君王結界が不可欠なわけではありません。国を運営し民を守ること、これができればよいのです──そして、そのための器はもう出来上がっています!見てください──この
アルテミシアは鼻息をふんと鳴らして、華美なドレスの袖から透ける華奢な腕にほっそりと形の良い筋肉が盛り上がっているのを見せつけた。
「おお!あれから筋トレ続けた甲斐があったね!」
青祈は目を輝かせた。
「へへん。肉体面の強化がなんと魔力貯蔵量の増大にも繋がったんですよ──ですが、まだひとりでは鬼に打ち勝つことはできません。アオイさん、セインさん。おふたりとも、わたくしに付き合っていただけませんか」
「なにをするの?」
青祈が訊ねると、アルテミシアは語気を強めて言った。
「宣戦布告ですっ」
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