プロローグ その2
†2
かつて、世界は死にかけていた。
古き神々の祈りは失われ、大地の加護をなくした世界は、急速に滅びへの道をたどっていた。
穢れた
――ヴィヴィアン・オールウッド著「新世界記」より
†3
【ガラテア・オールウッド ――聖王暦190年夏、ノーデンス領ルヴェンスの村】
その日……。
その村には終日、不吉な匂いを孕んだ生ぬるい風が吹いていた。いや、
(かつては村だった……)
と云ったほうが正確かもしれなかった。
なぜなら、その場所はすでに破壊されつくした後であり、かろうじて残っているのは
薄曇りの空の下で……。
村のいたるところに炭化した木片や、
真っ黒になった家畜の死骸、まだけむりのくすぶる柱、住人らしき遺体の影がある。
遺体はみな、むごたらしく焼け――なかには子供をかばったのだろう、覆いかぶさるように倒れた親子の姿もある。
「なんて、ひどい――」
そうつぶやいたのは、墓場と化した土地をゆく、ひとりの女だった。
妙齢の女である。
二十二、三だろうか。白馬にまたがる姿は、いかにも高級そうな――けれど、かろうじて胸と股間を隠す程度の――極端に露出の多いドレスを身にまとっている。
うつくしい――その姿を見た誰もがはっと息を飲み、目を奪われてしまう。そうした美貌の持ち主だった。
長身の背に、なめらかな、まるで絹のような
爆乳である。
それも大がつくほどの爆乳であり、それでいてアンバランスに見えないのは彼女の完璧なプロポーションと、しなやかにのびた、うつくしい四肢のおかげだろうか。
顔立ちは
彼女の瞳の奥には、この事態を引き起こした張本人と、さらにはその遠因となったみずからへの怒りが、炎となって渦巻いているようだった。
村の中央をゆっくりと進む彼女のうしろには、隊列を組んだ数騎の
……馬の歩みが早くなる。
ドレスの女性は、村の中心に近い、大きな屋敷の辺りまでくると、その焼け跡の前で、静かに手綱を引いた。
従者たちもまた、主の考えを
女はしばらく馬上から、その屋敷跡を見つめたのち、
「ごめんなさい、ラートリー……」
両眼に涙と深い
すると、そこに村の奥から男の騎士がひとり、落ち着いた足どりで近づいてきた。
年齢は五十前後。……中年の騎士であった。
この騎士もまた貴族なのか、見事な装飾の施されたグレーの全身鎧に身を固めている。
見たところ、なかなか押し出しのよい人物で、心身に気の
「聖王妃さま」
と、中年の騎士が話しかけた。
話す彼の手には、布の巻かれた細長い棒状のものがにぎられていた。
「シシド?」
馬上の女貴族――聖王妃と呼ばれた――が云った。
「そちらはどうでしたか」
どうやらふたり、主従であるらしい。
シシドと呼ばれた中年騎士は、主である王妃の質問に対し、その鋭く考え深い目を横へと振った。
「残念ですが」
「そう、ですか」
王妃の声には、はっきりと落胆の色があった。
灰色の騎士――シシドは手に持った布つきの棒を、王妃の前にばさっ、とひろげて見せた。
「それは?」
「村はずれで見つけました。死体を積みあげた上に、これ見よがしに」
「旗、ですか」
それは家紋をしめす旗だった。
黄色く染められた上等な布に、蛇のからみついた木が、巧みに意匠化され描かれている。
大陸南東部の豪族、小都市タルタロスを治めるラパン家の紋章だった。
美貌の王妃は眉間にしわを寄せ、次いでうめくように云った。
「マール・ラパン。ほんとうに悪趣味ですね」
「どうやら当主みずからの参陣だったようですな。その結果がこれとは、まさに《畜生公》のふたつ名にふさわしい。ずいぶんと念入りなやり口だ」
「わたしが、もうすこし早くうごいていれば……。このような事態は防げたはずでした」
唇を噛みしめる王妃。
そうした主の顔を、シシドは無感動に見つめた。
「聖王妃さまのせいではありませぬ」
「シシド……。ありがとう。ですが慰めならば無用です」
「事実です、聖王妃さま。
「真の貴族ですか。だとしても、わたしは――」
硬く思いつめた声で答えると、王妃はそっと馬から降りた。
従者のひとりがその手綱を預かる。
王妃は降り立ったその場で天を仰ぐと、どんよりと沈んだ、いまにも泣きだしそうな空をながめて、大きく息を吐いた。
「ラートリーはつらかったでしょう。死すべき定めが自分だけなら、まだしも納得できたはず。しかし、そこに生まれたばかりの我が子まで加わるとなれば」
「それは戦乱の世なれば」
シシドの答えに、王妃はほんの一瞬、彼のほうを見ると、悲しげな笑みを浮かべた。
「あなたも
そう云うと、王妃はこみあがる激情をこらえるように、ふたたび、その唇を嚙んだ。
配下である灰色の騎士は、それを困惑したような、あるいは軽蔑するような、含みのある表情で見つめていた。
また王妃が云った。
「わたしには、民を導く力などないのかもしれません」
「聖王妃さま? な、なにを申されるか。そのようなこと、けっして――」
「いいえ、シシド。わたしはわからなくなってしまったのです。王妃となった日から今日まで、わたしは必死に使命を――自分にあたえられた天命があると信じて働いてきました。ですが、ほんとうはわたしにできることなど、なにもなかったのです。
微力どころか……。王宮という伏魔殿にあって、わたしはもはや路傍の石のごとく無力でした。貴族の
ついには、たったひとりの親友さえ守れなかったのです! 結局、このような無力なわたしには、最初から民を導く資格などなかったのでしょう」
「ばかな」
雨が降ってきた。
シシドはいらだった様子でまた二言三言、王妃に励ましの言葉をかけた。
しかし、王妃は彼の言葉には答えず、ただじいっと屋敷の焼け跡だけを見つめていた。
誰もそれ以上、声をかけようとはしなかった。
次第に雨が強くなりだした。
大きな雨粒がバチバチと甲冑や、馬の体をたたきはじめたころ、すこし離れた場所から、ひとりの従者の声があがった。
「聖王妃さま! い、一大事でございますっ」
若い兵士がひとり、甲冑を鳴らして駆けてくる。
その場にいた、王妃以外の全員の視線が、その若い兵士へと向いた。
雷鳴の低い叫びが、遠くからゴロゴロと響いてきた。
灰色の騎士の眉間に、しわが寄せられた。
「何事だ、騒々しい」
つめたい視線が若い兵士をつらぬく。
にらまれた兵士は息を切らせながら、はっと体を硬直させ、あわてて濡れた地面へとひざまずいた。
「も、申し訳ありません」
「よい、話せ」
「は――」
シシドがうながすと、若い兵士は顔をあげ、緊張した
「周囲の捜索をつづけていたところ、思いがけぬ場所からひとが――」
「なんだと? まさか生き残りがいたとでも云うのか?」
「はっ」
ざわめく騎士たち。
王妃が静かに、しかし、思いつめた顔つきで振り返った。
「詳しく聞かせなさい」
「は――。見つかった人物はふたり。貴人と
「赤子? 貴人だと? 村人ではないのか?」
報告した兵士にシシドが問う。
兵士はこれに真剣な顔で返した。
「身なりのよいご婦人でございました。まず間違いなく貴族と思われます。深い火傷を負っていますが、赤子のほうは無事だそうです」
兵士の報告が終わるのを待たず、王妃ははじかれたようにうごいていた。
「ああ、ラートリー! ラートリー! ……案内しなさいっ。ふたりはどこです?」
雨のなか、廃墟を狂ったように駆けていく。
シシドも従者たちも、あわててその背を追って走りはじめた。
ほどなく屋敷の裏手に焼け残った離れの地下室――つめたい石牢のそばに、ひどい火傷を負って倒れ伏した貴族の女性と、周囲を囲んだ数名の兵の姿を認めると、王妃もようやくその足を止め――。
「医官! ふたりはどうですか、様子は?」
と、倒れている女のそばへ、息を荒くしながら膝をついた。
そばにいた軍医らしき女が、首を静かに左右へと振った。
「残念ながら、もはやラートリーさまの命は長くないでしょう。しかし、御子は無事にございます」
そう云いながら、軍医の女もまた膝を折ってしゃがむと、その腕にかかえた赤子――白い布につつまれて眠る男の子を、座った王妃の前へと差し出した。
「ラファエル! ああ、ラファエル。よくぞ無事でした……!」
王妃は両目いっぱいに涙を溜め、それから信じられないという面持ちで、すやすやと安らかに眠る赤ん坊を腕に抱いた。
そうして、また彼女は倒れている親友――かつて《謀聖》とまで呼ばれ恐れられた貴族――ラートリー・ノーデンスの、その生気の失われた――もはや死人の顔と云っていいそれを見て、
「ラートリー」
王妃はそう静かに声をかけた。
直後、ラートリーの
「その声はガラテア……?」
「ええ、わたしです。よく……。よく、がんばりましたね」
「目が……。もう目がよく見えないの。ねえ、ガラテア。わたしの坊や――ラファエルは無事?」
「安心してください、坊やは――ラファエルは無事です。あなたが守ったのですよ。栄えあるノーデンス家の嫡子を、あなたは最後まで守りきったのです」
「そう、よかった」
ラートリーが云った。
王妃――ガラテアは目に涙を浮かべ、うなずいた。
ラートリーがまたふるえる声を繋げ、云った。
「ガラテア、あなたにお願いがあるの」
「なんですか、ラートリー」
「ラファエルを……。あの子をお願い。わたしはもう、そばにいてあげられないから」
その声は自分の死を悟った諦念に満ちていた。
ガラテアは首を左右に振り、強くその言葉を否定した。
「だめです、ラートリー! 気を強く持ちなさい。あなたが死んだら、残されたこの子はどうなるのです」
「……あなたがいるわ、ガラテア。あなたならきっと坊やを――ラファエルを守ってくれるはず」
「だめです、ラートリー。あきらめてはだめ。あきらめないで、お願い――」
「ガラテア。これがわたしの最後の願いよ。もうわたしには時間がない。それがはっきりとわかるの。母親としての責任は果たせない。だから、せめて信頼するあなたにラファエルを預けたいの。
自分勝手な願いをどうか聞いてほしい。わたしには、もう残されたあの子だけがすべてよ。あの子だけが、わたしの生きた証。あの子を失えば、わたしの人生はすべて無意味になってしまう……」
「そ、そんな。ラートリー」
そこで王妃の言葉は途切れた。
彼女はもうそれ以上、親友のたのみを拒むことはできなかった。
また
ラートリーの死はもはや避けられぬ運命であり。
彼女がまだかろうじて声を発しているのは、
「お願いよ、ガラテア。愛を――。ラファエルに愛を教えてあげて。わたしがいなくても寂しくないように」
「わ、わかりました。聖王家――いえ、聖王妃ガラテア・オールウッドの名において約束します。この子はわたしが面倒を見ます。けっして独りにはしません。わたくしがこの子を愛します。あなたの代わりに、この子の――母として」
「ありがとう、ガラテア。それを聞いて安心したわ」
ラートリーはそこで眠るように目を閉じ、大きくふーっと息を吸いこむと、がっくりと頭をガラテアのひざに落とした。
そして、それきり彼女の目は二度とひらくことはなかった。
かつて《謀聖》と呼ばれたひとりの女貴族は、穏やかな静寂のなかで、夫の待つ天国へと旅立ち――親友の最期を見届けた王妃は亡骸にすがると、わあわあ、声をあげて泣きはじめた。
……赤ん坊は眠っている。
地上では暗い空が、死者を
夏の雷が、ゴロゴロとまた遠くから響いてきた。
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