第5話 聖女エルシア、倫理とおやつ
王女が住み着き、研究者が住み着き、家の人口密度がじわじわ上がってきた頃。
水車小屋の朝は、もはや“静か”とは呼べなくなっていた。
「ミル、靴が左右逆だ」
「えっ? ほんとだ! でも、あるける!」
「歩けるならいい……いや、よくない。よくないな」
ノクスは欠伸をしながらミラの靴を直し、前髪の隙間から半眼で窓の外を見る。
霧のかかった川面に、木々の影が揺れている。
世界は平和そうに見えるのに、ここの生活だけが戦場だった。
台所ではセレナが包丁を握っている。王女が包丁を握る絵面は妙に迫力がある。
横でリュミエラが焦っていた。
「セレナ殿下! その切り方だと野菜が“死にます”!」
「野菜はもう死んでいる」
「そういう意味じゃない!」
リュミエラは“研究者の真剣さ”で鍋を覗き込み、ふらっとよろけた。
「……私、徹夜で論文を書いたあと料理をすると、世界の法則が崩れる気がするんです……」
「もう崩れてる。我が家の法則が」
ノクスは淡々と言った。
ミルはテーブルの上にぴょこんと座り、両手を挙げる。
「ミル、おなかすいたー!」
その宣言に合わせたように——ドアがノックされた。
コン、コン、コン。
丁寧で、遠慮がちで、規律がある音。
セレナの背筋がすっと伸びる。
「……誰だ」
リュミエラが眼鏡を押し上げる。
「王都の使者……? それとも教会……?」
ノクスは立ち上がらない。欠伸を一つ。
「開いてるよ」
「いや、鍵がかかっているが?」
「気分的に」
セレナがため息をつき、ドアの鍵を開けた。
そこにいたのは、一人の少女だった。
白い法衣。
胸元に小さな銀の紋章。
金糸の刺繍が朝の光を受けて柔らかく輝いている。
髪は淡い蜜色で、長く、編み込みでまとめられている。
目は澄んだ水色。
表情は穏やかで——どこか、泣きそうなほど優しい。
少女は軽く頭を下げた。
「失礼いたします。聖堂より参りました、聖女エルシア=ノアと申します」
その自己紹介の“重さ”に、場の空気がぴしりと固まる。
聖女。
倫理と救済の象徴。
戦争が起これば慰撫し、疫病が広がれば祈り、国と国の争いには“正しさ”を持ち込む存在。
普通の家庭に来る肩書きではない。
セレナが一歩前に出る。
「聖女が、なぜここへ?」
エルシアは視線を室内へ向け——そこでミルと目が合った。
ミルは、口の端にパンくずをつけたまま、ぱっと笑った。
「おねえちゃん、こんにちは!」
一瞬。
聖女の顔が、ほんの少しだけ“人間の顔”になった。
驚きと、戸惑いと、嬉しさが混ざった表情。
「……こんにちは。あなたが、ミルさんですね」
「ミルだよ!」
「ミルさん……ふふ。では、ミルさん。突然ですが、抱きしめてもよろしいでしょうか」
セレナが咳払いをした。
「聖女、ロリ…コ、んんっ!」
リュミエラも慌てる。
「倫理より先に抱擁……!?」
ミルは両手を広げた。
「いいよ!」
——次の瞬間、聖女エルシアはミルを抱きしめた。
抱きしめ方が、祈りそのものだった。
強くない。痛くない。
でも、胸の奥にある“ひび”をそっと塞ぐような抱擁。
ミルはきょとんとして、すぐににへらっと笑う。
「ふわふわ!」
エルシアの肩が、わずかに震えた。
涙を堪える震え。
(……ああ。これが、報告書にあった“抑止力”……?)
エルシアは抱きしめたまま、ノクスを見た。
前髪で目元は隠れている。眠そう。やる気がない。
なのに、室内の“安全”が彼の周囲にだけ固定されているように見える。
エルシアはミルをそっと離し、改めて頭を下げた。
「ノクス・エリディオン様。お会いできて光栄です」
「眠い」
「……承知しました。端的に要件を申し上げます」
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