第4話 Consequence

 集落は、騒がしかった。


 崩れた建物は多い。壁の半分が抜け、屋根を失った家屋も珍しくない。石畳は割れ、ところどころで地面が露出している。それでも、その隙間という隙間を埋めるように、人と物が溢れていた。


 壊れた建物の前に布が張られ、即席の屋台が並ぶ。

 木箱を積み上げただけの台に、干し肉、金属部品、矢羽、布切れ、壊れかけの道具。

 怒鳴り声、値切る声、笑い声。

 銀貨が触れ合う乾いた音が、あちこちで鳴っている。


 ここは、この辺りで最も栄えている街だった。


 かつての王国都市の残骸を、そのまま市場にした場所。

 秩序はないが、流れはある。


 マックスは人波の中を歩いた。


 肩にかけた麻袋が、歩くたびに鈍く揺れる。

 中身を見ようとする者はいない。中を見るまでもなく、麻袋の丸い形と下部の赤黒いシミが中身を物語っている。


 この街では、仕事の結果に興味を持ちすぎると、命を落とす。


  屋台の一つで、銀貨を数える老人の手が止まった。老婆が肉の塊を挟んで店主に声を荒げている。


「これはこの前より少ないじゃないか!」


「脂を削いだだけだよ、量は同じさ!」


「これが前のと同じに見える目をしてたら、とっくにくたばってるよ!」


 老婆が肉を持ち上げ、指で突く。

 乾いた音がして、赤黒い汁が垂れた。


「見な。水気が抜けてる。これで銀貨二枚は取りすぎだ」


「文句があるなら買わなきゃいい!」


 周囲の客が、面白がるでも止めるでもなく眺めている。

 ここでは、揉め事もまた日常の一部だった。


 かつて王国で使われていた銀貨は、崩壊とともに一度、ただの金属になった。

 今、その銀貨に再び価値を与えているのは――水だ。


 汚染されていない水。

 飲める水。

 生き延びられる水。


 それを基準に、ドン・カノーリが流通を整えた。


 金ではない。

 理念でもない。


 生存だ。


 ドン・カノーリは、王国があった頃には名も残らない男だった。

 街角で因縁を売り、安酒に溺れ、誰の記憶にも残らない種類の人間。


 だが崩壊は、人を選ばない。

 汚染されていない井戸を最初に押さえたのが、彼だった。


 彼は水を守るために人を集め、武器を与え、

 武器を持たせた人間で、一体の取引を支配した。


 今や南部の大きな取引は、彼を通さなければ動かない。

 人の世は変わらない。崩壊を経て、王冠は失われても、支配は残った。


 マックスは集落の中央へ向かう。

  集落の中央に近づくにつれ、建物の作りが変わっていく。崩れた家屋の残骸が減り、石積みの壁が増え、見張り台が現れる。

 そして、それらを見下ろすように――かつての王国軍要塞がそびえていた。


 城塞ではない。

 だが、戦争を想定して造られた堅牢な建物だ。


 門は修復され、上には見張りが立っている。官給品ではない鎧を着た男たちが、弓とクロスボウを構えていた。


 ドン・カノーリの根城。


 マックスが門へ向かうと、見張りの一人がすぐに声をかけた。


「おう、戻ったか」


 敵意はない。

 緊張もない。


 マックスは立ち止まり、肩からおろし門番に見せる。


「届け物だ」


 短く言う。


 見張りの男は袋を一瞥し、口の端を歪めた。


「……派手にやったな」


「運ぶのが面倒だった」


 マックスはそれ以上説明しない。


 門が開き、マックスは要塞の中へ通される。


 内部は、盗品で溢れていた。


 武器、装飾品、絵画、家具、壊れた魔導具。

 価値の有無ではなく、「奪えたかどうか」で集められた品々。


  その奥、かつて司令室だった部屋に、ドン・カノーリはいた。


 ふくよかな身体を椅子に預け、上質な服に身を包んでいる。指輪が光り、首元の金属の鎖が揺れた。


「マックス〜。無事だったようだな」


 友人のような声色だった。ブルートが口を開くたび趣味の悪い金色の入れ歯が蝋燭の光を反射してチラチラ光る。


「ブルートだ」


 マックスはカノーリの机の上に麻袋を放る。


 カノーリは結ばれた袋の口袋を開け、中身を確認する。


「……南方軍の英雄も、こうなるか」


「賞金は?」


 感想を求めていない声だった。


「約束通り、五十枚だ」


 金貨の袋が差し出される。カノーリは悪党ではあるがケチではない。仕事には相応の対価を与える男だ。マックスは袋を受け取り、数えずにすぐに腰に下げた。


 一瞬の沈黙。


「水を買う」


 マックスが言った。


 ドンは即座に部屋の端にいる部下に視線を送る。


 部下が部屋の隅から、蛇口のついた大きな樽を運んでくる。

 樽の木肌は新しく、丁寧に管理されていることが分かる。


 マックスは水筒を取り出し、無言で差し出した。


 部下が蛇口をひねる。

 透明な水が流れ落ち、水筒が満たされていく。


「五枚だ」


 マックスは金貨を五枚、机に置いた。


 水筒の栓が閉められる。


 マックスはそれを受け取り、背負い直し無言で振り返り部屋の出口へ歩き始めた。


「相変わらずだな」


 ドンは椅子にもたれ、声を落とした。


「なあ、マックス。いい加減、考えないか」


 マックスは立ち止まらない。


「俺の私兵の話だ」


「……」


「寝床も、水も、食い物もある。賞金稼ぎは不安定だ。命を削って、日銭を稼ぐ。お前ほどの腕なら、もっと楽に生きられる」


 マックスは扉の前で一度だけ足を止めた。


「考えておく」


 振り返らずに言う。


 それ以上の言葉はなかった。


「そう言うと思った」


 ドンの笑い声を背に、マックスは要塞を出た。


 集落の喧騒が再び耳に戻る。


 彼はそのまま集落を離れ、荒野の端にある自分の野営地へ向かった。


 小さな焚き火。

 簡素な寝床。


 マックスは水筒を取り出し、金属製のボウルに水を注ぐ。

 透明な水面に、夜の火が揺れた。


 小さな鏡を地面に置き、覗き込む。


 砂埃。

 血の跡。

 疲労。


 知らない顔ではない。


 マックスは水をすくい、口に含んだ。

 喉を通る冷たさが、確かに生きている感覚を残す。


 残りの水で、顔を洗う。


 汚れが落ち、皮膚が冷える。


 再び鏡を見る。


 少しだけ、顔が戻った。


 だが、それだけだ。


 英雄でもなく、騎士でもなく、

 ただの賞金稼ぎの顔だった。


 マックスはボウルを伏せ、焚き火の前に座る。


 夜が、静かに降りてくる。


 崩壊を経て尚、この世界は続いている。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


17年前 アウレリア王国南方


レッドリッジ要塞にて


 砦の中庭は、異様なほど整えられていた。


 赤土を踏み固めただけの地面は水を撒かれ、埃一つ立っていない。砦を囲む赤い岩肌が朝の陽を受け、鈍く光っている。普段なら血と汗と鉄の匂いが混じる場所だが、この日ばかりは香油が焚かれ、空気は不自然なほど澄んでいた。


 兵士たちが整列している。


 南方軍第七混成連隊。

 半壊した部隊を寄せ集めた即席の編成だが、今日だけは誰もが正装に近い装備を身に着けていた。鎧は磨かれ、剣は鞘に収められ、盾の傷は布で覆われている。


 儀式のためだ。


 マキシミリアンは、列の前方に立っていた。


 まだ若い。

 二十にもなっていない顔だった。

 頬の線は細く、目の奥には落ち着きがない。戦場で磨かれた鋭さよりも、どこか少年の面影が残っている。


 だが、彼の胸元には、白い布がかけられていた。


 勲章を授与される者の印だ。


 周囲の視線が、刺さる。


 称賛。

 羨望。

 誇り。

 そして、期待。


 それらすべてが、マキシミリアンの背に重くのしかかっていた。


 ——自分は、ここに立つ人間ではない。


 その思いが、喉の奥で繰り返されていた。


 太鼓が鳴る。


 乾いた音が、砦の壁に反響し、空へと抜けていく。


 上官たちが現れる。

 南方軍司令官、その補佐、王都から派遣された使節。

 誰もが立派な装いで、戦場とは無縁の清潔さを纏っている。


 司令官が一歩前に出た。


「——これより、アウレリア王国南方戦線において、顕著な功績を挙げた兵士への勲章授与を行う」


 声はよく通る。

 訓練場で何度も聞いた声だが、今日は違って聞こえた。


「名を呼ばれた者は、前へ」


 一人、二人と名前が呼ばれる。

 補給路を守った者。

 負傷兵を救った者。

 魔王軍の斥候を撃退した者。


 そして——


「——マキシミリアン」


 その名が響いた瞬間、ざわめきが走った。


 若い。

 無名。

 だが、今回の戦果の中で、最も大きなものをもたらした存在。


 マキシミリアンは、一歩前に出る。


 足が重い。

 鎧の中で、心臓が早鐘を打っている。


 司令官が彼を見下ろす。

 視線は厳しいが、そこには確かな評価があった。


「お前の行動により、魔王軍南方第六軍団の進軍計画が露見した」


 ざわめきが大きくなる。


「その情報は、前哨基地へと即座に伝えられ、我が軍は奇襲を回避し、逆に敵の側面を突くことに成功した」


 王都の使節が頷く。


「結果として、南方戦線の崩壊は免れ、多くの命が救われた」


 司令官が、勲章を掲げた。


 金属製の勲章。

 太陽を象った意匠。

 王国の象徴。


「この功績を称え、マキシミリアンに王国功労章を授与する」


 拍手が起こる。


 兵士たちの拍手。

 上官たちの拍手。

 称賛の嵐。


 司令官が、マキシミリアンの胸に勲章を留める。


 金属の冷たさが、布越しに伝わった。


 ——違う。


 その瞬間、マキシミリアンの頭に浮かんだのは、その一言だった。


 違う。

 これは、自分のものではない。


 司令官が続ける。


「若くしてこの功績。恐怖に打ち勝ち、敵中にあっても冷静さを失わなかった」


 ——恐怖に、打ち勝った?


「次代を担う者として、誇りに思え」


 拍手がさらに大きくなる。


 誰かが言った。


「次の勇者候補だな」


「天性の英雄だ」


「王都に呼ばれるかもしれんぞ」


 言葉が、刃のように突き刺さる。


 マキシミリアンの視界が、一瞬揺れた。


 ——恐怖に打ち勝った?


 違う。


 違う。


 彼は、恐怖に打ち負かされたのだ。



 初陣だった。


 南方の荒野。

 赤い砂。

 魔王軍の奇襲。


 本来、戦うための部隊ではなかった。


 この部隊は、兵員補充のために編成された寄せ集めだった。前線へ向かう途中、空いた穴を埋めるために送られる――ただそれだけの役割。

 全員が基礎訓練を終えたばかりの新兵で、実戦経験は誰一人として持っていない。


 剣の振り方は知っている。隊列の組み方も、号令への反応も叩き込まれている。

 だが、それはすべて演習場の話だった。


 出発の日、兵舎の空気は妙に軽かった。

 誰かが「前線に着いたら本物の酒が飲めるらしい」と言い、別の誰かは「功績を立てれば勲章だ」と笑った。戦争を、遠足か何かの延長のように語る声があった。


 マキシミリアンも、その中にいた。

 浮かれてはいなかったが、疑ってもいなかった。

 訓練通りに動けば、命令通りに剣を振れば、生き延びられると――どこかで信じていた。


 奇襲は、準備を終える前に来た。


 号令がかかるより早く、空気が裂けた。

 次の瞬間、最前列にいた指揮官が倒れた。

 叫び声すら上げなかった。

 胸を貫かれ、砂に沈み、そのまま動かなくなった。


 最初に死んだのが、一番経験のある男だった。


 命令は続かなかった。

 誰も引き継がなかった。

 誰も、どうすればいいか分からなかった。


 剣の音。

 悲鳴。

 血。


 隊列は崩れ、教えられた動きは意味を失った。

 訓練で覚えた言葉は、喉から出てこなかった。


 マキシミリアンは、走った。


 逃げた。


 勇敢でもなければ、冷静でもなかった。

 ただ、生きたかった。


 足がもつれ、転び、衝撃で息が詰まる。


 その上に、誰かが倒れてきた。


 重い。


 温かい。


 血の匂い。


 仲間の死体だった。


 マキシミリアンは、その下に潜り込んだ。


 息を殺した。

 歯を噛みしめた。

 剣を握ることもできず、ただ震えた。


 魔王軍の兵士たちが、すぐ近くを歩いていた。


 会話が聞こえた。


「……南から回り込む」


「夜明け前だ。人間どもは、また正面を固める」


「計画通りだ」


 理解するより先に、記憶に刻まれた。


 彼は、動かなかった。


 動けなかった。


 恐怖で、身体が凍りついていた。


 やがて、足音が遠ざかった。


 静寂。


 マキシミリアンは、長い時間、そのままだった。


 死体の下で。


 泣きそうになりながら。


 生き延びたことに、安堵して。


 ——そして。


 前哨基地に辿り着いた時、彼はただ、聞いたことを伝えただけだ。


 勇敢な偵察でもなければ、潜入でもない。


 偶然だ。

 逃げた結果だ。


 恐怖が、運を連れてきただけだ。



 司令官の声が、現実に引き戻す。


「マキシミリアン。何か言うことはあるか」


 視線が集まる。


 期待の眼差し。

 英雄の言葉を待つ顔。


 マキシミリアンは、口を開いた。


 だが、言葉が出ない。


 ——違う。

 ——これは、俺じゃない。


 そう言えたなら、どれだけ楽だっただろう。


 だが、言えなかった。


 彼は、ただ。


「……王国のために」


 そう言った。


 それしか、言えなかった。


 拍手が起こる。


 称賛が降り注ぐ。


 その瞬間、マキシミリアンは悟った。


 ——この勲章は、重い。


 ——これを受け取った瞬間から、自分は「英雄」になってしまった。


 真実は、誰も知らない。


 そして、誰も知ろうとしない。


 彼の胸に光る勲章は、真実よりも価値があるのだ。



 式が終わり、兵士たちが散っていく。


 声をかけられる。


「おめでとう、マキシミリアン」


「すごいじゃないか」


「俺たちの誇りだ」


 彼は、笑った。


 ぎこちなく。

 下手に。


 その夜、彼は一人、砦の壁の上に立った。


 荒野を見下ろす。


 赤い砂。

 沈む太陽。


 胸元の勲章が、重く揺れる。


 ——俺は、ここに立つ人間じゃない。


 ——だが、もう戻れない。


 英雄として、生きるしかない。


 そう決めたのは、勇気ではない。


 逃げ道が、なかっただけだ。


 その選択が、後に彼をどこへ連れていくのか。


 この時のマキシミリアンは、まだ知らなかった。


 ただ一つだけ、確かなことがあった。


 ——この偽りの報いはいつか必ず訪れる。


 静かな予感が、胸の奥で確かに息づいていた。

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終末神話 @Tyler_Thompson

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