第2話 Big Iron
町は、風に削られていた。
崩れた石壁。屋根を失った家々。窓という窓は黒い穴になり、扉は外れ、柱は斜めに傾いている。砂埃が舞うたびに、そこがかつて誰かの暮らしの場所だったことだけが、逆に痛々しく浮かび上がった。乾いた空の下で、瓦礫は影を作り、その影は短く、逃げ場のない形をしていた。
焼け落ちた教会が、町の中心に残っている。残っているというより、立ち尽くしていると言った方が正しい。尖塔は途中で折れ、鐘楼は煤で黒く塗り潰され、壁面の装飾は剥がれ落ちている。床には瓦と灰が積もり、祈りのための椅子は折れて散らばり、祭壇だった場所は崩れている。神像は倒れ、砂の中へ半分埋もれていた。
それでも町には人の影があった。
生き残るための影だ。何かを築くための影ではない。影は小さく、素早く、周囲を窺いながら動く。目が合えばすぐ逸らし、声を出さず、足音を立てない。善悪より先に、生存がある場所の動きだった。
町の端に、酒場が一軒だけ灯りを残していた。
看板の文字は剥げ落ちて読めない。壁はひび割れ、窓は板で塞がれ、扉の蝶番は錆びている。だが隙間からは油の匂いと、酒の酸い匂いが漏れ、灯りが細く滲んでいた。ここは町の最後の肺だ。息をしている場所は、自然と獣と人間を寄せ付ける。
そこへ、三つの影が近づいてきた。
男が二人。女が一人。女の手首は荒縄で縛られ、首には縄がかかっている。縄の端を男のひとりが握り、引きずるように歩く。女は転びそうになりながら足を出すが、歩幅が合わないたびに喉元へ縄が食い込み、肩が跳ねた。頬には涙と砂が貼りつき、唇は乾き、息は浅い。だが声は出ない。出せないのか、出しても意味がないと理解しているのか、そのどちらかだった。
男たちは周囲を見ない。崩れた教会にも、瓦礫の路地にも、焦げた家々にも目を向けない。女を運ぶのは荷物を運ぶのと同じだ。目的地に着けば価値になる。途中の景色は関係がない。
三人は酒場の前で立ち止まり、軋む扉を押し開けた。
蝶番が鳴る。乾いた音が店内へ転がり、すぐに吸い込まれていく。
中は外より少しだけ暖かい。だがそれは火の暖かさではなく、人が吐く息と酒の熱が溜まっているだけの暖かさだった。空気は重く、酒と汗と鉄の匂いが混じり合い、喉の奥に薄い膜を作る。
カウンターの奥に店主がいる。老いた男だが、目はまだ鋭い。鋭い目ほど、見ないことを覚えている。見れば巻き込まれる。巻き込まれれば死ぬ。ここでは、それが常識だった。
客が数人。壁際に背を預け、杯を舐めるように飲む者。隅の席で黙って干し肉を噛む者。小声で何かの取引をしている二人組。誰も大声を出さない。騒げば騒ぎが寄ってくるのは、荒野だけではない。町の中にも、騒ぎを餌にするものがいる。
そして、テーブル席の大部分を占領している集団がいた。
十人ほど。革片と金具を適当に縫い付けた装備。剣、斧、棍棒、短槍、短剣。腰に投げナイフを差している者もいる。背に弓を負い、矢筒をぶら下げた者が二人。クロスボウを無造作に椅子へ立てかけている者が一人。顔には古傷、歯は欠け、目つきは獣に近い。酒瓶が転がり、皿は乱雑に積まれ、脂と埃が混ざった痕がテーブルに残っている。
男二人は女をそのテーブルの端へ押し込んだ。椅子に座らせるというより、投げ込む。背中が木にぶつかり、息が詰まる。縄で縛られた手首が椅子の背に擦れ、皮が剥けた。男たちは縄を短く結び直し、逃げられないよう固定する。結び目は乱暴で、ほどけない。ほどけない結び目は、この世界の“親切”だ。ほどければ希望を持ってしまう。希望は、痛みを長引かせる。
レイダーたちは女を見た。哀れみではない。値踏みだ。家畜を見る目と同じだ。金になるものは、生き物でも金になる。
「さて……」
ひとりが酒をあおり、口元を拭う。
「この顔、売れるか?」
「売れるだろ。泣き顔は唆る。下手な商売女よりこっちのが良いって奴までいる」
「身代金の話だよ。売るのは最後でいい」
「最後まで生きてりゃ、な」
笑いが起きる。乾いた笑いだ。笑いの裏に薄い恐怖が張り付いている。恐怖を隠すために笑う者が多い集団ほど、残酷になる。
「親は?」
「まだ生きてる。家は半分壊れてたが、蔵はまだ綺麗に残ってるって話だ」
「蔵が残ってるなら、金がある。金か、食い物か、塩か……何でもいい。とにかく“払える”」
「払わせる方法はいくらでもある」
別の男が指を鳴らす。
「段階を踏め。最初は少なめに言え。『まだ助かる』って思わせろ」
「希望は高く売れるからな」
「希望ってのは、結局、金の形をしてる」
「違いねえ」
酒が回り、会話が少しずつ下卑ていく。
「最初は金貨で……百。いや、二百だ。泣きついてきたら三百に上げる」
「金貨三百? この町の人間にそんな金が残ってるか?」
「残ってなくても、借りる。借りるってのは、結局どこかの誰かが払うってことだ」
「払わなきゃどうする?」
「指を一本、送る。次は耳。次は目玉」
「目玉は早い。すぐ死ぬ」
「死なせなきゃいい。殺さなければ何をしてもいいだろ?」
誰かが言って、数人が笑った。
「商品は壊すな。壊すと値が落ちる」
「壊さない範囲なら、遊べる」
「遊びたいなら、まず使い道を決めろ。身代金が入ったら何にする?」
「まず水だ。井戸の位置を知ってる奴がいる。あいつは地図を持ってる。地図は高い」
「塩はどうだ。塩がなくなると肉が腐る。肉が腐ると冬に死ぬ」
「矢も要る。矢は折れる。矢は消耗品だ。矢を作れる奴を捕まえるか?」
「捕まえるより買え。捕まえたら面倒見なきゃならなくなる。矢ぐらいなら買った方が安い」
「酒もだ。酒は命だ。酒があれば冬が短くなる」
「冬は短くならねえ。頭が鈍くなるだけだ」
「鈍い頭は生きやすい」
「馬も欲しい。今回みたく"荷物"を連れて歩くと骨が削れる。それに馬があればもっと"商売"の手を広げられる」
「俺は女が欲しいな」
言葉が、何でもないように落ちた。
女は俯いている。肩が震えている。涙が膝に落ち、埃と混ざって黒い点になる。喉が鳴り、息が嗚咽に変わる。
「生きてりゃ価値がある、殺さなきゃ良い、か、、、」
「殺さなきゃ、何したって同じだ」
手が伸びる。襟元へ。結び目へ。女の身体が引き寄せられる。縄で縛られているから抵抗はできない。椅子が軋み、床が擦れる音がする。客たちはさらに目を伏せた。店主は瓶を拭くふりをして、何も見ない。
その時だった。
カウンターの側から、低い声が落ちた。
「静かにしろ。ここは酒場だ」
声は大きくない。怒鳴り声でもない。
それなのに、油の炎が揺れるほど、空気が変わった。
「盛るんなら、他所でやれ」
レイダーたちの視線が一斉にカウンターへ向かう。
そこに男がいた。
背を向けて座り、杯を傾けている。外套は擦り切れ、砂の色に汚れている。背中は広くないが、無駄な肉がない。腰には剣。鞘は古いが、手入れが行き届いていて、鈍い光を返している。金具にはかすれた意匠が残っていた。王国の紋章――今となっては嘲笑の対象でしかないはずの印だが、その剣だけは嘲笑を許さない重さを持っている。
レイダーのひとりが立ち上がり、椅子を蹴ってわざと大きな音を立てた。
「……なんだてめぇ?」
男は無視して酒を飲む。
「舐めてんのか?」
返事はない。杯の底を傾け、喉を鳴らすだけだ。
三人が立ち、男を囲む。背後は壁。左右は棚とカウンター。逃げ道は狭い。囲まれれば終わり――普通の理屈なら、そうなる。
だが男は動かない。背を向けたまま、杯を置いた。
別のレイダーが、口の端を吊り上げる。怒鳴らない。怒鳴るのは負け犬だ。ここで必要なのは、楽しむ余裕だ。
「兄ちゃん、いい剣ぶら下げてんな」
男の腰を見て言う。
「王国の紋章まで入ってやがる。高ぇんだろ、そいつ」
男は振り向かない。
「お互い面倒は嫌だろ?」
もうひとりが続ける。まるで親切な提案みたいに。
「それ置いて、店から出て行きな」
「そうすりゃ見逃してやる」
男は杯を持ち上げ、もう一口飲んだ。
沈黙。
沈黙が続くと、世界は不安になる。不安は暴力を呼ぶ。
囲んだレイダーのひとりが、腰のナイフを抜いた。刃は短いが、使い込まれている。柄の革は汗で黒い。
彼はそれを、カウンターへ突き刺した。
鈍い音。
刃が木に食い込み、震えが腕に返る。
「置け」
近い距離で言う。
「今なら指一本で済む。反抗すりゃ、もっと減る」
男は、ようやく動いた。
ナイフの柄を掴む。抜く。
抜いたそのまま――振り向く動作と一緒に、刃が走った。
刺したのではない。
当てたのでもない。
“入れた”。
ナイフは、レイダーの眼窩へ吸い込まれるように突き立った。
骨の感触。眼球の抵抗。奥で何かが弾ける鈍い音。
レイダーは叫ばなかった。叫ぶ前に膝が崩れ、身体が床へ滑り落ちる。口から泡が出て血が混ざり、喉が鳴る。手足が数回跳ね、それで終わった。
一拍の静寂が、店内に落ちる。
次の瞬間、空気が裂けた。
「やりやがった!」
「殺せ!」
「囲め!」
「弓! 撃て!」
「いや、近づくな、剣が――!」
椅子が倒れ、瓶が転がり、客が壁際へ逃げる。店主はカウンターの下へ潜り込み、耳を塞いだ。祈っても届かないが、耳を塞げば音だけは遠ざかる。
男は立ち上がる。
腰の剣に手をかけた。
抜刀の音は澄んでいた。荒野の音ではない。かつて整然とした訓練場で鳴っていた鋼の音だ。だが今、その音が似合う場所はどこにもない。だからこそ異物として刺さる。
最初に飛び込んできたのは棍棒の男だった。
大振り。力任せ。頭を潰すためだけの動き。
男は半歩だけ角度をずらす。棍棒が空を切り、カウンターの端を叩き割る。木片が飛ぶ。その木片が空中にある間に、剣は喉へ入っていた。薄い線。次に赤い線。棍棒の男は斬られたことに気づく前に咳をした。咳と一緒に血が出る。膝が折れ、倒れた。
二人目は斧。
振り下ろし。刃が重い。腕が太い。
男は剣で受けない。受ければ腕が死ぬ。
斧が落ちる瞬間、身体を近づける。斧の内側へ潜る。距離が潰れる。重い武器は距離が潰れるとただの棒になる。男は肩で斧の柄を押し上げ、同時に剣を脇腹へ滑り込ませた。刃が肋の間を通り、柔らかいものを裂く。斧の男は息を吸い、吐けない。目が見開かれ、そのまま崩れた。
テーブル席の方から矢が飛んだ。
弦の鳴る音。木が震える音。矢羽が空を裂く音。
男は飛び退かない。飛び退けば次が来る。
身体を沈め、矢を肩の外側へ逸らす。矢先が外套を裂き、布が舞う。矢は壁へ刺さり、震えたまま止まった。
矢を放った者が二本目を番える前に、男は距離を詰めていた。
踏み込みが速いのではない。無駄がない。到達が早い。
剣が短く走り、弓の腕を断つ。弓が落ちる。叫びが上がる前に喉が裂ける。
クロスボウの男が慌てて引き金に指をかける。
だが狭い店内で、重い機構は遅い。
男はテーブルを蹴り、皿と瓶を飛ばす。飛んだ瓶がクロスボウの腕に当たり、引き金がずれる。矢は床へ刺さり、虚しく跳ねた。
次の瞬間、剣がクロスボウの喉を横に通った。
床は滑り始めていた。
酒と血が混じり、油が混ざり、靴裏がわずかに沈む。普通なら足が取られ、転び、終わる。だが男は滑る床の上で滑らない歩き方をしている。重心が低い。踵を使わない。足裏全体で地面を掴む。訓練の癖だ。訓練の癖は、世界が終わっても身体に残る。
数は多い。だが彼らは統率されていない。
誰も先頭になりたくない。先頭は死ぬからだ。
恐怖が円を作り、円が狭い店内を塞ぐ。塞いだ円の中は、男の領域になる。
男は止まらない。
剣が横に閃き、前腕が裂ける。武器が落ちる。
落ちた武器を拾おうとした瞬間に足が切られる。床に転がる。転がった身体の喉へ刃が入る。躊躇がない。確認がない。死体の検分をするような冷静さがある。
背後から投げナイフが飛ぶ。
金属の回転する音。
男は振り向かず、肩を僅かに落とす。刃が外套を掠め、壁へ突き刺さる。次のナイフが来る前に、投げた男の胸へ剣が入っていた。距離の感覚が、普通の人間と違う。男は“今ここにある刃”だけを見ている。刃の先にいる人間の顔など、どうでもいいというように。
ひとりのレイダーが、剣を構えながら男の動きを見ていた。
他の者とは違う。距離を見ている。武器の形ではなく、身体の癖を見ている。
男が一人を斬り、次へ移る。その動き――踏み込み、引き、返し。
剣の振りではなく、体の移動。無駄のない角度。
そのレイダーの顔が、僅かに青くなる。
「……この動き」
唇が震える。
「その剣……貴様、もしや――」
言葉は、最後まで届かなかった。
男が斜めに踏み込み、剣が横に走る。
喉が裂け、言葉の残骸が泡になって出た。膝が床に当たる鈍い音がして、身体は崩れた。正体を確かめる暇を与えない。確かめられれば、過去が追ってくる。過去が追えば、今が崩れる。男はそれを理屈ではなく、本能で知っていた。
残りは、少ない。
レイダーたちは次第に距離を取った。
だが距離を取れば取るほど、酒場という狭い空間では逃げ場がなくなる。背中が壁へ近づき、椅子へぶつかり、仲間の死体に足を取られる。恐怖は足を重くし、重い足は刃の前で遅い。
最後の一人が武器を落とした。
金属が床へ当たる音がした。
それは敗北の音だ。
「……降参だ」
男は、その声を聞いているのかいないのか分からない顔で剣を下げた。下げたが納めない。納めるのは勝ったときだ。勝ったかどうかは、相手が死ぬか、武器を捨てるか、逃げるか、そのどれかでしか判定できない。
男は最後の男を見ない。
歩いた。女の方へ。
女は椅子に縛られたまま固まっている。目は開いているのに焦点が合っていない。現実が現実すぎて、脳が拒否している。膝の上に落ちた涙は、いつの間にか乾いていた。
男は床に落ちていた短剣を拾い、結び目へ刃を当てる。
縄が切れ、女の腕が自由になった。女は痛む手首を胸の前に抱え、息を吸った。呼吸が戻る。呼吸が戻るだけで生き返るものがある。
男は短剣を女の掌へ押し当てた。
刃を持たぬように、柄だけを。
女の指が震えながらそれを掴む。掴めば、何かが変わる。掴まなければ、何も変わらない。
「お前が決めろ」
それだけ言って、男は背を向けた。
カウンターへ戻り、残っていた酒瓶を掴む。瓶の口を唇に当て、残りを飲み干す。喉が鳴る。酒はまずい。だが酒は喉を通る。通るものは価値がある。通った後は、少しだけ世界が鈍る。鈍る世界は、生きやすい。
鞄を肩に掛ける。革の擦れる音。金具の小さな鳴き声。
剣を納める。納める音は静かだった。戦いが終わった音ではない。日常へ戻る音だ。この男にとって血は日常だった。
扉へ向かう。
扉の前でほんの一瞬だけ足を止める。背中を見せているのに、最後のレイダーは動かない。動けないのか、動かないのか。どちらでも同じだ。
男は扉を押し開けた。
砂埃が吹き込み、油の炎が揺れた。
外の風は冷たく、乾いている。焼け落ちた教会の灰が舞い、町の骨を撫でる。空は相変わらず高く、雲は薄い。終末の空は、いつだって綺麗だ。
男は、その中へ消えた。
酒場の中には、しばらく音がなかった。呻き声も、泣き声も、怒鳴り声もない。
ただ、短剣の柄を握る女の呼吸だけが、少しずつ整っていく音があった。
床に広がった血は、砂と混ざり、黒い泥になっていった。
この町は何も変わらない。変わらないまま、また明日を迎える。
――腰に下がった“アウレリア王国勇者の剣”だけが、鈍い光を残して。
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