第二話 「港町の王子様」①
家に帰ってきてアニカが最初にするのは手洗いうがいだ。自身の風邪の予防なども理由に入るが、何よりもファニーへの気遣いのため。これは父も母も同じであるが、猟師として外に出るアニカにはとにかく徹底されていた。
お決まりの行動を済ませて、アニカは装備類や帽子を自室に置いてから髪飾りだけを持って妹の部屋に向かう。さして広くはないハインツマン家の家屋は端から端まで往復しても十分もかからない。両親の部屋の前を通り過ぎ目的の場所までたどり着くと、アニカはノックして返事を待たずに戸を開けた。
「おはようファニー。起きてる?」
挨拶をしながら中に入ると、すでに雨戸もカーテンも開けられており、たくさんの朝日が部屋中にそそぎこまれている。南と東に窓があるためこの部屋はこの家で一番明るい。その昔、アニカの部屋だった部屋だ。
「あ、おはようお姉ちゃん。もう朝の修行終わった?」
部屋の明るさに負けないくらい元気に微笑むファニーは、腰掛けていたベッドから飛び出してパジャマのまま姉に抱きつく。憎々しいほど健やかに育った身体の割に両親、そしてアニカの過保護のためにファニーの言動は14歳にしては幼い。
「っ、ええ、ファニーはもう熱平気?」
抱きつかれるとちょうどその豊満な胸に顔がうずまる。アニカが男でかつファニーが妹でなければ喜んでいたかもしれないが、残念ながらこの脂肪の塊はアニカにとって敵でしかない。それでも怖い顔をするわけにいかないので胸から顔を遠ざけて無理やり笑った。
「もう大丈夫だよぉ。お父さんもお母さんも心配性だよね、私もうこんなに元気なのにね」
しかしファニーはアニカのそんな内心の戦いは知らずに明るい表情を見せる。垂れ目気味の碧眼を細めて微笑み、緩やかなウェーブのかかった金の髪を揺らす姿は妹ながら可愛らしいものだ。姉としてそれが誇らしく、女としてそれが苦かった。
「おはようファニー。あら、アニカ帰ってたのね。おかえりなさい」
戸を開けて入ってきたのはふたりの母親であるグレーテだ。にこりと笑う母にアニカもまた笑い返して「ただいま」と返す。
「朝ごはん出来てるからふたりとも降りてらっしゃい」
「はーい」
「はーい。あ、ファニー。これ」
思い出してアニカが手にしていた箱を渡した。咄嗟に受け取ったファニーは、一瞬それが何か分からなかった。だが、その箱が先日購入した髪飾りを入れていたものだと思い出して、ぱっと期待と喜びを表情に広げる。
「綺麗になったの? わーい、ありがとうお姉ちゃん!」
箱の蓋を開け、ファニーは中から髪飾りを取り出した。最初アニカが言っていた〝駄目な所〟はファニーには難しくてよく分からなかったが、こうして綺麗になった状態を見ると本当に汚れていたのがよく分かる。
「ねえねえ、似合う?」
髪飾りを頭に当て無邪気な笑みを浮かべるファニーに、大柄の花のモチーフはよく似合っていた。アニカは一瞬唇の内側を噛んで微笑む。
「似合ってるよファニー。可愛い」
アニカがそう言うと、大好きな姉に褒められたファニーは他では見せないような底抜けに嬉しそうな笑顔を浮かべた。そして「お母さんたちにも見せてくる」とはしゃいだ様子で部屋を飛び出していく。それを少し呆れたような笑みを浮かべて追いかけようとしたアニカは、しかしふと足を止めた。
彼女の視線を捉えるのは壁に沿うように置かれた据え置き型の立ち鏡。そこに映る自身の姿。
年齢不相応な低い身長。薄い胸、尻。仕事中に邪魔になるから伸ばせない髪。吊り気味の双眸。どこからどう見ても、十代の少年だ。
思わず、ファニーの前で隠し通した表情が浮かぶ。苦く歪んだその表情が醜くて、アニカは現実から逃げるように視線を逸らして部屋を出た。
朝食を取りながら、アニカは今日は何をするかと考える。一斉ではないが猟師にもちゃんと休日はあり、何人かのグループに分けて順番に休むことになっている。アニカはちょうど今日がその日であり、昨晩あれだけ酒を飲んだのも休みの前であったからだ。いくら強いとはいえ、翌日の仕事に不安な影を落とすことになりかねない飲酒をアニカは好まない。本日仕事なのに飲んでいた連中は全員一度は注意してやっている。これで聞かないなら後は本人の責任だ、とアニカの思考は厳しい。
ちなみに、アニカがちゃんと休日を取ることは実は珍しい。彼女が素直に休むのは自身の誕生日くらいであり、いつも休日は修行と称して森に入っている。そして何だかんだで仕事のヘルプをしていたため、この三か月ほどは働き詰めであった。アニカ本人が「ちょっと手伝っただけ」と主張していたためなあなあになっていたが、流石にギルド本部がある地でいつまでもその主張は通じなかった。
これまでの行動は「休日出勤」となってしまい、必要分の給料の支給が決定。さらにふた月以内に数日の代休を取ることを〝強制〟されてしまい、駄目押しに本日は決して森に入らないようにとすら言いつけられてしまった。休みを取らせるのに謹慎処分まで持ち出された猟師は、この数年でアニカだけだと人材管理の女性に笑われた。
フォークを噛みながらアニカは唸る。休みの日というのは何をするものであっただろうか、と。
通常この年頃であれば買い物なりに興じることが多いであろうが、最近はファニーに付き合って出かける時に済ませてしまうので、先日出かけたばかりの現状では出かける理由がなかった。そもそも、幼少期から祖父ベルンハルトによる修行漬けであったために、その辺りの知識や欲求がアニカは極端に低い。「買い物に行く」という選択肢は浮かんだ瞬間に彼女本人から「用事がない」と内心で一蹴されてしまった。
仕事、もしくはそれに準じることを行ったら「命令違反」で謹慎処分になってしまう以上、彼女に唯一残されていた修行という時間つぶしすら使えない。今朝のレギナルトとの訓練も「新入りの習慣づけ」という名目で説得してようやく勝ち得たものだ。部屋でじっとしているしかないのだろうか、と頭を抱えたその時、突然肩を揺すられる。
はっとすると、真正面に座っていたはずの父・ニコラスが椅子から立ち上がり机の上からアニカの肩を緩く掴んでいた。
「アニカ、大丈夫か?」
父からの心配そうな問いかけに、アニカは少し困ったように笑う。
「大丈夫よお父さん。今日の休みどうしようか迷ってただけだから」
「そうか? ならいいけどな……ああそうだ、アニカ休みならファニーと散歩行って来たらどうさ? 本当はお母さんが行くはずだったけど、アニカの方が何かあった時に安全だろ?」
名案を思いついたというような笑顔でニコラスはアニカ、グレーテ、ファニーと順番に見ていく。アニカは咄嗟に返事が出来なかったが、母と妹は笑顔を返した。
「あら、アニカがいいならお願いしてもいいかしら? お母さん今日、刺繍教室だから少ししか付き合えなくてどうしようと思ってたのよ。あ、でもあんまり長く出歩くのは駄目よ。病み上がりなんだから」
「もう大丈夫だってばぁ。ねえお姉ちゃん、一緒にお散歩行こうよ! ……あ、でも、だめなら、ひとりで行けるよ?」
正面から、斜め前から、隣から、期待する視線をよこされ、アニカは内心でため息をつく。これはもう話を聞かない流れだ、と。若干強引さを感じないではないが、時間が少しでも潰れるならそれがいいだろう。寄こされる視線に、アニカは笑い返した。
「はいはい、分かりました。いくら
アニカが肩を竦めると、両親は同意するように笑い、ファニーは抗議の意味を込めて頬を膨らませる。しかしいくらむくれられても彼女を一人で出歩かせるつもりは家族にはなかった。
熱が下がったばかりとはいえ14歳の少女だ。自分の町を出歩くのにそこまで厳重になることは傍から見れば異常な光景かもしれない。アニカも外から見る側であったらおかしいと思うだろう。しかしそれはファニーが普通の少女であった場合だ。
ファニーは未熟児として生まれ、さらに病気に対する抵抗力が低かったため幼い頃はベッドから起き上がれないほどに体が弱かった。それこそ、生まれた時に産婆に「長くは生きられないかもしれない」と言われたほどだ。
今でこそ基本的に健康で人目を引く体型にまで成長したが、今でも無理をすると体調を崩すし、心身的に負担が増えると過呼吸や痙攣などの症状が出やすくなる。ヴァインシュトックは猟師が順番に警邏隊を組んで巡回しているのでよそに比べれば警備がきつく安全な町だ。しかしそれでも、絶対に何もないという保障はアニカにも出来なかった。人による危険もそうだが、何よりこの町は森と生きる町。いつ森の獣が侵入してくるか分からない。
しかし両親が心配しているのはどちらかというと〝人〟の危険だ。ファニーは両親やアニカの過保護を受けて育ったため世間知らずな面が強い。フレーダーマオス全土では七歳から十二歳までの間は義務教育期間となっているのだが、その間常に母が、無理な時は父が行き帰り付き添っていたほどだ。元は体調を心配して始まったことだが、成長するたびにそれは「ひとりで出歩かせたら誘拐されるのでは」、という危機感に代わり、その不安はいつも家族に付きまとっていた。
ファニーとの差を思うたびに胸を刺されるアニカもその思いは変わらず、結局彼女を甘やかしてしまう。特に今は、そこそこ離れているとはいえ隣町で誘拐事件が起こっているのだ。一人で出歩かせる気にもなれない。
もっとも、その気持ちの矛盾がまた、アニカには気持ち悪いのだが。
「じゃあご飯食べ終わったら出かけようファニー」
そんな気持ちを押し殺してアニカが笑いかけると、ファニーは満面の笑みを返す。ひとりで出かけることを許されずに文句を言おうとも、結局の所甘えん坊で、家族の中でもとりわけ姉が好きなファニーが喜ばないはずがなかった。
「はーい。急いで食べるね」
「「「ちゃんとゆっくり噛んで食べなさい」」」
「……はーい」
三方から同じ注意を受け、ファニーは少しふくれて返事をする。そんな彼女に、ハインツマン家には楽しげな笑い声が響いた。
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